未来への復讐者
 
 
 
 
 
いない。
リキッドの姿はどこにもなかった。
大した時間差ではない。数秒か、あっても1分。けれども獅子舞ハウスの外に、リキッドの姿はすでにもうないのだ。
走って逃げたのか?ハーレムは首を傾げた。
少なくとも獅子舞ハウスとパプワハウスをつなぐ最短の道をたどれば、そのうち追いつきそうなものだが、薄暗いブッシュの中には金髪頭どころか人の気配すら感じない。回り道でもしたのだろうか。
ハーレムは訝しみながらも歩を進め、ついには海岸へ出てしまった。ここまで来ればもう、パプワハウスはすぐそこだ。
 
飴色に炒られた海岸の砂の上でふと、ハーレムの黒いコンバットブーツが止まった。
きつく締め上げられているはずのブーツの紐は、このところずっとだらしなくゆるんでいる。走ったら脱げそうなほどがばがばで、緊張感のかけらもない。
それでも、その鈍くひかる黒革の靴はあまりにも不吉で、この島の砂が蹂躙されているように見える。
血の生臭さの残るつま先は砂を踏みしめて方向転換し、波打ち際へ向かった。風が強く、海に対面するハーレムのまっすぐな髪はうしろにはためいた。
リキッドの姿を見つけたわけではない。
ハーレムの目の前には視界に収まりきらないほどの巨大な海が、突き抜けるように広がっている。
人もいなければ、船もない。うんざりするほど大量の塩水だ。
うねる、砕ける、打ち寄せて返って行く。たったのそれしか能がない。
朝も夜も何万年も前から繰り返し、何万年も先まで続く永久機関、海。
 
「ケッ、気が狂いそうだ」
 
ハーレムは唾を吐き捨てるように呟くと、背後に近づいていた人物を振り返る。
リキッドはハーレムの後方2メートルの場所に立っていた。どこをどうしたものか、追っているつもりがいつの間にか追われていたらしい。
 
「気が知れねぇな」
 
海から背いた途端、ハーレムの髪が海風で暴れだす。乱れた長い髪で視界がところどころ遮られる。
再会した元部下の青年は、痩せ気味だった4年前よりもうっすらと肉をつけていた。
潮風に唇が荒れているものの灼けた頬の血色は良く、戦場が彼にとってどんなものだったのか、今の健康的な姿を見れば嫌でもわかる。
あまい水色の瞳と青みがかった白のコントラストの目だけが、泥と血と汗にまみれていたあの頃から、そっくりそのまま移植したようにこちらを見ていた。
透明すぎて、彼の気持ちまでもが透けて見えそうな浅い青色。
 
「隊長、頼みがある」
 
「いやだね」
 
ハーレムはぷいとそっぽを向くように、再び海の方向へ顔を戻した。
 
「まだなんも言ってねーじゃんか…」
 
砂浜に視線を落としてリキッドはつぶやいた。
ハーレムの耳にも届くように言ったつもりだったが、自分に向けられた後ろ姿がこちらを受け入れる気配はない。
 
「隊長、このまま何も言わずに」
 
「あー、うるせえうるせえ!」
 
無数の傷を刻んだ重たいブーツがざくざくと砂浜を歩みだす。
話を聞く気はないと、この中年男はまるで子供のように全身でつっぱねているのだ。
 
「頼むよ隊長、頼むから」
 
リキッドはその背中に追い縋るが、ハーレムが自分の望むように歩みを止め、顔を見て話を聞いてくれるという気がしない。
このまま逃げられてしまう、リキッドは白いシャツのはためく頑なな背中に叫んだ。
 
「何も言わずに帰ってくれよ!」
 
感情が高ぶっているせいで、語尾が上擦った。
ひとが泣こうが叫ぼうが、知らぬ顔で打ち寄せ続ける波のように、歩き続けるハーレムの背中も断固として揺るがなかった。
 
「頼むよ…」
 
海風にかき消されそうな声と連動して、追う足が止まりかける。目の奥がつんと痛い。
不意に、ハーレムが振り返った。
まるで自分を見定めるようなじりっとした視線に怯みながらも、リキッドはかろうじてその眼差しを受け止める。
背中を向け、全身で自分を拒絶していた男が今度は一息で距離を詰めてきた。
おもむろに伸ばされた手がリキッドの脳天の髪をぶっきらぼうに鷲掴む。
暴力の予感に思わず身を竦めたリキッドの顔にそっと、影が落ちる。
 
「なっ」
 
ハーレムが何をしようとしているのかリキッドは一瞬で理解した。
くちびるを相手のくちびるにつける、というその行為は隙がありすぎて、うといリキッドにも反射の速さで確信できた。
そして、かたく誓った自分の決心がぶれそうになったことも。リキッドはそれを恥じた。
 
「ッ…!」
 
電撃はなによりも疾い。
湿度の高い南の島の空気を、まさに光速で切り裂いて炸裂する青白い稲妻に、反応できる人間はいない。
髪の焼ける臭いがする。
至近距離で放たれた電撃を避けきれるはずもなく、ハーレムは舌打ちした。
痺れた皮膚の感覚はすぐに消えても、電撃のショックで急に速められた鼓動はそう簡単にはおさまらない。
リキッドはというと、自分で放った電撃に自分で痺れでもしたかのように、呆然と固まっていた。
ハーレムに、いや特戦部隊の仲間に自分の電撃を放ったのは初めてだった。
百戦錬磨のハーレムが、4年も実践を離れていたリキッドの電撃を避けることができなかったように、その特殊な技はいわゆる「反則技」なのである。
特戦部隊は全員それぞれの特殊能力を持っているが、それを仲間に使う事を暗黙のうちに禁じている。
お互いの面子と誇りを守るため、仲間内には使わない。チームで動く部隊内では必要不可欠のルールだった。
マーカーが激昂して炎を使う事があるが、相手はロッドに限られている。それでも信用のゆらがない彼らの関係は特例なのである。
現にリキッドは過去に仲間から数々の拷問を受けはしたが、能力を使われた事だけは一度もなかったし、また使うこともなかった。
その電撃をリキッドはハーレムに放った。
罪悪感を振りはらおうとするように、リキッドは声を荒げる。
 
「め、迷惑なんだよ!愛してるなんて言われてたって、今っさらどうしようもねーじゃんか!いいから帰るまで、黙ってろよ…」
 
高ぶりか、動揺か、怖れか、声が震えている。
 
「いやだっつってんだろーが」
 
海風で乱れた髪をかきあげながら、ハーレムはリキッドとは対照的にドスを効かせた威圧的な声でこたえた。
秘石色の目の奥で、怒りが揺れている。
 
「テメー、なンか勘違いしてんじゃねーのか」
 
電撃のために一歩下がった距離をハーレムは再びずい、と縮めた。
低くから這い上がるような圧力に、リキッドは思わず退きそうになるのをこらえる。
 
「俺はな、お前ェを許してはいねえんだよ」
 
ハーレムの言葉に、リキッドの顔からすうっと血の気が引く。
全身が極端に軽く、冷たくなり、足が地に着いている感覚が消えた。
乱暴にノースリーブシャツの胸を引き上げられても、指一本動かせなかった。
 
「どーせ後がつらくなるだけだ、とか考えてんだろうがなァ、だったら余計に言ってやる」
 
リキッドの胸ぐらを握りしめていた手を、今度は打ち付けるようにして突き離す。
 
 
「愛してるぜリキッド」
 
 
俺はお前に復讐しに来たんだ。
ハーレムは口元を歪めて挑戦的に笑った。
 
踵を返して砂浜を踏み、自分のつけた足跡を辿って戻っていく。
海岸ぞいに小さくなっていくハーレムの姿を視界の端に捕らえながら、リキッドは力なくしゃがみこんだ。
 
決して振り向かなかった人が、振り向いた。
それなのに受け入れようとしなかったのは、手に入らないものを想うより、手に入ったものを失う方が怖いからだ。
そっちの方が、傷が深いと予感してるからだ。
深い傷を負ったまま生きるには、自分の選んだ道は長すぎる。つらすぎる。
でも本当に俺が怖いのは、
 
その傷の癒える日が来ることだ。
 
リキッドは唐突に理解した。
10年?100年?もしかすると、案外すぐかもしれない。俺はバカだからな。リキッドは自嘲気味にわらった。
 
「自分のことばっか」
 
隊長はたぶん、もっと怖い。
 
今さらになってやっと、そこまで頭のまわった自分が情けなくなる。
いくら隊長でも、自分のいない未来に干渉することはできない。
俺の選んだ道だ。隊長が選んだ人生だ。納得してる。
だけど、涼しい顔でそれじゃあお元気でと言える程、俺も隊長もできてないのだ。
だから、隊長は愛してると俺に言う。
少しでも深く、数秒でも長く癒えない怪我をさせようとしている。
それが隊長の、俺の未来への復讐。
 
「かせーふ」
 
背後から聞こえたやわらかく幼いその声が、家政婦という文字に変換されるまで少し時間がかかった。
 
「ロタロー…どうした?」
 
いつの間に近づいていたのか、リキッドのことを家政婦と呼ぶ唯一の人間、コタローがすぐそばに立っていた。
思い通りにいかなくて癇癪をおこしている、そんな顔でリキッドを見下ろしている。
 
「家政婦、仲よかったんだァ。あのオッサンと」
 
リキッドの隣へ腰をおろしながら、コタローはふて腐れたような口調で言った。
陽が傾くにはまだ早く、海はまだぎらぎらと光っている。
パプワやチャッピーの姿は見当たらない。何をしにここへ来たのかはわからないが、コタローは一人らしい。
柔らかそうな金髪が海風に靡く。
 
「別によかねーよ。前にちょっと…いじめにあってただけだ」
 
再び海に視線を戻してリキッドは言った。
子どもの前で、普段通りの声がちゃんとに出ているか不安だった。
 
「ふうん」
 
コタローの大きな目は、リキッドの横顔を見上げたまま離れない。
あの男と同じ一族特有の蒼い目に何もかも見透かされてしまいそうで、リキッドは落ち着かない気持ちになった。
 
「あんなオヤジのどこがいいワケ?」
 
「…は?」
 
リキッドが隣を見ると、コタローはうつむいて自分の足もとをじっと睨んでいた。
靴の先が苛立たしげに砂をかき混ぜている。
 
「いいトシしてなんかハシャいでるしさ、酒臭いし、タバコ臭いし。
年くってるだけでいいとこないじゃん」
 
おいおい、お前の叔父だぞ…という言葉を飲み込んで、リキッドはコタローの真意を汲み取ろうとその幼い横顔を見守った。
もともとの肌の色が白いせいか、陽にあたる生活をしていなかったせいか、コタローの顔は慣れない日焼けで火照ったような色をしている。
 
「もう!なんでって聞いてんの!!」
 
その小さな顔がもう一度こちらを向いた瞬間、リキッドの瞼は突然の砂つぶてを浴びて、閉じざるを得なかった。コタローが投げつけたらしい。
 
「ぶわッ!あにすんだこの」
 
仕返しの砂を握りしめた瞬間、リキッドは静止した。
ちいさすぎる唇の感触に、思わず呼吸を止める。
ささやかな息づかいと、じんわりと感じる体温の高さが、少年の幼さを物語っている。
柔らかい感触のなかに多少の違和感。唇にも、砂がついている。
口付けてみたものの、その先を考えていなかったというコタローの戸惑いが、触れた唇から伝わって来た。
指の隙間から、握り締めた砂がさらさらと逃げ、リキッドはその手でがばりとコタローを抱きしめた。
 
「ちくしょー」
 
か細い肩に顎を乗せて、リキッドはつぶやき、一粒だけ涙をこぼした。
コタローは抱きすくめられ、驚いて人形のように何も言わず、おそるおそるリキッドのシャツを握りしめる。
 
「お前が俺のファーストキスだぞ。バァーカ」
 
すこし鼻のつまった声でリキッドがそう言うと、やや間をおいて、コタローがぷっと吹き出した。
 
「ホントにもてないんだね、家政婦」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
end.