「朗読」





「今日から北アメリカに入るって言っただろうが、この地図何処のだ?あ?言ってみろ、じゃあ小早川」

黒板にかかった大地図を指して、声のやたら大きい中年の地理教師は、名簿を一瞥し、こう言った。

え?僕?なんで??今日の日直、僕じゃないのに…
そう口に出して抗議できる性格を、持ち合わせてはいない少年、小早川瀬那は、
しんと静まり返った教室。一同の視線を一身に浴び、おずおずと椅子をひき、座りたくてしかたない、
といった半腰状態で立ち、

「と、東南アジア…です」

「そーだ。前回まとめの少テストやって、確か終わったはずだよな?
ったくテストも近いのに時間無駄にさせやがって…。じゃあ立ったついでだ小早川、
資料室から北アメリカの地図、持ってこい。」

「は、はい。」
立っていたそのままの足で、席を外れ教室を出る。

「じゃあ、小早川の地図が来るまで、東南アジアの復習、片っ端からあててくからなー。教科書閉じろー」
という教師の声と、不満そうなクラスメイトの声が、廊下に出たセナの耳に届く。

12月の学校は、暖房の入った教室に反比例して、廊下は吐く息が白いほどに寒い。
急激な気温の変化に、セナは「うー、さぶっ」とぶるっと身震いをし、資料室へ向かった。

一見貧乏クジを引いた様にみえる「授業中のおつかい係」だが、セナは結構好きだ。
いつもは生徒があふれかえって、うるさいくらいにぎやかな学校。
授業中の今は教室のドアはすべてぴたりと閉まり、教師の声や、当てられた生徒の声、黒板にあたるチョークの音。
それだけがひやりとした無人の廊下に遠く響く。
なんだか、授業をサボっているようなうしろめたさと、この大きな校舎を独り占めにしたような、優越感。
廊下の冷たい空気を吸い込みながら、資料室のある2階廊下へさしかかった。

この2階は2年生の教室が並んでいる。その廊下の突き当たり、そこが目指す資料室。
上級生の教室のある廊下に、セナはいつもなんとなく緊張する。
パシリにされていた経験からか。それはどうかわからない。
廊下に聞こえる教師の声も、聞き慣れない声だ。
教室の前を通り過ぎるのが、怖いような。
落ち着かない気持ちでその先へ踏み込む。

少なくとも今は、自分をパシリとしてではなく、後輩として頼らせてくれる。
そんな人たちが、この廊下の一直線上ににいる。
それを考えると、心が踊る。

「みんなどんな風に授業受けてるんだろう」
思わず顔がほころんだ。
どんな難しい問題を当てられても、背筋をピッと伸ばして、はきはき答えるまもり姉ちゃん。
必死にノートをとる雪さん。
栗田さんが前の席に座ってたら、黒板全然みえないだろうなあ。
ヒル魔さん…

ここ。

「ヒル魔さんの教室だ…。」
思わず口に出してつぶやいてしまった。
今はどうやら英語の授業の様だ。とてもうつくしい英文の朗読が聴こえる。
一年生の英語教師は、やせっぽちの30男で「あんど あふたー あ ろんぐたいむ」なんて発音で、
もはやあれは日本語だ、などとクラスメイトが言っていた。
2年生の先生はネイティブなんだろうか。2年の内容だからとかではない、
あまりに速く、うつくしくながれるので、何をいっているのかサッパリ聞き取れない。
冷たい廊下に響き渡る、低く静かだけれど、良く通る声。
セナは思わず、冷たい廊下に立ち止まり、うっとり聞き入ってしまった。
やがて朗読は終わり、

「Thankyou mr.Hiruma」かん高い中年女性の声がそう言った。

え?
今、ヒルマって言った?
「ヒルマ」なんて名前この学校、あの人しかいない。

自分でもわかる。足下から一気に全身の血が駆け上がってきたのが。
顔が、熱い。さっきより吐く息が白いような気がする。
なんだか地に足が着いてる気がしない。
あの朗読はヒル魔さんの声だったんだ!

だからって、なんで僕が、こんな。

次の朗読が聞こえる。
つっかかり、つっかかり、自信なせげに朗読をする声。
はた、とセナは我に返り
「そうだ、資料室いかなきゃ。」
なんだかまっすぐ、歩けてないような気がする。


気づいたら、もうHRだった。
あれからセナは地理と古文、掃除の時間を過ごしたが、なにもかもがセナには無意味だった。
セナを支配するのは、あの冷たい廊下で聴いた、うつくしい朗読。意外な声の持ち主。
それと、自分の高い体温、速すぎる鼓動。

「オイ!行こうぜセナ!!…なんだ?具合でも悪いのか?」
教室のドアに立ったモン太のぱん!と張った声。
ふいに声をかられて、セナの体を、さっきとは違った熱さが駆けめぐった。じわりと汗をかくような熱さ。
「ご、ごめん!行こう!!」
セナも負けじと大きな声を出し駆け足で、ちゃんと駆け足に見えているといい、そう思いながら部室へ向かった。

ただ、教室の前を通った。そしたらヒル魔さんの声が聞こえた。
それだけじゃないか。
なのになんで、こんなに拳に力が入ってしまうんだ。
その拳にどうして、こんなに汗をかいているんだ。
モン太が、部室のドアをあける--。

「まだ誰も来てねぇみたいだな。」
部室はがらんと薄暗く、外気よりは多少暖かいものの、冷えた空間だった。
セナは内心ほーーっと息をつき、誰に言うともなく「うん。よかった」と小さくつぶやいた。

「何が良かったンだよ」

心臓どころか、体全体がビクッと飛び上がり、反射的に後ろを振り返る。
振り返ったそこには、前髪がかするくらい近くに、ネクタイを結ばない制服の白いシャツ。
と、上からがっと、強い力で頭が固定される。

「アー? 良 か っ た な !俺様が居なくて、つかの間ホッとできてよ。」
固定されているので顔は見えない。頭上から意地の悪い声が轟く。
「ほ、ほ、ほっとなんて!ただ、せせ先輩より早く着いて良かったって事ですよ!!」
らしくない、いいわけ、大声。わかってるけど。
だって何か言わなくちゃ、大きな声出さなくちゃ、聞こえてしまう。

この、うるさい動悸!

片手で固定された頭を、ぐいっと後ろに倒され、顔を合わせられる。
今日初めて会ったヒル魔さんは、細い片眉を上げ、小馬鹿にしたように口の端も上げ、

「あんだ?糞チビ。オトコの生理か?」
カッと顔が熱くなる。

「ちがっ、違います!離して下さい!着替え、ますから!!」
ふん、と鼻で笑って手を離し、ヒル魔さんはスタスタと部室の奥へ入っていった。

「45点」へ続く