負け犬ギャンブラー
 
 
 
 
 
リキッドは自分の前に配られていくカードを為す術もなくただ見ていた。
いや違う。配られるカードの前に強制的に座らされているのだ。
 
「ポーカーたって、賭けるカネなんか持ってねーよ!」
 
「リキッドちゃんにカネなんか期待してないって〜」
 
ロッドが軽いのは性格だけであって、リキッドをソファに押さえつける腕の力は決して軽くはない。
押さえつけられでもしなければ、無一文のリキッドがポーカーのテーブルにつくはずがないのだ。
テーブルの上ではマーカーの古傷ひとつない白い指が、慣れた手つきでトランプを分配していく。
ゆったりした中国服を着たその姿は、まるで襖絵のように優雅でやさしげに見えるというのに。
 
「安心しろ、身体で許してやる」
 
唇の端をつり上げ、喉の奥で笑う様はまるで蛇だ。
マーカーは同僚4名の前に各5枚ずつのカードを配り終ると、残りをトンとそろえてテーブルの真ん中に置くと、背筋をすっと伸ばし、言った。
賭ける金がないのなら、労働力を賭ければいい、と。
どこかで聞いたような物言いだが、マーカーはそれほど横暴な事を言っているわけではなかった。
マーカーの提案はこうだ。
金のないリキッドには火器の手入れや各部屋の掃除、報告書の作成やマッサージ、等々、それらの労働を金のかわりに賭けてもらう。
それならばこちらにもメリットはあるし、何より
 
「お前も少しは小遣いが必要だろう?」
 
見透かすようにマーカーは言った。
 
「…クッソ、俺が勝ってもカネはちゃんと払えよな!」
 
リキッドはそう言って、目の前に散らばった5枚のトランプカードをつかみ取った。
強制されて何かをやるのは気に食わないが、マーカーの言う通り、上手くいけばオッサン共から小遣いをせしめることができる。
リキッドも"労働力"を賭ける以上、おそらくイカサマはないだろう。
ゲーム自体は純粋なポーカーなのだから、ルールは下っ端のリキッドにも平等である。たしかに悪い話ではない。
 
「始めるか」
 
持ち札のチェックをし終えたGが、テーブルの上に裏返したヘルメットをごとんと置いた。
そこへ皆、参加費である紙幣を入れていくのだ。リキッドは手近にあったメモパッドに「靴磨き3回分」と書き、ベットした。
 
 
 
特戦部隊の艦で勤務しているガンマ団員がその部屋を訪れた時、移動時間を持て余した隊員達は、私服で賭けポーカーに興じていた。
 
「失礼します」
 
世界中を飛び回るこの艦に、正確な日付と時刻は存在しないが、目的地に時計を合わせれば21時すぎという所だ。
眠るにはまだ早く、かといって空の上の娯楽は限られている。
酒好きの彼らはすでに缶ビールをあけていたようだが、どちらかといえばゲームに熱中していたようだ。
 
「オ?なになに」
 
上機嫌で答えたのは一番古株のイタリア人隊員だった。
どうやら勝ち越しているらしく、支給のトレーニングパンツの腰には、踊り子よろしくユーロ紙幣が何枚も挟み込まれている。
なぜか彼は隊服を脱ぐと上着を着ない。鍛え上げられた上半身は常に裸だ。
 
「もしよければ」
 
右手に持ったシャンパンボトルと左手に持ったアルミのトレイを見せると、半裸のイタリア人は突然の差し入れの意図をすぐに理解してくれた。
嬉しそうにテーブルの上の空きカンをよけ、ボトルとトレイを置けるだけのスペースを作ってくれた。
せっかくの良いシャンパンだが、あいにくシャンパングラスなどは艦に積んでいないので、いつものステンレスのマグに注ぐなり、瓶に直接口をつけるなりは適当にやってもらうことにする。
特戦部隊には、ガンマ団の士官学校を出た、いわゆるエリートコースはひとりもいない。
一族である隊長以下全員が、現場の叩き上げ部隊だ。歴戦の傭兵部隊と言ってもいい。
そのベテラン揃いのなかで、たったひとりだけ士官学校生のようなアメリカ人隊員がいる。
 
「チョコレートだ」
 
彼は負けが込んでいたようで固い表情をしていたが、アルミトレイに並べられたさまざまな形のチョコレートを見て、少しだけ表情をゆるめた。
本来ならばハイスクールに通う、いわゆる子供であるが、純粋な戦闘能力ではやはりそこらの団員とは格が違う。
いくら部隊内でみそっかす扱いをされていても、彼にはそのレザーのスーツに身を包むだけの力を持っている。
しかし、チョコレートでほころんだ顔だけをみると、やはり子どもだと思ってしまう。
 
「馬鹿馬鹿しい」
 
白人ばかりの部隊でたった一人のイエローが言った。
特有の冷たい顔立ちは、賭けポーカーにもアルコールにも熱くはならないようだ。
彼はチョコレートやシャンパンを嫌悪しているわけではない。
ただ今日のこの日に、わざわざチョコレートを用意して食べる、その行為をバカバカしいと言いたいのだろう。
 
「そォ?気が利くじゃねえの。戦場にもイベントは大事大事」
 
チョコレートに罪はないし、イタリア人はそう言って、ココアパウダーのかかったトリュフチョコレートをひょいと口に放った。
 
「あっ、バレンタインデーか…今日」
 
少年隊員はその指につままれたチョコレートが何を意味するのか、今気付いたらしい。
支部があるせいか、バレンタインにチョコレートという日本のお遊びは団内では割とメジャーなのだが、入団して一年かそこらのアメリカ人の彼には、馴染みがないのだろう。
ところが、今日がバレンタインデーだと知った途端、彼はナッツの乗ったミルクチョコレートをなんとも難しい顔をしてじっと見つめた。
若者はバレンタインデーに何か思うところがあるらしい。
 
「ハーレム隊長はまだこちらには?」
 
軍議を終えてここでくつろいでいるのだろうと当たりをつけて来たのだが、あの大柄な獅子ま…ハーレム隊長の姿はない。
チョコレートは必要ないかもしれないが、シャンパンは届けねばなるまい。
 
「ああ、隊長室だ」
 
中国人が口をつけたシャンパンボトルを受け取りながら、ドイツ人隊員が言った。
いかにも軍人然とした彼は、何月何日にチョコレートを食べようが、酒を飲もうが、まったく興味がないといった様子でシャンパンをあおった。
態度はそっけないが、実は彼が一番親しみやすい。
個性的に過ぎるこの部隊の中で「軍人然」を保つのはおそらく至難の技で、彼はこの部隊の良心といえた。
 
「そうそう、隊長っていえば気になってたことがあんのよ、リッちゃん」
 
イタリア人が新しい話題を投入したところで、無事バレンタインという余興を運び終えたガンマ団員はたまり場であるその部屋を退室した。
 
 
 
「隊長室に呼ばれていたようだが、何かあったのか」
 
ロッドの「気になってたこと」の後をGが続けた。
歴戦の三名は作戦の打ち合わせなどで呼ばれる事はあるが、下っ端のリキッドが隊長に呼び出される事といったら説教くらいなものである。
なんだかんだと言っても彼らは年下のリキッドを気にかけており、何か問題でもあったのかと心配しているらしい。
 
「べつに。コール」
 
一方、若いリキッドは親の心子知らずといった風で、ぶっきらぼうに答えた。
チップ代わりのメモ用紙を新たにちぎり、銃の手入れ3回分と走り書くと、銃創のついたヘルメットになげやりに入れる。
 
「別にってこたないっしょ。ホントはなんかやっちゃって、絞られてたんじゃないの〜」
 
おにーさんに話してごらんよ、リキッドを肘で突きながらロッドもコール。
 
「おとついの夜は、隊長がお前の部屋を訪問したようだな」
 
思わぬ言葉に驚いてリキッドが目を上げると、正面に座ったマーカーの口元が勝ち誇ったように歪んでいた。
彼が笑う時、それは必ず頭に「意地悪く」という形容詞がつくのである。マーカーは「意地悪く」あとを続けた。
 
「G、あれは確か、夜中の2時はまわっていたな?」
 
「ああ、2時半だ」
 
「そんな夜中にィ〜?ってリキッドちゃん…?もっしもーし」
 
リキッドがもし、ほんのすこし機転のきく人間だったなら「任務のことで相談があった」だとか、「おとついは酔った隊長が押しかけて来ただけだ」などと澄ました顔で言うのだろう。
しかしそんな芸当ができる人間は、ポーカーでここまでの大負けはしない。
ポーカーどころかババ抜きでさえ、リキッドがジョーカーを持つと、必ずと言っていいほど見破られるのだ。
「あきらかに挙動不審」リキッドとババ抜きをした者は口を揃えてそう言う。
しかも肝心な時にはジョーカーをじっと見つめてしまうものだから、どのカードがジョーカーなのか教えているような親切さである。
リキッドがジョーカーを手にした時、それは即ち「負ける時」なのである。
 
「坊や、熱でもあるんじゃないのか。顔が赤いぞ」
 
普段はたいして喋らないくせに、こんな時だけマーカーは饒舌だ。
しかも勘のいい中国人はかなりの確信を持って自分を揺さぶっているように見える。
もしや証拠を掴まれているのではないか、リキッドの目の前が危うく暗転しそうになる。
 
「おんやあ、言えないようなコトなのかなあ?2人っきりでアヤしいな〜」
 
隣に座ったロッドはカードを持ったまま上半身を前に倒して、リキッドの顔を覗き込んだ。
なにか言い返さなければ、言葉で身を守らなければ。
いくらそう焦っても、この事態を挽回できるような気の利いた一言など全く思いつきそうにない。
何も言わないということは、肯定に等しいというのに。
みるみる追い込まれて行くリキッドの表情を見ていたロッドの顔も、やがて真顔に変わった。
 
「えっ…マジで…?マジでおまえ、隊長とヤッてん」
 
「ちちちちっげえーーよッ!!たっ、たまたまだよ!」
 
 
……
 
………
 
「ロッド、賭けは私の勝ちだ。払え」
 
沈黙を破ったマーカーは、そのあと悠々とカードを1枚チェンジして、コールした。あとはカードをオープンするだけだ。
 
「ウッソだろ〜!え、ホントに?たまたま…隊長とヤッ、ちゃっ…たの?」
 
ロッドはマーカーを無視して、リキッドに喰らいついた。もはやカードのオープンなどは物のついでだ。
 
「あ、いや…」
 
リキッドは自分の失言に動揺し、口ごもった。
なんたるマヌケ。違うと否定したはいいものの、直後に「たまたま」と付けてしまっては意味がない。
真実を突かれ、焦って嘘をつきましたと言っているようなものだ。
それが自分でもわかっているからこそ、次の句が出ない。
 
「なんならテメーで確かめてみたらどうだ、ロッド」
 
テーブルのメンバー以外のその声は、部屋の入り口に立つハーレムのものだった。
先ほど軍議を終えたハーレムは、まだ私服に着替えてはおらず、ジャケットを脱いだだけの格好のまま片手にシャンパンボトルを持っている。
話を聞いていたらしく、下品な笑みを浮かべていた。
 
「ま…ま〜じっすかあ〜」
 
突然のご本人登場にロッドは一瞬面食らったようだったが、すぐに気を取り直し、リキッドの肩に手をまわして抱き寄せてみせた。
 
「じゃあお言葉に甘えて」
 
「ふ、ふざっけんなッ!!誰がっ、お前なんかッ」
 
リキッドは自分がまたも失言を吐いたことに気付かず、あわててロッドの腕を振りほどいた。
揚げ足を取るのが上手なのは、何もイタリア人だけではない。
 
「残念だなロッド。坊やは隊長ひとすじだそうだ」
 
マーカーは鼻で笑うと身を乗り出し、ロッドの腰にはさまれた紙幣をすべてふんだくった。
このポーカーとは別の"賭け"の勝ち分というわけだ。リキッドの純潔に賭けたロッドががっくりと肩を落とす。
幸い、ポーカーの方ではロッドのフルハウスが最強だった為、破産は免れたようだが。
 
「な、なに言って…」
 
噛み付こうとして初めて、リキッドは自分の言った言葉の恐ろしさに気付いた。
ハーレムとの関係をなかば認めさせられた上で、ロッドに「お前では嫌だ」明言することは「ハーレムならば良い」と同意義語だ。
最早リキッドの力では修復困難な状況に陥っている…というよりも自分自身の口でゆきだるま式に悪化させているとしか思えない。
正直者が得をするのはやはり、美談の中でだけらしい。
 
「あんだ、マーカーひとり勝ちじゃねえか」
 
ハーレムはそんなリキッドにはおかまい無しに、ギャンブルという名の戦場を眺めた。
ポーカー自体はロッドの一人勝ちだったのだが、それが別の賭けによって覆されたため、獲得金額でいえば今やマーカーの独走状態である。
 
「隊長もやりますか」
 
ギャンブル好きのハーレムが、賭けポーカーに参加したくないはずがない。そう思いGはハーレムを誘ったが、ハーレムは意外にも首を横に振った。
 
「俺ァこっちに賭けるわ」
 
ハーレムは尻のポケットから二つ折りにされた茶封筒を取り出すと、そこから適当に紙幣をつまみ出し、ポットであるヘルメットにバサリと入れた。
隊員達が覗き込むと、折り目のない1万円札が10枚。…大金だ。
ハーレムは封筒を財布がわりにしているのか、その茶封筒は隊員達へ渡される給与袋と同じものであった。
 
「あっ、それ俺の…」
 
出かけたリキッドの言葉をねじ伏せるように、ハーレムは言い放った。
 
「リキッドが勝つ、に10万」
 
「!」
 
リキッドが負け続けていることは一目瞭然だ。いや、一目すらしなくともリキッドという人間を知ってさえいれば、わかる事である。
それでも敢えてリキッドに賭けるのは、ハーレムが根っからの
 
「ギャンブラーっすねえ〜」
 
ロッドはあきれたように笑って、持ち金の半分を「リキッドは負ける」に賭けた。
マーカーもGももちろん「リキッドは負ける」に賭けるだろう。
金を賭けるスリルはもちろん楽しいが、それでもなるべく損をせず、できるだけ稼ぐ方法に頭を巡らせるのが正常な精神だ。
100分の1の確率に賭けられるのは、正常からはみ出した精神状態の、いわば"ギャンブラー"という名の病気にかかった者だけなのだ。
ハーレムがGとマーカーの賭け金をむりやり上げさせようとしている間に、ロッドはプレッシャーで顔面蒼白のリキッドに内緒話をするように顔を寄せた。
 
「てかさあ、おまえダイジョーブなの?」
 
「…え」
 
「隊長スゴそうじゃん、セックス」
 
10万をすったハーレムに、どんな恐ろしい仕打ちを受けるのかという、悪夢のような妄想で頭が一杯になっていたリキッドは、ロッドが何を言っているのか理解できなかった。
ロッドは真顔のまま続ける。
 
「隊長でかいしさぁ、ドSじゃん。身体こわされねーの?」
 
そう言ってロッドはリキッドのTシャツの襟を指でひっかけ、覗き込むふりをした。
 
「ばっ…」
 
上司とのセックスについて同僚に問われた時、どんな顔をすればいいのかリキッドにはわからなかった。
とにかくそれは、童貞だとバカにされるよりもずっと、恥ずかしく、動揺した。
 
「ばっかじゃねえの」
 
リキッドは目線をむりやりテーブルへ戻し、オープン済みのカードをかき集めてる振りをした。顔が熱いのは自分でもよくわかっている。
ばっかじゃねえの。その続きは言えなかった。
 
「おらリキッド、勝たなきゃ減俸だかんな」
 
「ハア?もう減らしようねーじゃんよ…」
 
ばっかじゃねえの、何にもわかってねーよ。
こわされるなんてとんだ見当違いだ。そんなのだったら俺だって二度とやろうなんて思わねーよ。
隊長は…やさしいんだよ。あの時だけは別人みたいに。
だから俺は、いつも混乱するんだ。
 
 
 
「オラ、いつまで寝てんだ」
 
リキッドがぼんやりと隊長室の天井を眺めていると、声と一緒にボックスティッシュの箱が飛んで来た。
 
「いでっ」
 
何も考えずに投げるものだから、箱はリキッドの裸の腹に落ちた。いくら紙箱とはいえ角が刺さるとなかなか痛い。
リキッドはもそりと身体を起こす。
革ジャケットの背中に書類や封筒がはりついていたらしく、バサバサと机の上に落ちた。
ハーレムの机はリキッドが背中をあずけて寝転がれるくらいに広いが、いつも散らかりっぱなしなので、必然的に大事な書類や文書の上に寝ることになる。
ハーレムは気持ち良さそうに煙を吐き出しながら、リキッドが腰掛けた机とセットの椅子にどかりと腰をおろした。
ジッパーは上げても、シャツの裾は出したまま、雑な手つきで机の上を復元し始める。
もともと散らかっていた上で情事に及んだため、その乱れ方はいまや尋常ではなかった。
机の上はもちろん、絨毯の上にまでコピー用紙や封書類が落ちている。ハーレムはとりあえずそれらを拾い集め、机に乗せた。
 
「灰皿取れ」
 
机に腰掛けたままのリキッドの背中側で、ハーレムは溜まりに溜まった書類に、くわえ煙草で目を通し始めた。この際に一気に片付けてしまおうというわけだ。
リキッドは自分のそばにある、いかつい灰皿をハーレムの前に置くと、自分の腹に散った体液をティシュペーパーで拭った。
 
「ケツどかせ」
 
今度はリキッドの尻の下に敷かれたA4サイズの封筒を引っ張っている。
リキッドは仕方なく机から降り、足下にたまっている下着とレザーパンツを引き上げた。
ハーレムは封筒をばりばりと豪快に開け、ざっと斜めに目を通している。
 
(もう"隊長"になってる)
 
リキッドは身支度を整えながらその様子を眺め、思った。
行為の直後のこの瞬間、いつも5分前のことが信じられなくなる。
セックスの最中、隊長はとてつもなく優しい。無理は絶対にしないし、自分だけでなくちゃんとにリキッドの快楽も追ってくれる。
何よりあの強い青がとろけるようにやさしく見るのだ。まるで自分がハーレムにとって特別な存在になったような錯覚さえする。
けれどそれは錯覚だ。この瞬間に思い知る。
 
「煙草くれよ」
 
リキッドの言葉に、ハーレムは顎だけで答えた。
示した方向には紙巻き煙草の箱が転がっている。セブンスター。
ハーレムは酒と同様、煙草にもこれでなくてはというこだわりを持っていないが、日本支部へ寄った時には必ずセブンスターを数カートン仕入れている。
リキッドはそのソフトケースには手を伸ばさずに、ハーレムのくわえ煙草を奪った。
 
「こっちでいいよ」
 
どうせ一本も吸わねえし。リキッドは代わりにケースをハーレムの前に放った。
吸いかけのセブンスターの、白いフィルターをそっと銜える。
ハーレムはどんなに優しくとも、キスはしない。絶対にしない。
新しい煙草に火をつけて、面倒くさそうに書類や封書を片付けていく上司を、リキッドは煙ごしにぼんやりと眺めた。
次々に封を破り、目を通し、必要か不必要か選別する。
いらなければ捨て、必要なら目を通す。
性に合わないと言いながら、ハーレムがずっと続けて来たデスクワーク。
破いた封筒の亀裂が縦に入ろうが斜めに入ろうが、ハーレムは気にしない。中身の書類を取り出すとガリガリとサインをし、脇によける。次。
大雑把にふるまいながら、線を引く所はきっちりと引く。それが大人なのだろうか。
 
「隊長って、いくつだっけ」
 
いままで漠然と大人だとは思っていたが、はっきりとした年齢を知らなかった。
17歳のリキッドにとっては、自分よりもとにかく年上であれば、何歳でもあまり大差はなく、どうでもよかったとも言える。
 
「あ?39」
 
同時にふと、ハーレムの手が止まった。
手にしている封筒は、文書サイズほど大きくはなく、よくある業務用の縦長の物でもなかった。
それはまるでクリスマスカードでも入っていそうな、白くこぎれいな封筒だった。丁寧に赤い蝋で封がされている。
ハーレムはその封筒を開けもせずに、まっすぐに机の引き出しにしまった。そして何事もなかったように次の封筒を破く。
 
「いや、40だな」
 
長くなった灰をガラスの灰皿に落として、ハーレムは訂正した。
自分の父親よりも4つも年上だったという驚きよりも、無条件に引き出しにしまわれたあの白い封筒の方が、リキッドの心には引っかかった。
手元に向けられていたハーレムの両目が、すい、とリキッドを見る。
見られた、と思ったがハーレムの視線はリキッドの顔を通り越して、後の世界時計に向かっている。
ハーレムは書類整理の手を止め、煙草をもみ消して立ち上がると手袋を填めた。
今日は終日移動だが、明朝からの任務について軍議があるのだろう、あわただしくシャツの裾をしまって、ジャケットを着、部屋を出ていった。
隊長のいなくなった隊長室に、リキッドのくわえた煙草の煙だけがゆらゆらと漂う。
4つの時計の秒針が競り合うように自己主張を始めた。
それはとても簡単なことだった。
誰もいない、何の障害もない絨毯の中をくわえ煙草でたった数歩だけ移動し、鍵のかかっていない引き出しを引く。
あっけないほど簡単に、リキッドはあの白い封筒をみつけた。そして同時に驚いた。
白い封筒は、何十とあったからだ。
それは狐につままれたような不思議な光景だった。
引き出しの中には、無造作に折り重なった白い封筒以外、なにも入っていなかった。
封筒はどれひとつとして開封されてはおらず、すべて赤い蝋でシーリングされている。刻印には見覚えがあった。
 
「青の一族…」
 
それはハーレムの一族のしるしだった。
ハーレムの様子から一瞬、”謎”のようなものを感じていたリキッドは、肩すかしをくらったような気分になった。
謎の手紙どころか刻印入りの封蝋のそばには、しっかりと差出人のサインもされていた。
 
"兄・マジックより"
 
それらはすべてガンマ団総帥から、弟であるハーレムにおくられたものらしかった。
封筒のデザインや紙質は微妙に違うが、どれも手紙というには薄く、やはりカードだとか、パーティの案内状だとかのような薄い紙が一枚入っているくらいの厚みだ。
 
(なぜ開けないんだろう)
 
ハーレムと近しい人間から来た手紙だからこそ、開封されていないことが逆に異様だった。
総帥からの書簡はよく来るものだし、団のロゴマーク入りの封筒が屑篭に捨てられていることだってある。
封筒のもつ雰囲気と、名前に「兄」を冠していることから、マジックは総帥としてではなくプライベートでこのカードをハーレムに送ったのだろう。
 
(開けて見る必要がない…それか見たくないとか?)
 
しかし開けもしないのにこうして何十枚としまってあるのは何故だ?
捨てようと思えばこのままごっそり掴み上げて、その屑篭に入れるだけなのだから、捨て忘れではないだろう。
捨て忘れどころか、この引き出しはまるで金庫だ。この白い封筒専用の、金庫。
見ればずいぶん色のかわってしまったものもある。手に取ってみると押された消印は20年前のもので、偶然にも団の検印スタンプの日付は今日と同じだった。
封筒の数からいって、年に一度くらいの割合で送られてきているらしい。
当時は黒かったであろうインクは、20年という月日で青く退色してしまっていたが、今とまったく変わらないマジックの筆跡で「親愛なる弟へ」そう書かれていた。
 
(弟…)
 
長男であるマジックの弟はハーレムひとりではない。
次男は若くして亡くなっているらしいが、もう一人いる。見た事はないが、隊長と双子らしい。
名前はサービス。
マジックはその「弟」にもやはり、このカードをおくっているのだろうか?
 
「お〜いリキッドちゃ〜ん!どこいった〜」
 
同僚の自分を呼ぶ声にハッとして、リキッドはあわてて封筒を戻し、引き出しをしめた。
 
(見てはいけないものを、見た)
 
後悔が、ピタリと背中に貼り付いた。罪悪感とは違う。
いつもの見慣れた風景のなかに、巨大な怪物の尻尾を見てしまったような恐怖が、リキッドの背中に迫っていて、まるで追いかけてくるようだった。
足音から逃れるように煙草を消して、隊長室を出る。
 
あれは、なんだろう。
中のカードには何と書かれているのだろう。
隊長はなぜあれを捨てずにしまってあるのだろう。
 
恐ろしい予感がするのに、リキッドは白い封筒から思考を引きはがすことができなかった。
それにひとつだけ、わかる事があった。あれは、あの封筒は、
 
"ハーレムの大切なもの”だ。
 
兄からおくられたカードを大事に引き出しに保管しているハーレム。
それはリキッドの知らない顔だ。
何事にもこだわらず、即物的で雑なハーレムが、紙切れごときを「何十年も大切にしまっている」?
 
ハーレムの顔が、うまく像を結ばなかった。
よく知っている上司の顔が、記憶のなかで霞んでなぜか思い出せない。
 
「おう、いたいた!ちょっとお兄さん達と遊ぼうぜ〜」
 
ポーカーやったことあるだろ?同僚は朗らかにリキッドの腕を取った。
 
 
 
これがラストゲームだと、空の上のギャンブラー達は皆理解していた。
二重の賭けが同時進行するこのゲームに賭かった金は、これまでの最高金額だったからだ。
 
「俺、いーの揃っちゃった」
 
そんな子ども騙しの台詞も、今のリキッドを追い込むには十分役にたった。
実際、ロッドはポーカーが強いのだから、あながちハッタリではないのかもしれない。
だとしたらロッドは何を揃えたんだろうか。マーカーは、Gは?俺のこのカードで彼らに勝てるのだろうか…?
考えれば考えるほど、負けるイメージしか浮かんでこない。
 
「坊や、降りてもいいんだぞ」
 
マーカーのこの台詞は決して親切心から出たものではなく、単なる嫌がらせだ。
確かにこれがただのポーカーならば降りる、という選択肢もあっただろう。
しかしポーカーと同時進行で行われている「リキッドが勝つか、負けるか」という賭けは、もはやリキッドの意思だけで降りることはできないのだ。
降りたら、負けだ。
 
「大丈夫か」
 
大丈夫ではないことくらい、Gもわかっている。わかっていてもそう言わざるを得なかった。
10万という大金で、リキッドという大穴を一点買いしたハーレムが、無言のプレシャーをかけているのだ。
もともとプレッシャーに弱い新人は、いまや見るに耐えないほど真っ青になっていた。
リキッドは追いつめられた表情で、強敵たちの手に握られたカードを再び睨みつけた。
 
「いくら見たって、人のカードは見えねぇだろーが」
 
チョコレートのトレイに手を伸ばしながら、ハーレムが笑った。
その言葉を聞いて、リキッドはふと、場違いなことを思い出した。
引き出しのなかの、見えないカードだ。
トランプから目を離してハーレムを見ると、チョコレートを頬張るハーレムは楽しそうに自分を見ていた。
ハーレムは金を賭けてはいるが、それは元々リキッドの給料である。
リキッドが勝とうが負けようが、実際の所ハーレムの懐は一切痛まない。ハーレムにとってはこんなもの、スーパーマーケットの抽選クジとたいして変わらないのだ。
そのくせ自分は引き出しの奥に、大切に何かをしまい込んで、隠している。
 
(汚ねぇよ、自分ばっか)
 
ハーレムはそういう安全圏から悠々、自分を眺めているだけにすぎない。必死になって右へ左へじたばたしているのは、いつだって俺だけだ。
リキッドは特攻前の兵士のように、ぎゅっと目を瞑った。
 
「どうだ、降りるか?降りてもいいぜえ」
 
余計なものを排除した視界に、ハーレムの声が響く。
リキッドにとってその声はとても憎らしく、とても。とても。
 
「…降りねーよ」
 
わざわざ言葉におきかえてそれを眺めてみなくとも、リキッドはわかってしまった。
あっけないくらい一瞬で、いままで説明のつかなかった苛立ちや不安に、名前がついた。
そうか、俺はずっと。
 
「ぜってー降りねえ」
 
リキッドはより強い口調でそう言うと、一枚ずつちぎってチップ代わりにしていたメモパッドを、まるごとヘルメットの中に投げ込んだ。
一瞬の沈黙ののち、ロッドが賞賛の口笛を吹いた。この追い込まれた状況で、みずから上乗せをするという、リキッドの蛮勇を讃えたのだ。
リキッド自身、なぜそんな事をしたのか自分で驚いた。やけくそ、そうだ。俺はやけくそになっているんだ。
 
「んで?お前は何を賭けんだ」
 
これは愉快とばかりに目を輝かせたハーレムが言った。
リキッドもハーレムを見た。
もう心の内を透かして見ようとは思わなかった。いくら見つめても、見えないカードは見えない。
リキッドのまなざしを受け止めながら、早くしろよと答えを急かすようにハーレムは片眉を上げた。
 
「何でも、好きにしろよ」
 
リキッドは挑むように、反発するように言った。
むくれた顔は負けず嫌いな少年のようだったが、本当はもう白旗をあげていた。
 
降参だよ、降参。
 
ちくしょう。一体いつからだったんだろう。
やけくそとも、なげやりともつかないような気分で、リキッドは溜め息をついた。
じつに今更ながら、リキッドは自分の気持を認めることができた。
ずいぶんと前から変わらずそこにあった”らしい”感情を。
気付いたことが良い事なのか悪い事なのかと言えば…もしかしたら後者なのかもしれない。
何しろ、リキッドはジョーカーの存在に気付いた途端、負けるのだ。
しかし、気付いてしまったが最後、もうそれを無視することはできない。
負けがわかっていながら尚、意識して、振り回され、死ぬほど悩むのだろう。
そう、ゲームが終わるまで。
 
(ジョーカーというよりは、ナマハゲだけどな)
 
リキッドはあらためて、現実のトランプカードを見た。
自分自身をまるごと賭けてしまった運命のカードはなんと"ワンペア"だった。
それは誰でも知っている、ポーカーにおいて最弱のカード。
それでも、乗ってしまったからにはもう降りられない。
負けるとわかっていても賭けきるしかない。リキッドにはそれしかできないのだ。
 
「どうせ負けんだろ」
 
一番重症なギャンブラーは、俺なのかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
end.