黒革の首輪
 
 
 
 
 
部屋の前で足音が止まり、ロックされていたドアが横にスライドする。
この部屋は薄暗く、廊下は明るいため、床にはくっきりと影がうつった。
"犬"だ。
 
「ご機嫌いかがァ?」
 
"犬"はわざとらしくおどけた口調でそう言うと、部屋に入り後手でドアを閉めた。密室になっても、嵌め殺し窓からの弱い月明かりで完全な暗闇にはならない。
この巨大な船が離陸して30分あまり、雲は多いが月が出ているようだ。高度何千メートルの夜にあるのはエンジン音だけだ。
犬は私のそばに膝を折ってしゃがむと、靴底の砂でざらつくリノリウムの床に直接、手にしていたステンレスのマグカップを置いた。
大きくはないカップに、もったいぶったように水が半分だけ入っている。
そのカップのすぐそばには、黒革のかたまりが冷たく横たわったままだ。
私を拉致した長い金髪の男が、くれてやるとばかりにそこに放り投げた。そして言ったのだ。これは"首輪"だと。
 
「俺の犬のな」
 
拉致されてから数時間、今からほんの数十分前のことだ。
それにしても。
私を戦力として吸収したいのならば、もう少し上手い言い方がありそうなものだ。あれでは挑発しているようにしか聞こえない。
そしていま水を持って来た方の金髪は、わざわざかがみこんで床にころがっている私の顔を覗き込んでいる。
 
「ボク、おいくつでちゅかあ〜?」
 
黒革の上下をその身に纏っているという事は、あの男の"犬"なのだろう。
それにしてもこの犬…何かつけているのか?
この甘いような、鼻に抜けるような意図的な香りは、まさか体臭ではあるまい。
肉体だけをみれば屈強の軍人にみえるが、とても軍人とは思えない思考回路だ。
私は数時間前にここへ放り込まれてからずっと、両手首を二重の手枷で拘束され、床に右耳を付けて横たわっている。
その体勢のまま、あからさまに目線をそらした。わざわざイヌと遊んでやる義理はない。
視界に入った犬のブーツのつま先には、生乾きの血痕がこびりついている。
 
「つれねぇの。ちょっとはコッチ見てよ、さっきみたくさァ」
 
おどけた口調とは裏腹に、まるで家畜に付けた番号札でも確認するような作業的な手つきで、犬は私の髪を掴み、無理矢理に顔を上げさせた。
ふざけた色だ。
白人の明るすぎる瞳の色はガラス玉のようで、とても人間の目とは思えない。
そうか…こいつは犬だったな。
 
「おお、コワ…」
 
犬はその浮ついた色の目を見開いて驚いたが、次の瞬間にはまるで待っていましたとばかりに目を輝かせた。
抵抗できない捕虜をからかって遊ぶ。いい趣味だ。
しかし、楽しくてたまらないという男の表情のなかで、瞳の奥だけが固定されたように笑ってはいない。
そうか。この男が何をしに来たのか察しがついた。
ずいぶんと腹をすかせているらしい。今にもよだれをのむ音が聞こえてきそうだ。
 
 
 
 
 
 
入隊以来、初の捕虜だ。 
 
「隊長〜、まさかアレ、特戦に入れようっての?すンげえ手強そ〜」
 
入隊して半年、特戦部隊の出番は大トリと相場が決まっているらしい。任務は全破壊がお約束。だから捕虜を取る必要がない。
今回も「捕虜」と呼んでいるが、実のところはスカウトだったらしい。
最終攻撃の直前に、隊長がどこからか拾って来た。ああ、それじゃスカウトじゃない、拉致か。
東洋人がいくら若く見えるといっても、歳はせいぜい18、9。
中国の、それも閉鎖された民族の法律なんか俺が知るわけもないが、ここへ来た時にはすでに手枷がついていたので、犯罪者なのかもしれない。
もちろん、つけていた枷とは別に、こちらでも頑丈な手錠をかけた。
 
「ああ。ありゃァ、野生の鷹だな」
 
せいぜい鷹らしく、命とプライド、天秤にかけてもらおうじゃねーか。
隊長の後ろ姿は嬉しそうだ。これから毎日が楽しくなるぞ〜そんなカンジ。
まだこの男の下について半年だが、この男はこういう展開が大好きだ。勝つか負けるかふたつにひとつ、そんな状況になると嬉々とする。
ま、その辺は俺も同じなんだけどね。
野生の鷹を飼いならすためにはまず、人間の手から餌を食わせる事からはじまる。
人の手のひらから餌を食った鷹は実に忠実に働くというが、半数は人からのほどこしを決して良しとはせず、餓死するそうだ。
隊長はそれに例えたのだろうが、果たしてあの若い鷹は自ら首輪をはめるだろうか?
天秤は初めからおおきく傾いているような気がするが…。
 
「カワイソ〜。なぁんか青っちろいし、身体がもつかねェ」
 
「オラ、あんま油断こいてんじゃねえぞ。艦に入れたからにゃ逃げられるわけにはいかねーんだからな。しっかり見張っとけ」
 
勝手に艦に入れたのはアンタでしょうが…という常識が通じない事は、この半年あまりで学習済みだ。
俺は心臓のうえに握った拳を当てて、背筋を伸ばし、わざと大げさに敬礼のポーズを取ってみせた。
 
「アイ、アイ、サー」
 
こんな時は適当におどけて、サッサと逃げ出すに限る。
 
 
 
俺達の艦はすでに中国を発ち、あと2時間もあれば日本支部へ到着する。
つまり、あの捕虜が生きて祖国の地を踏む可能性はすでにゼロになっている。もし可能性があるとすればそれは、彼がみずから"首輪"をつけた後のハナシになる。
アレがただのいたいけな若者だとは、俺も思っちゃいない。
まだガキみたいなツラなのに監禁の次は捕虜と来たもんだ。枷という道具を持って服従させられ、家畜同然の扱いを受ける。尊厳もへったくれもあったもんじゃない。
それもここはガンマ団の船だ。
これまでの監禁生活がどんなモンだったのかは知らないが、今度は監禁だけではすまされない事くらいわかっているハズだ。
 
つい数十分まえ、彼は床に無気力に転がりながら、暗色の目だけを動かして床に落ちた隊服を見、その次に隊長を見た。
その目は、不当な扱いを受けている事にたいする激しい憎悪でもなく、相手に不快感を与えようとするための軽蔑の眼差しでもなかった。
獣は闘いたくないからこそ、うなる。睨むことや嘲ることは怯えの裏返し、生命の危機を感じている証拠だ。
けれど彼の目はただ少し「見た」だけだった。
そしてすぐに視線を外した。
信号機の青色を認めるように隊長を見、そのままの速度で道を渡るように視線を外した。
堅牢な手錠で拘束され、敵国と呼んでもいい船の床にたったひとり転がりながら。
諦め?自分の運命に嫌気がさして自棄になっているのか?
けれど彼の顔は生気に満ちているとはいえないが、なげやりには見えない。
自棄、というよりは今にも吹き消されそうな自分の命を、静かに、クールに、遠くから眺めている。俺にはそんな風にみえた。
精神力を鍛える事はできる。ここまでなら耐えられるという忍耐の敷地を、少しずつ少しずつ広げていくのだ。
そうすれば自然と絶望の面積が減る。絶望が縮まるとその分タフになる。
けれど、あくまで縮める事しかできない。火種のように残った零コンマ1ミリの絶望は、いま彼の置かれたような状況になると爆発的にひろがり、精神を支配する。
だから、彼にもあるはずなのだ。
どうすることもできない悲劇的な状況に、こころの底から崩れ落ちてしまうような火種が。
でも、それがまったく見あたらない。
俺はふと、あの目はただ黒いのではなく、底が見えないほど深いから黒いのではないか…そんな風に思った。
死んだ、そう思った。
そうとは知らずに踏み出して、足下の思わぬ深さに気付いたあの時のように、生きた心地を一瞬、失った。
あの中国人はただ一瞥しただけにすぎない。隊長の顔を、ほんの一瞬だけ。俺を見てさえもいない。
けれど俺の胸に、ドスッと何かが突き刺さった。
切れ長の瞼の中で黒い瞳をほんの少しずらす、その一瞬のあいだに打ち込まれたその何かが、俺のなかから消えなかった。
 
あの目を俺に向けて欲しい。
 
俺のなかにじわりと沸き上がった染みのような欲望は、またたく間に全身を濡らしてしまった。
 
 
 
日本支部到着まで1時間と少し。
土足の床のうえに、打ち捨てられたマネキンのように、彼は先ほどと少しも動くことなく横たわっていた。
今にも死にそう…というワケではなさそうだ。ならば余計な体力を消耗しない為か?まだ少年と呼んでもいいような外見をしているのに、この期に及んでこの冷徹さ。異様だ。
隊長はとんでもなく無秩序だけど、目だけはとびきりいいらしい。なるほど彼はさぞかし優秀な軍人になるだろう。
 
あの目でさえ感情豊かだったと思えるほど、いま完全に表情を消した彼は、陶器で出来た人形のようにつめたく堅い。
近づいてみても警戒するどころかこちらを見ようともしないのは、俺を格下だと判断しているからか?
わざと神経を逆撫でするように扱うと、ようやく注意をこちらに向けてくれた。
 
「おお、コワ…」
 
やっぱりそうだと思った。この瞳は黒色ではなく、何も見えないの黒だ。
その目に直視されるプレッシャーもさることながら、目頭からまなじりにかけて剃刀ですっと裂いたような鋭い瞼のラインに、全身の毛が逆立つほど鳥肌が立った。
 
マジで怖えぇ。
 
コイツがまったく恐怖を感じてないところが怖えぇ。この世のものではない何かと向かい合っているような気分だ。今すぐ逃げたいと細胞が俺をせっついている。
だけど…その恐ろしさがあんまり期待通りで、思わず顔が笑っちまう。
俺は怖えぇ、怖えぇと心底ビビリながらも、その真っ暗な淵を覗き込むのをやめられなかった。もう少し、と身を乗り出す。
あと少し深い場所が見たい。
もう少しだけ、違う顔が見たい。
例えば…
そう考えたら思いっきり喉が鳴った。
 
じゃら
 
二重の手錠の、2本の鎖のたてる音が薄闇に響く。
ひとつはガンマ団特製、どっしりとした鋼鉄の手錠。
もうひとつは乳緑色の石でできた、一見翡翠の腕輪にしか見えない手錠。
この石の手錠は彼が最初からはめていたものだ。
鋼鉄と翡翠、その2本の鎖が、白く薄い中国服のみぞおちに溜まる。
右耳を床につけて横たわっていた彼に天井を仰がせたのは、彼の左肩を床に押しつけている俺の手だ。
 
「名前、なんつうの?」
 
答えてくれるとは思ってないが、言葉が通じていないのかと思うくらい、顔のどの筋肉も反応しない。
けれど底なしの黒は、俺を見ている。それだけで脊椎がぶるりと震え上がった。
おそるおそる中国服の裾をたぐって指先を差し込んでみても、彼はピタリと止まったままだった。
身体の自由を奪われた状態で、肌に触れるなと抵抗することは、正確には抵抗とはいえない。懇願だ。
彼は抵抗しない。ただ、暗く切れそうな眼差しだけが俺を責めている。
 
「いいのかなぁ?ヤッちゃうぞ〜」
 
余裕ぶっておどけてみせても、マジになりすぎて上手く笑えやしない。
童貞を捨てた時の緊張感どころじゃない、今はなぜか命を賭けているような気分になっている。
震え上がるほどビビっているのに、下半身が火照ってどうしようもないってのも初めてだ。
俺は荒い動作で2本の鎖を掴み、彼の頭の上で床に押さえつけた。
グレーのリノリウムに散った黒い髪は、弱い月明かりでも充分に艶を乗せている。
両腕を頭上に拘束された彼の、動じない視線とは裏腹に、身体は無防備に俺にさしだされていた。その身体を覆う白い布地を、一気にまくり上げた。
なすがままに曝けだされた彼の、白い腹と胸。
ほそいが緻密な筋肉がびっしりとついていて、滑らかに張り出した胸筋が、呼吸にあわせてかすかに上下する。
暗さに慣れた目に、うすく白い皮膚を透かしてみえる血管の青。
まだこんなにあったのかという程ありったけの血が、どっと下半身に集まった。息は動いてもいないのに荒くなり、頭にはまっしろい霧がたちこめた。
俺は思わず頭を振った。
こういう肌が特に好みだったわけじゃない。いや、むしろ今の今まで逆だった。
肌は健康的に日焼けしている方がエロいに決まっているし、胸も尻もできるだけ張り出しているのがいい。
けれど今この一瞬で、俺のなかの何かがひっくり返されつつある。自分でも知らなかった裏側が見えてきて、俺は動揺してる。
冷たい顔が、俺を見ていた。彼のその視線を浴びている事に、身体の細胞ひとつひとつが狂喜している。
灰色の床に白い脇腹のラインが浮かび上がる。黒い髪とのコントラストも、雲から出たらしい月の明かりでより鮮明になった。
大音量で自分の唾を飲む音を聞いた。
そっと触れる。肌は意外なほどあたたかい。肌に触れてみてやっと、彼が生身の若者なのだと感じることができた。
起伏のある腹筋の稜線を辿り、肋骨の形を指で確認する。
彼の乾いた皮膚にふれて、自分の指先が汗ばんでいることに気付く。
おそるおそるだった指先が、徐々に大胆に肌をもてあそぶようになっても、彼は完全にノーリアクションだった。
皮膚の感覚と、顔の表情がどこかでぶっつりと途切れているかのように、表情にはすこしのさざ波も立たない。
ただレンズのように俺を監視しつづける。
ためしに唇を寄せて薄い皮膚を吸ってみても、身じろぎひとつしなかった。
けれどある瞬間、不意に、黒い石のような目が液体のように揺れた。
見間違いかと思うほどほんの一瞬だけ、視線が逸れたのだ。痕跡を探すように彼の顔をのぞきこむ。
視線に気付き、彼はばつが悪いとばかりに改めて俺から目を逸らした。
あんな顔、見せるつもりなどなかった。不本意だ。そう言うように、悔しげに唇を結んだ。
 
「ねェ、こっち見てよ」
 
口のなかが乾いて、舌がもつれそうだ。
俺はできるだけかわいくお願いしたつもりだったが、彼は一度逸らす、と決めた視線を今度はかたくなに戻そうとはしなかった。
どうしてもこっちを見て欲しくて、小さめの乳首を意地悪く抓ってやると、表情は再び、彼の制御をたやすく越えた。
痛みをともなう肉体への刺激は、高潔な彼の顔を処女のように歪ませた。細い眉を寄せた顔は、心なしか血の色さえ感じる。
俺は夢中になって彼の肌を舌と、唇と、指先で愛撫した。さらさらと乾いていた肌にうすく汗が浮いてくるのが嬉しくて、普段女にするよりもずっとしつこくした。
今までまったくと言っていいほど感じなかった彼の息づかいが、俺の耳にも届く。それでもその息を殺そうと耐える姿の強情さは、最初からは予想できなかった可憐さで目眩がした。
俺は彼の肌から唇を離すと、たまらず自分のレザーのパンツの前を解放した。
 
「口でして?」
 
荒い息まじりの俺の言葉を聞いて、彼の顔がギシリと固まる。むき出しの動揺の表情が、彼の本当の年齢を物語っている。
黒い目は俺の顔を見る前に、俺の露出した下半身に向かった。眉間に刻まれた皺さえ、俺を煽りに煽る。
もっと深い皺を刻ませたい、その顔をもっと歪ませてみたい、その薄い唇に早く。
どんなにあどけなく喘いでしまっても、やはり彼は彼だった。黒い絹糸のような髪を掴んで、小さな頭を促すように押しつけても抵抗をしなかった。
 
「噛まないでね」
 
唇が触れる前にそう言うと、黒い目が俺を見上げて一瞬、笑ったような気がした。ぞっとした時には手遅れだった。
 
 
 
「ちょ…ス、トッ…プ!」
 
彼の潔癖そうな薄い唇が、くわえた瞬間に豹変した。
冷たそうな唇のなかは内臓の熱さで俺をつつみこみ、薄くやわらかい舌はどこをどうしたら男が狂うのか知り尽くしていた。
舌先で、熱い息で、時にはとがった歯で、場所をかえて。まるで俺の意識の空白に狙って打ち込むように、意外な瞬間に意外な刺激をあたえてくる。
脅えた舌の感触や、困惑に滲んだ黒い瞳を期待していた俺は面食らい、ただ彼の熟練した手管に耐えることしかできなかった。
表情を楽しむ余裕どころか軽いパニック状態の俺を、容赦のない彼は俺はあっという間に追いつめてしまった。
 
「アァ、やべぇ…ちょ、ちょっと…」
 
俺の腰で揺れる黒髪の艶が清楚すぎて、自分の下半身に与えられ続ける強烈な快楽と一致しない。
そのかよわげな髪を掴んで引いてみても、彼は床に這いつくばったまま口淫をやめようとはしなかった。
それどころか彼の口からは、わざと出しているんじゃないかと思うくらい淫らな音が漏れ続け、俺の頭蓋骨に反響しまくる。
どっちがどっちを襲ったのか、混乱するほどの貪欲さで彼のはげしさが増し、俺は髪を掴む指に力を込めた。
こみ上げてくる波を意地のようなもので耐え続ける、かすみのかかった俺の頭には、男の精気を吸いつくして殺すという悪魔がよぎった。
もう、いいや…悪魔でも。
 
「うゥ…、で…」
 
限界は突然やって来た。決壊するように、彼の口のなかで達した。心臓の鼓動がこめかみで響く。
彼は舌の動きを止めても唇を離そうとしなかったので、俺はすべてを彼の口の中に出し尽くすことになった。
紅く血の色の浮いたまぶたを伏せたままじっとやり過ごし、やがてゆっくりと俺を解放した彼は、ごくんと咽をならした。
 
「え…なにお前、飲ん、じゃったの…?」
 
あまりにもブッとばした急激な射精で、俺は貧血のような目眩を感じながら、彼の黒い髪を人差し指で撫でた。
彼はもういちど口のなかのものを飲み込むと、優等生のような唇を、仕上げのようにぺろりと舐めた。
 
「大サービス…。でも逃がしてはやれないよ」
 
やっと落ち着いて来た呼吸でそう言うと、彼は黙って俺の目の前に両手首を突き出した。
右手の人差し指の爪で、左の翡翠の手錠をコンコンと叩いて示す。こっちを外せと言っているらしい。
なりゆきでそうなっただけで二重の手錠にとくに意味はない。ガンマ団の手錠をかけているのだから、ひとつ外すくらい全然問題ない。
ないが…ないからこそ、なぜその華奢な手錠を外して欲しいのかがわからない。外したところで状況はまったく変わらないのだ。
 
「ン…?怪我してたのか?」
 
翡翠の輪は、彼の手首に巻き付く蛇のようにぴったりと密着していて、その触れた部分の皮膚がぐるりと赤黒く火傷のように爛れていた。
この石の手錠は体に害を及ぼすのか?まるで拷問のように?
どんな仕組みで皮膚が火傷をするのかは謎だが、どうすれば外すことができるのかは偶然わかった。
両方とも1ミリにも満たない小さな穴がひとつずつ開いていて、おそらく針かペンの先のようなもので強く押し込めばいいのだ。
構造は簡単だが、鎖が短いため自分では外せないのだ。
 
「ちょっと待ってね〜」
 
襟についた隊章をはずしてピンを穴に押し込むと、腕輪の金の細工が蝶番の役割をして、翡翠の輪は半円と半円に別れて開いた。
手首が解放されると心から安堵したような、ほそく長いため息が頭上から聞こえた。
じわじわと皮膚を焼くらしい拷問から、たった今解放された白い手首は、痛々しく変色している。
もう片方も同じように外してやると、突然、天から聞いた事もない声が降って来た。
 
「御苦労」
 
それが"彼"の声なのだと気付いた時、ガンマ団特製手錠のいかつい鎖が溶岩色に染まった。鋼鉄の鎖がぼろりと崩れるようにちぎれる。
 
「しまっ…」
 
こいつ炎を使う、そう気付いた時には部屋中の壁という壁を炎が駆け上がり、天井を舐めた。
 
「隊長、逃げられたァ!!!」
 
彼の姿は竃の中と化した部屋のどこにもなかった。
溶け落ちたらしいドアが、ライオンのくぐる火の輪のように、炎にふちどられてぽっかりと口を開けていた。
とにかく叫んで立ち上がると、同時に艦がおおきく揺れ、どこかでどよめきが起こった。
 
マズイぞ〜。
 
今何時だ?
艦の高度がだいぶ下がっていることに今さらながら気付いた。着陸間際だ。俺は火の輪をくぐって、入口へ急いだ。
 
それは衝撃的なシーンだった。
艦の入り口は…入り口がなくなるほどの大きな穴が開いていた。
特殊装甲の外壁は消滅し、風が吹き込み、穴の外には人口の光がちりばめられた日本の夜景が広がっている。
高度は下がっているが、幸いまだ飛び降りる事ができるほどは低くはない。
彼はほぼ正円にあいた穴の淵に手をかけて、こちらを牽制するように立っていた。
 
「バカが。外しゃあがったな」
 
彼に向かい合って立つ、隊長の背中が言った。
びゅうびゅうと吹き込む風で、たてがみが盛大に暴れている。
 
「聞いてないッすよ〜」
 
あの翡翠の手錠は炎の能力を閉じ込める為のものだったらしい。
ここにも彼を守るように炎がたっぷりと撒かれ、吹き込む空気がオーブンの中のような熱い。
確かに外したのは俺だが、隊長も知っていたのなら一言教えておいてくれても良さそうなものだ。
 
「ロッド、手ェ出すなよ」
 
「わかってますって」
 
ここまで炎の規模がでかいと俺の風はまったくの逆効果で、炎を増幅させてしまう。俺の失敗だが、ここは隊長にまかせるしか術がない。
 
「よう、これでわかったな?オメーがどんな速さで逃げようと、俺が背中からコレで撃つぜ」
 
艦の横腹にあいた風穴を背に立つ中国人に、隊長は挨拶でもするように右の手のひらを上げて見せた。
マンマミーア。どうやらあの穴は隊長があけたものだったらしい。
確かにガンマ砲は弾丸とは違って炎で溶かすことができない。
この男はそれを見せつけるために、カノン砲のような破壊力をもつその眼の力を、自分の艦にぶっぱなしたらしい。
俺をまんまとハメてくれたクールな中国人は、強風に煽られた黒髪で表情が読みにくいが、視線の強さからいって余裕しゃくしゃくというわけではなさそうだ。
たとえ死ぬとわかっていても、躊躇なく飛び降りそうな男だよな。さてどうするものやら。
やることのない俺は、たまたま積んであったワインの木箱に腰をおろした。中身は俺の好きな白らしいがこの熱気じゃ、もう中身はダメかもね。
 
「観念しろや。逃げたとこで、帰る故郷はもうねえしな」
 
隊長の言う通り、彼が炎を使うのならば、彼の故郷はもうどこにもない。それは多分、彼がいま初めて知る事実だ。
 
「どういう事だ」
 
彼の声を聞くのは二度目だ。少年のような顔だがやはり声は大人のもので、どこか威丈高な感じがする。
 
「どうもこうもねェ。一族全滅どころが山ごと全破壊だ、なんせここは特戦部隊だからな」
 
隊長は"特戦部隊"の部分をヤケに強調して言った。
響きだけ聞けばたいそうなものに聞こえるが、実質、特戦部隊はまだ俺と隊長の2人だけだ。"部隊"と呼んでいいものかどうかすらアヤシイ。
だが全滅は間違いない。
特殊な一族…炎を使う彼の一族の住む地域があったため、特別に作戦を組んだのだ。
彼は攻撃直前に隊長に拉致られたから知らないだけだ。
 
「嘘だ、どうやって」
 
彼の黒い目はとても信じられないと、隊長を探るように凝視している。
 
「炎を使えば使うほど、コイツの風に巻き上げられて一網打尽だ」
 
隊長は俺を親指で指し示すと、得意げに、そして楽しくてたまらないというように笑った。"遺族"を前にあんまりな言い方だが、事実なんだからしょうがない。
黒い目が、俺を見た。しかし黒い淵のようなあの目ではなかった。
俺の覚悟した「一族を皆殺しにされた」視線でもなかった。
「こいつが?」そう言っているようなその顔は妙に幼く、憎しみも拒絶もなく、ひたすらに驚きしかない。
 
「ならばなぜ、私だけここへ連れて来たのだ」
 
視線を俺に固定したまま、唇だけを動かして、彼は今度は俺に疑問をぶつけてきた。
なぜだって?そんな事は俺に聞かれたってわかるわけがない。
拉致ったのは隊長で、隊長はむちゃくちゃな思いつきで行動するし、隊員である俺はそれに付き合うのが常だ。なぜか、と問われればそれは。
 
「まあ…特戦部隊だからっしょ」
 
 
 
 
 
 
数時間後、彼…マーカーは意外なほどあっさり、むしろ自ら進んでレザーのジャケットに袖を通した。
彼の執着した故郷での目的は、俺と隊長が果たしてしまったらしい。
 
だからマーカーは手錠をはずし、黒革の首輪をつけた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
end.