逆転勝利の夜
 
 
 
 
 
 
 
嫌だな。行きたくねぇな。
 
「ねえ、なんでよ。何で僕らは行っちゃいけないのさー」
 
「何でっつっても…大体ロタロー、オヤジは嫌いだって言ってたじゃねーか」
 
リキッドは湯気の立ち上る鍋に蓋をかぶせると、もう片方の手でエプロンの結び目をほどいた。
 
「大っ嫌いだよ!でも…なんで家政婦はよくて僕らはダメなのさー…」
 
今夜これから、リキッドの元同僚達が、島のビーチでやるという飲み会がある。
コタローは何もオヤジ達の開催する宴に是が非にでも参加したい、というわけではない。
むしろ誘われたら断るに違いない。
しかし先に向こうから「ちみっこは参加禁止」と言われたとなると、意地でも行ってやりたくなる。要するに天の邪鬼だ。
それに、自分の気に入っている青年が、おっさん共に横取りされた気がして面白くないのもある。
 
「どーせ、酒飲んで暴れるだけだって…行っても面白くねーぞ。
それよっか、夕飯にロタローの好きなポトフ、たっくさん作っといたゼ」
 
リキッドはエプロンから首を抜くと、小さな王子の顔を覗きこみ、くせのないサラサラの金髪を子犬にするような仕草でくしゃくしゃとかき混ぜた。
 
「ああもう!やめてよー」
 
コタローは髪を乱されながら、自分に預けられる形になったエプロンを投げつけた。
 
子供達にいつもより少し早めの夕食をとらせて、リキッドがパプワハウスを出ると、夕方とはいえ外はまだ明るかった。
戸締まりはしっかりな、そう言い残してドアを閉めた途端、リキッドの顔は「保護者」から「後輩」へと変わる。
笑顔を消し、ため息をつく。
 
ああ、気が重い。
 
心の中は行きたくない気持ちで一杯だが、身体は仕方なく海に向かって歩き始めた。
誘いに来たロッドの話では、昼間ヒマつぶしに海岸にキャンプファイヤーを組んだから、夜はそれに火をつけて酒でも飲もうぜという企画らしい。
 
キャンプファイヤーか…。
という事は火あぶり…。
 
リキッドは立て続けに溜め息をついた。
息を吐き出すことでこの胸がすこしでも軽くなればいいが、海に近づけば近づくほどに気分は沈む一方だ。
ちみっこたちを呼ばなかったのは、元同僚としてのせめてもの情けなのだろうか…?
いや、むしろそれは今夜は子供達には見せられないような…
 
ハァ…
 
もちろん、リキッドの憂鬱の種はそれだけではない。
ハーレムに会いたくない。
なるべく考えないように努力してはいるが、家事や子供達から離れ、こんな風に一人になるとダメだ。
せっかく乾いた船底にみるみる水が浸入してくるように、リキッドは一気にその思考に沈みかけ、引きずられてしまう。
 
(いやだっつってんだろ)
 
あの男はあの時たしかにそう言った。
自分に復讐をしに来たとさえ言った。
しかしハーレムはあの時以来、ピタリとあの言葉を言うのをやめたのだ。
 
なに考えてんだか、わけがわかんねーよ。
 
心の中で幾度となく繰り返したその悪態は、リキッドの気を晴らすどころか、煤けさせる一方だ。
いくら気のない振りを装っても、本当はがちがちにこだわってしまっている自分に腹が立ってくる。
ああ、できれば何もかもを放り出したい。何もないところへ行ってしまいたい。
顔を会わせなくて済む方法があるなら、何でもするのに。
 
「リッちゃ〜ん!こっちこっち」
 
夕焼けの海岸で、イタリア人の元同僚が何も知らずに手を振っている。
そんなに大げさに手を振ってくれなくても、ロッドの居所はイヤでも目に入った。
特戦が暇つぶしに作ったというキャンプファイヤーは、リキッドが思っていたものよりもずっと大きかったのだ。
まだ太陽の色が残っている夕暮れの空に、すでにごうごうと燃え盛っているキャンプファイヤーは、まるで季節外れのクリスマスツリーのようにはしゃぎすぎて見えた。
 
「でっかすぎじゃねーの?」
 
同僚達のもとへ到着したリキッドはまずそう感想を述べた。
近寄ってみると放たれる熱気と明るさのせいで、炎はさらに大きく感じた。
このキャンプファイヤーに見合うだけの人数を用意しようとしたら、その時はきっと大型バスが必要になるだろう。
 
「デカいにこしたこたーないっしょ」
 
ロッドはそう言って何かを拾い上げ、リキッドの手に握らせた。
馴染みのある感触、そして懐かしい重さ。
それはリキッドがかつて好んで飲んでいた、アメリカ生まれの炭酸飲料だった。
この島では手に入れることのできない、その缶入り飲料のパッケージは、リキッドの記憶とはすこし違っていた。
売り場に並べられ、競争に勝つことを第一としたパッケージのデザインが、4年の間に多少変わったとしてもなにも不思議ではない。
だがしかし、もしかするとリキッドが忘れてしまっただけなのかもしれない。
本当はなにひとつ変更されていないとしたら?そう言われてみればそうかもしれないとも思えるのだ。
あの頃は機会さえあれば毎日のように飲んでいたはずなのに、今のリキッドはあの時のデザインやロゴマークを、正確に思い浮かべることはできなくなっていた。
 
「艦から救出したのよ。ま、座んなって」
 
特戦部隊の艦は、見事なティラノザウルスによって鉄屑と化したが、いくらかの物は拾い集める事ができたし、回収できなかった物も特殊な海域のこの海では忘れた頃に打ち上げられたりするのだ。
この貴重なペプシもきっとそのひとつなのだろう。
 
「さーんきゅ」
 
イヤイヤ参加したこの会合だったが、かつての大好物を口にできるのなら悪くない。リキッドは素直に礼を言った。
井桁に組まれた巨大なキャンプファイヤーは、同僚達の仕事にしてはしっかりとした物だったが、いささか位置が海に近すぎた。
作っているうちに波うち際が迫って来てしまったのではないかとリキッドは推察する。
たき火の熱が近すぎないくらいの場所に、彼らは宴席を設けいてた。
といっても、温めた缶詰のチリビーンズや果物、マーカーが作ったらしい中華の皿などが砂の上に直接広げられ、ワインが木箱ごと砂浜に運び込まれているだけなのだが。
Gとマーカー、ハーレムはすでにそれらを摘んで、ビールを飲んでいる。
 
「あれ、トシさん達は?」
 
面子が揃うまで乾杯を待つタイプではないが、彼らと心戦組とは隣同士であり、気が合うらしくよくつるんでいる。
一緒に来ているものだと思ったが、和服の男達の姿は海岸のどこにも見当たらない。
 
「今日は貸し切りだ、貸し切り!」
 
ハーレムはそう言って、持っていた缶ビールを振り回した。
すでに酔っぱらいオヤジと化しているハーレムのノリに、リキッドは力が抜けた。
わかってはいたが、いつだって振り回されてぐだぐだと悩んでいるのは自分だけなのだ。
それにしても。
 
「俺らだけか…」
 
5人という人数を見ると、キャンプファイヤーは余計に大きく見えた。
 
 
 
 
 
「ロッド!そのままブリッジしろブリッジ!!」
 
番人になって不死の身体を手に入れたとはいえ、リキッドの下戸はあいかわらずで、たき火の似合う夜空になっても、リキッドは酒を一滴も飲んでいなかった。
しかしどこか夢を見ているような、不思議な感覚には酔っていたかもしれない。
まるでこの4年間が夢で、自分はずっと特戦にいたような、そんな感覚に。
しかしそれと同時に頭の半分では、自分と特戦部隊が違うレールに乗っている事も知っている。
彼らと自分は、同じ駅から出発した行き先の違う列車だ。リキッドは思った。
目的地はどちらも遠く離れていて、出発したらもう二度と会う事もないと思っていたが、思いがけずこの島で再会し、こうして今、同じ時間を過ごしている。
合流したわけではない。ほんの一瞬すれ違うだけだ。
かつて自分の乗っていたなつかしい車体の色を映しながら、列車はスピードを落とす事なく、轟音をたててすれ違う。
これはそういう一瞬だ。
ほぼ全裸になったロッドが浜辺でブリッジを始める頃、ふいにGがリキッドの隣へ腰を下ろした。
Gとリキッドは2人横に並び、キャンプファイヤーを眺めるように座った。
Gは、用意して来た台詞をどん、とテーブルに置くように唐突に言った。
 
「やっていけそうか」
 
ほんの少しの間、リキッドは答えることができなかった。
しかしやがて、アメリカ人らしいしぐさで肩をすくめ、答えた。
 
「まーな」
 
「そうか」
 
リキッドは苦笑した。
4年前の俺は、このおそろしく相槌のヘタクソな男に、よくあんなにもべらべら喋れたものだ、と。
どんな風に何を話せば良いのか、あの時の俺に教えて欲しいくらいだ。
今じゃろくに会話が続きそうもないから。
リキッドは軽くなったペプシの缶を持った手で、鼻を掻くふりをしながら話題を探した。
 
「そっちは…上手くいきそうなのかよ、ガンマ団とケンカすんだろ。
まあ、まずはココ出なきゃだろうけど…」
 
正直リキッドは、同僚達が特戦部隊をクビになったという事実を受け入れきれていない。
理屈ではわかっていても、ピンとこないのだ。
それと同じように、彼らがいつかはこの島を出ると分かってはいても、その日のことがうまくイメージできないでいた。
この島が脱出不可能であることを、番人であるリキッドがいちばんよく知っているせいかもしれない。
けれど、Gの言葉は意外なものだった。
 
「近いうちに出られるだろう」
 
やけに確信めいたGの言葉に、リキッドは思わず顔を向けた。
しかしその無骨な横顔に答えが書いてあるはずもなく、たき火のオレンジ色だけが不規則に揺れていた。
 
「なんかアテが…ああ、ガンマ団がもう来るってことか?」
 
リキッドの頭に浮ぶたったひとつの可能性に、Gは頷き、そしてこう続けた。
 
「今まで来なかった事の方が、不思議だ」
 
ガンマ団本部はこの島まで安全に航行できる技術を、とうに開発しているはずだが、何らかの理由があって来ないのだろうとGは言う。
来られないのではなく、来ないのだ、と。
なんでもあの凶暴で世間知らずな「もう一人のシンタロー」は、とても優秀な頭脳の持ち主だったらしく、彼がアラシヤマ達から送られたデータを入手している以上、開発はそう難しいことではないらしい。
確かに、帰りキップを用意しているだけにしては遅すぎるのかもしれない。
なにしろ刺客達は御曹司を連れ戻すどころか、たったの一人も帰還してはいないのだから。
本隊が島に到着したら、ドサクサに紛れて便乗するか、または小型船をジャックするつもりだとGは言う。
 
「なるほどね」
 
現実的な話だった。
作戦自体は強引かもしれないが、この特殊な海域を克服できる技術がある限り、この第二のパプワ島が「脱出不可能な島」でなくなる日は近い。
リキッドは、夜空に手を伸ばすように燃える炎を見上げた。その奥に広がる銀河も。
Gは、”やっていけそうか”と言った。
妙にはしゃいだ感じの、それでいてやけに寂しいこの宴は、やがて来るその日の為のものだったのだ。
もしかすると4年前の分も一緒くたになっているのかもしれない。
 
「無理はするな」
 
Gは炎を見つめたままそう言った。
4年前にかけられたのと同じその言葉は、"番人"という、途方もなく長い、リキッドの未来に投げかけられていた。
いつか、Gも隊長も誰もいなくなった世界のなかで、俺はその言葉を思い出すのだろうか。
そういや昔、Gという男が、無理はするなと言ってたっけ…なんて風に。
その時俺は、Gの顔をしっかり思い浮かべる事ができるだろうか?
ペプシのロゴマークのように霞んでしまってはいないだろうか?
組まれた薪の中で音をたてて炭がくずれ、火の粉が舞う。
その赤い塵は、積もらない雪のように、闇に溶けて消えた。
本当に、特戦にいた頃はキツかった。
そのうえタダ働きで、何度も泣いて、死にかけた。
嫌で嫌で仕方なかったのに、今はなぜか。
 
「アッチィ!火傷したじゃんか〜薬薬!」
 
ふと飛び込んできた同僚の声にリキッドが目をやると、マーカーに炙られたらしいロッドが、薬を取ってくると言ってふらつく足取りで小屋に向う所だった。
 
「おいロッド!ついでに酒もってこい!オーーーイ!?」
 
ハーレムはロッドの後ろ姿に叫んだが、酔いが回っているせいかロッドが聞き取った様子はない。
バカが…と低く呟いて、マーカーが膝から砂を払って立ち上がった。
 
「私が」
 
マーカーはハーレムにそう言うと、ついでに空いた皿を回収してロッドの後を追った。
1ケースワインがあったような気がしたが、それらは全て抜け殻となり、砂浜に転がっている。
どうせ、かこつけて飲みたかっただけなんだろ。
リキッドは沸き上がってしまった感傷を、そう簡単におさえることができそうになかった。
だからせめて心の中で毒吐いた。
 
「ん…どうした?」
 
立ち上がったGの皮のパンツからぱらぱらと落ちる砂を見て、リキッドは言った。
 
「便所だ」
 
Gはそう言ってマーカーやロッドの向かった方向とは逆方向に歩き出した。
便所といってもわざわざ小屋に戻るわけではなく、そこらの茂みで用を足せばいいだけだ。
Gの向かう方向には用を足すにはちょうど良い林が広がっている。
 
(うわあ…なんでだよ)
 
吹き消しきれなかった一本のろうそくのように、そこにはハーレムただ一人が残ってしまった。
 
「あー…俺も便所」
 
リキッドは下手な演技を打つと、せわしなく立ち上がった。
ハーレムは片膝を立てたあぐらのような格好で、炎をぼんやりと見つめたまま、小さく「おう」とだけ答えた。
わざとらしく立ち上がったリキッドを見抜いているのか、いないのか。ハーレムは無関心にワインをあおる。
 
「隊長」
 
"いつでも便所へ行くことのできる権利"を手に入れたリキッドは、安心感からかひとことだけ、この男と言葉を交わす気になった。
ハーレムはだるそうに目だけ上げて、リキッドを見る。頬や額で炎の影が揺れている。
 
「言うのやめたんっすね」
 
リキッドが言い終わる前にハーレムは視線を前に戻すと、何事もなかったようにワインボトルを口に運んだ。が、壜の口に下唇がふれても、すぐに傾けることはしなかった。
そして言った。
 
「言うなっつったじゃねえか」
 
ハーレムは壜の底に夜空を仰がせ、葡萄酒を流し込む。
 
「隊長、嫌だって言ってたじゃんか」
 
「うるせーな。気が変わったんだよ」
 
壜から唇を離し、たき火を睨みつけるハーレムの顔は、本当に「うるせえ」と思っているように見えた。
せっかく話しかけてみたのに、ハーレムに話をする気はなさそうだった。
すこしでも感傷的になってしまった自分が恥ずかしすぎて腹立たしい。
リキッドはもうここへは戻らないつもりで、砂浜を一歩、踏み出した。
 
「何でもいいぜ」
 
一瞬リキッドの耳が、自分に向けられた言葉なのだと理解しなかった。
その雰囲気を感じ取ったのか、ハーレムはもう一度言い直した。
 
「何でもいいぜ。お前の言う事、ひとつ聞いてやるよ」
 
「…はあ?意味わかんねーよ」
 
もしかして、酔っぱらっているのだろうか。
顔を見た感じではそうでもなさそうだが、ハーレムの言葉はあまりに唐突で難解だ。
何がどうなってハーレムがリキッドの「言う事をひとつだけ聞いてやる」ような心境になったのかが、さっぱりわからない。見当もつかなければ心当たりもない。
ハーレムは、手に持っていたワインボトルをかるく振り下ろすようにして。自分のそばの砂浜に突き立てた。
濃い緑色のガラスでできたその壜は、数センチばかり砂に尻を埋め、ほんの少し傾いたまま、砂浜に自立した。
これで良し、とばかりにハーレムはリキッドを見上げた。
 
「ずっとここにいてやるよ」
 
ハーレムは、そう言った。
なぜだかその表情は(仕方ねえな、俺の負けだ)そう言っているようだった。
そしてその敗北を、すこし楽しんでいるような、困っているようなそんな目だった。
波の音が、炎の音が、音という音が、リキッドの耳から奪われる。
まるで世界が瓶詰めされたように止まった。
 
「ただし俺が、死ぬまでだけどよ」
 
ハーレムの悪戯っぽい声だけが、リキッドの真空を震わせた。
リキッドは、なぜか自分が酷い深手を負ったように感じた。助からない、そう思った。
ざっくりと袈裟懸けに抉られたような、あるいは内臓がすべて吹っ飛ばされたくらいの、そんな負傷だ。
膝まで血でびしょ濡れになっているが、なにかのバランスでたまたま立っている。
ワインボトルを離したハーレムは、両手のひらを後についてそこへ体重をかけるように座った。
立ったままのリキッドをよりまっすぐ見上げる。
 
「まー、お前が望めばだけどな」
 
ハーレムの言葉だけがリキッドのなかで鳴り、そして響いた。
 
(ずっとここにいてやるよ)
 
砂浜につきたてたワインボトルは、少しの衝撃であっけなくぐらりと揺れて砂に倒れた。
深紅の液体がまるで血のようにどっと流れ出て、白い砂に暗い染みを広げる。その上に、ハーレムの長い金髪が散らばった。
どさり、そんな音がしたかもしれない。
ハーレムは背中と後頭部で、やわらかく冷たい砂の感触を感じながら、星空よりすこしだけ手前にある青年の顔を見上げた。
 
「俺は本気だぜ」
 
そんな顔をして押さえ込まなくとも、ずっとここにいると、俺はさっきそう言ったばかりじゃねえか。
笑ってみせたのに、青年は笑ってはくれなかった。
仕方がないのでハーレムは天に向かって手を伸ばし、青年のうなじに触れると、彼の名を呼んだ。
リキッド。
 
「キスしてくれよ」
 
 
 
 
 
はじめて触れたその唇は、誰のものかと思うほど柔らかくて、俺は不安になった。
その人はもっと絶対的で、強くて、殺しても死なないようなものだと思っていたから、その当たりまえのような柔らかさが怖かった。
舌もやわらかく、息もあたたかい。
この人はただの人間だったんだと、俺ははじめて理解した。
唇を離すと、普段の呼吸ではなく、大事に奥にしまっておいたような息を吐いて、隊長は笑った。
 
「初めてにしてはヤルじゃねーか」
 
「初めてじゃねーよ」
 
隊長は、へぇ意外だ、という顔をした。
相手はコタローだけど…一回は一回だ。
俺がずっと隊長を見てきたような目で、隊長が俺を見ている。嬉しさよりも不安が上回るほど、本当にまっすぐ俺を見ているんだ。
隊長は今自分がどんな顔をしてるのか、知っているのかな。どんな気持ちで俺を見てんだろう。
考えてもわからないから、そのまま覆いかぶさって力の限り抱きしめてみた。
シャツについた砂の、一粒一粒の形をつめたく感じるほど、隊長の身体は動物のように熱かった。
火の近くにいたせいかもしれない。少し汗をかいていて、その汗を吸ったシャツの感触が。
何も言わず俺の背中に回された腕が。どうしようもなく俺を突き動かした。
首筋に顔を埋めてにおいをかぐ。のこらず全部吸い込めればいいと願う。忘れたくない。
足りない、と思った。俺が覚えていたいことはまだある。
この人を生かす内臓の発する熱も、この人の肉も、その姿も。
触れておかなければ、見ておかなければならないものがまだ沢山ある。髪の毛ひとすじでさえも、まだこんなに沢山あるんだ。足りない。
一気に焦りが沸き上がる。間に合うのか?すべてを覚えておくなんて事、俺にできるのか?
けれど早くどうにかしなければ、決定的に間に合わなくなる。そんな気がした。
俺は身体を起こして、隊長のシャツの裾をつかんで引っ張りだした。隊長が驚いたように俺を見上げる。
 
「あいつら帰ってくんぞ」
 
「…知るかよ」
 
少し間があって、やがて隊長は笑った。
それどころではないというのに、一方的に笑われるとなんだか面白くない。
けれど俺はもう一度、隊長の言った通り、ここへロッドやGやマーカーが戻って来ることを考えてみた。努めて冷静に考えようとした。
困るか、やっぱり困るかな。
隊長はそんな俺を目だけで笑って見つめたまま、しょうがねえな、と眉を寄せた。
その顔が、一生に一度しか巡り会えないものだった気がして、やっぱり皆がここへ来ることなんかどうでもいいと俺は思った。
きっと、今しかないんだと思った。
俺と、隊長には、"今"しかない。
隊長はもう、何も言わなかった。
 
 
 
 
 
痛けりゃ痛いほどいい。血が流れるなら尚いい。
しかし、苦痛に脂汗を浮かせている俺の顔から、そんな願いを汲み取れるはずもない。
リキッドから、やめた方がいいのではないかという戸惑いが伝わってくる。
 
「もっと奥、いけんだろ」
 
日に焼けた汗の浮かんだ肩を、爪がめりこむほど強く掴んで、俺は言った。
一丁前にオスの顔になった元部下が、ヘタクソな返事の代わりに、より深くに突き込んでくる。
 
「…ッ」
 
余力を残した感じの、気遣った動作が気に食わねえが、そう強がってもいられない。
初めて使うわけでもないが、何の助けもなく使ったことはさすがにない。
まるで神経に直で響くような、内臓への侵入は、今すぐにでも俺の意識をふっとばす事ができそうだった。
腹から息を吐くとすこし意識が冴えて、痛みを感じることができた。
ああ、糞。最高に痛てェ。一生、忘れられねえ。
どんな顔をしてやがるのかと見上げれば、リキッドは顔の半分を炎色に染めながら、やけに張りつめた表情をして俺を見ていた。
グラスに盛り上がった水のようなぎりぎりさで、かろうじて何かを耐えていた。
 
「あんだ、そのカオ」
 
思わず笑うと、同時に大粒のガラス玉が、立て続けに俺の顔めがけて降って来た。
火照った頬につめたいそれは、つたうなんてささやかさではなく俺の顔を濡らした。
目にも入ったが、むりやり目蓋を上げる。見えねえ。炎色の光の洪水だ。
歪んだ視界の向こう側で、リキッドがひきつるような短い声を上げた。
こみ上げる息を無理やり止めようとするような、苦しげな嗚咽も。
続けてまたぼた、ぼた、と落ちてくる。
 
「なに泣いてんだよ」
 
涙の視界は光が強調されて、炎なのか星なのか月なのか、とにかく眩しかった。
手探りで手を伸ばすと、柔らかい毛先に触れた。
髪はこんなにも柔らかいのに、俺にとってこいつの存在はまるで凶器だ。
大怪我どころじゃねえ、俺はこいつに殺されちまった。特戦部隊隊長のハーレムはもう死んだんだ。
 
「どこにも行かねーよ」
 
さっきそう言ったろ、そう言うと再びばたばたと涙が降る。
このままじゃ、いつまでたっても俺は目が開けられねえ。
唇にすべりこんできた涙の味が、俺の胸を絞り上げる。
 
「な…」
 
それだけ発して、あとは声を失ったようにリキッドはまた泣いた。
目蓋を拭って見上げれば、淡い水色の目だけが必死に何かを探して彷徨っていた。
苦しみに耐えるように歯を食いしばり、大きく深呼吸をすると、リキッドは涙声でやっとこさ言った。
 
「なんで」
 
俺は、再び目を閉じた。
いいぜ。続きは俺が代弁してやる。
 
(なんで、ずっとここにいるなんて、そんな事言うんだよ。
隊長は一生、世界を駆け回っていたいんだろ?)
 
どうだ、あってんだろう。
そしてお前が、俺に島に居て欲しいなんて思ってねえことぐらい、わかってんだよ。
それでも俺は”戦場”を賭ける。俺のすべてを賭ける。
それ以外にお前に見合う賭け金が見つからないからだ。
俺の負けだ、リキッド。
 
「なんで、って…お前が言うなつったんだろうが」
 
リキッドはあまりにもダイレクトに意味がわからないという顔をした。
その顔に思わずまた笑った。
お前が俺に言ったんだ。何も言わずに帰ってくれよ、ってな。
だから俺は言うのをやめた。
 
「いいから泣いてねーで、抱けよちゃんと。俺は」
 
俺は、人に愛してるなんて言ったのは、初めてだったんだからよ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
end.