メンエキ。






「セナ、俺今日歯医者だから一緒に帰れねーわ」
こげ茶色のざっくりとしたマフラーを首にまきつけつつ、モン太が言った。
放課後の練習のあとはいつも、着替えてから少しゆっくりしてから部室を出る。
今日はモン太が、ブレザーをはおるとすぐにマフラーに手を伸ばしたと思ったら用事らしい。
「あ、うん。わかった」
僕は椅子に腰掛けたまま、モン太にこたえる。
鞄を背負ったモン太はおつかれしたーと言って、部室のドアを開いた。
11月の冷たい空気が、ドアから流れ込む。
モン太はひょいと外に出てさみぃーー!と声を出し、ドアを閉める。
閉まりかけたドアが開き、再びモン太が顔を出した。
「セナ」
部室では見えなかったモン太の息が、僕の名前と同時に2回、白くはき出される。
「なに?」
「オマエさ、もうちっと予習しとけよ」
モン太の顔は真剣だった。バカにしているんじゃなくて本当に心配してる。そんな顔。
僕は面食らった。確かに成績はあんまり良くない。学年順位はいつも真ん中から下だ。
でもモン太に予習しろと言われる筋合いもない。なぜならモン太も同じような成績だから。
英語だけは確かにモン太にも完敗だ。
今日返された小テストの点数はまだ教えてないはずなんだけど。僕はおそるおそる尋ねた。
「な、何を?」
それを聞いたモン太の、真剣だった表情がゆるむ。
「保体」

「!」

モン太が何を言いたいのか理解した瞬間、彼は勢いよく大きな音を立ててドアを閉めた。
思い出したくない、今日の5時限目のこと。





「センセェー。ボクタチもうオトナなんで説明不要でース」
「それより先生の体験談とかのが勉強になると思いまーっす」
2クラス合同授業。正確にいえば2クラス男子の合同授業。
リーダー格の何人かが、授業中にヤジを飛ばした。
ヤジをとばされた教師は怒ると鬼のように恐ろしいが、普段は話のわかる先生で、
特に男子からの信望が厚い。
年齢は僕たちの親くらいの年齢だけど、職業柄ひきしまった体つきをしている。
その体育教師はチョークを片手に黒板から振り返り言った。
「体験談?俺の経験ではオメーらみたいのがまっさきにオンナはらませて、
短い青春をより短くするタイプだっつーのは確かだ」
教師にかるく一蹴され、ヤジを飛ばした生徒は言葉を詰まらす。
「いいから黙ってノートでも取れ。はい次、避妊」

そう(保健体育)の(保健)の授業。
授業内容は教科書で言うところの72 ページ(男女のからだのしくみ)。
中学の時にも、もちろん勉強したけれど、
授業の雰囲気はこんな感じではなかったなあ、と懐かしく思ったりして。
もっとみんなコソコソしてて、黙って授業を聞いてた記憶があるんだけど。
だけど高校のこの授業では、同じ歳のはずなのにみんなが大人に見えて、
僕はノートを取るのも、黒板を見るのもままならない、落ち着かない。
広げられた教科書の上に、突然ちいさな紙くずがピョンと現れた。
こっそりまわりを見回すと、合同授業のためうちのクラスに来ている、
二つ隣の席のモン太がちらりとこっちを見た。
紙くずはノートの切れはしらしく、広げるとモン太の字で走り書きのような物が書いてある。

(セナ、キョドーフシン!)

ハッとしてモン太を見ると、知らない振りしてノートを取っている。
「コンドームは避妊だけでなく、エイズ感染を99%防ぎ・・・雷門、エイズの正式名称」
どうやら手紙のやりとりは先生にバレていたようだ。
モン太はびっくりしてノートから顔を上げ、素早く立ち上がった。
この先生の授業では、発言するときは席についたままで構わない。けれどもモン太は立ち上がった。
驚いて思わず立ってしまったのかと思ったけれど、そうではなかったようだ。

「後天性免疫不全症候群です!」

モン太は教科書をカンニングすることなく、まっすぐ教師を見てはきはきとした口調で答えた。
さきほどの一部の男子から、オオーと歓声が上がった。
モン太は得意げに両手の手のひらを見せて、まあまあ、と言って席についた。
「小早川、感染経路。5つ」
「ハッ、ハイ」
巻き添えを食うとは思わず、僕は驚いて立ち上がった。立ち上がる必要は無かったんだけど。
とはいえ座るのもおかしいので、立ったままちらりと教科書を見た。
開かれた教科書には運良く感染経路の表が載っており、ひとつずつ見ながら答えた。
「輸血、血液製剤、注射針、母子感染・・・・」
「あとひとつ」
教科書を見ているのは先生にも多分ばれてしまっているので、当然のように急かされる。
「・・・・・・・せ、せい・・こうい・・・です」
今度の歓声は一部の男子じゃなかった。2クラス男子の大半のものだった。
しかもそれは歓声ではなく、爆笑だ。
「イヨッ!小早川!!」
「かーわいー!セナチャン!!」
「たべちゃいたいワ!」
そして一部の男子総動員のヤジの雨あられ。
僕はいますぐ教室を飛び出したい気持ちをなんとか抑えて席に着いた。
ふと顔を上げると体育教師の僕を見るあきれた表情。
「小早川、これは恥ずかしい事じゃねぇんだぞ」
そう言うとジャージの背を向け、騒いでいる生徒の頭をかたっぱしから教科書でこづいた。





できるなら、忘れていたかったのに。
モン太の去ったドアを睨みつけていると、ふと視線を感じそちらを見る。
「な、なんですか」
キーボードを叩くのを中断したヒル魔さんがこっちを見ている。
しかも、いやな顔だ。ニヤニヤというか。
ヒル魔さんはその顔のまま立ち上がり、
僕の所まで来ると座っている僕を見おろし、いや、見くだし言った。
「鬼熊か」
鬼熊というのは例の体育教師の事だ。
本名は熊沢だが、怒ると鬼のように恐ろしいので、通称鬼熊。
「そうですけど、何ですか?」
あんな授業の一場面をヒル魔さんが知っているわけがない。わけがないけど、この人に絶対はない。
ヒル魔さんは長い指で細い顎をなでつつ言った。
「1年の11月2週目の保体の授業内容といえば・・・」
その先は続けず、また笑いを噛み殺した目で僕を見た。

やっぱり・・。
この人情報網って本当にどうなっているんだろう。
というかモン太とのあれだけの会話でそこまで察しがつくこの人の頭ってどうなっているんだろう。
そこまで考えたとき、僕の心臓は跳ね上がった。
さっきまでその細い顎に添えられていた指先が、なんの気配もなく僕のネクタイにかかっている。
彼は目の前に立っているのに、全くそんな動きが見えなかった。

「え?」

僕は驚き、僕の前に立つ彼を見上げた。
なんていうのかな、人間工学とか行動学とかそういう類いのもので計算され尽くしている、としか思えない。
そうでなければ予知能力だ。
僕が驚いて彼を見上げる事を、彼は知っていたに違いない。
顔を上げるのを待っていたように、彼のくちびるが降ってきた。
何度目かのくちづけ。
2週間ほど前に始まったこのくちづけ。
初めてした時も男同士だってわかっているのに、気持ち悪いとか思わなかったことが意外だった。
それからヒル魔さんがまわりに誰もいないって判断した時にだけ僕にしてくれる。
今も、部室には誰もいない。僕達ふたりだけ。
ヒル魔さんの薄くて長い舌が、僕の唇と歯を通り抜けて入ってくる。

僕はこれが苦手なんだ。
こうなると僕の体はびっくりするくらい力が入らなくなってしまう。
抵抗するどころか、抵抗っていう事が頭に浮かばなくなる。
自暴自棄っていうのも変だけど、もう何でもいいやってなってしまうんだ。
そんな風になってしまうのに、くちびるは離れていく。それがつらくて仕方がない。
だからまだ物を考えていられる時から、くちびるが離れる時のことを考えて、せつなくなる。
それに今だって、僕はどうする事もできないんだ。
いちど僕の口の中に入ってきたら彼の舌は、僕の舌も、歯も、頬の裏側も、
全てに触れようとするみたいに動き回るんだけど、僕は何も出来ないんだ。
そうやって今日も、どんどん何も考えられなくなってきた。

けれど僕の意識は突然、現実に戻った。
舌と唇が繋がれているから見えないけれど、僕のわき腹あたりの肌に直に触れるものがある。
僕はボタンを全部しめてシャツを着て、ブレザーを着て、ネクタイをしている。
なのにこの感触はシャツ越しのものじゃない。
それに今わき腹を這い回っているものは、たぶん、手、だと思う。
僕の頭は違う意味で何も考えられなくなった。いや、考えすぎで混乱したんだ。
どうしてヒル魔さんの手がいつのまにかシャツを通り越して、肌に触れているのか?
なぜ触れるのか?
今までとは比べ物にならないくらい、体のずっと奥の方がなぜ、こんなにも熱いのか?
僕は夢中でヒル魔さんの胸を叩いた。声も出そうともがいた。
ヒル魔さんのくちびるがゆっくりと離れる。
こんな気が動転しているにもかかわらず、くちびるが離れて僕はまた切なくなった。
「なに?」
くちびるを離してすぐ、ヒル魔さんが言った。
その質問に答える前に、僕は自分の状況を確認した。
信じられない事に、ネクタイはほどかれ、シャツのボタンはいちばん下の2つを除いて全て外れていた。
その開かれたシャツの間に、僕より筋肉質で僕より白い腕が入り込んでいる。
その白い腕の主がネクタイとボタンを外したことは、多分間違いない。

「す、凄い・・・」

その状況を目の当たりにした僕の口から出た言葉はこんな事だった。
「ア?」
なんの事だと言わんばかりに、ヒル魔さんがのぞきこむ。
「全然、気付かなかったです」
僕は外されたシャツのボタンをつまんでみた。
タネもシカケもないなんの変哲もない、ボタンだ。
僕のわき腹に添えられていたヒル魔さんの指先が、
触れるか触れないかくらいの軽さで、わき腹から胸へ滑った。

「・・・!」

くすぐったい。
くすぐったいのは確かだけれど、そう言い切れない何かがあった。
熱いんだけど、寒けがするみたいな、初めての感覚。
鎖骨、胸、腹を彼の手が掠める。

わかった。
くすぐったいんじゃなくて。

「・・・っめて下さい!」
思いきり張り上げるはずの声が裏返ってしまった。
切羽詰まった僕の声にヒル魔さんの指先がとまる。
「・・・・嫌か?」
はっとしてヒル魔さんを見上げると、気遣いと情熱のいりまじった真摯な瞳があった。
「・・・だめですよ」
僕の声は今度は驚くほどちいさかった。
その瞳を、見ていられなかった。
「気持ちわりィか」
やさしい声だった。その声も聞きたくなかった。
「わるくないです」
悪いわけない。僕はうれしかった。
ヒル魔さんが僕の身体に手をのばせば、くちびるが離れても彼の指が触れてくれる。
でも。

「だめです」

ここで負けてはいけない。ここで負けたら、きっとつらい。
「なんで」
ヒル魔さんの視線がひだり頬に突き刺さるけれど、僕はその目を見れない。
僕の頬に一気に熱が集まった。なんで?こう思っているのは僕だけなんだ。
「言えよ。そしたらやめてやる」
言えば、やめてくれる。言えば、彼の指は離れていく。
言おう。言わなければ僕は耐えられない。

「・・・終わりがないじゃないですか」

どう言ったらいいか解らないまま、僕の口から言葉が流れ出る。
「終わり?」
ヒル魔さんの声が困惑している。
「ぼ、僕は男で、ヒル魔さんも男なんですよ」
彼は何も言わない。僕の言葉を待っている。
「僕は女じゃないんですよ。どうしようもないじゃないですか」
また沈黙。
まだ言葉が足りてないみたいだ。
「い、いくら僕でも、男同士じゃで、できない事くらい」
今日の保健といい、今といい、今日は顔から火がでそうな事ばっかりだ。
もう逃げ出したいよ。こんな話、次の一言で終わらせたい。

「このまま触られたら、僕、つらいです」

わかってください、ヒル魔さん。僕は心のなかで祈る。

「・・・・できる」

声色からしてヒル魔さんの視線が、すこし和らいだ気がする。
僕はやっと彼の顔を見た。
「男同士でも、できる」
彼はかわらず僕の顔を見ていた。表情もすこし和らいだ気がする。
それにしても。
「え?」
そんな事あるわけない。男同士でなんてどう考えたって不可能だ。
「ウソつかないで下さい」
馬鹿にされた気がして、僕は不機嫌を顔にだす。
「ウソじゃねぇ」
信じられないけれど、ウソをついているようには見えない。
「じ、じゃあ、どうするんですか」

「・・・・・・・・・・・」

「教えてくださいよ」

「・・・・・・・・・・・」

何か、深く考え込んでいるようだ。僕の両肩に手を置き、俯いて眉間に皴を寄せている。
「ヒル魔さん?」
なんだやっぱりウソなのか、そう思ったら急に顔を上げた。

「・・・・予習だ」

迷いのなくなった表情と声で彼はそう言った。
「よしゅう?」
それはさっきのモン太のセリフじゃないか。
意味がわからなくて思わずおうむ返しだ。
「糞サルも言ってたろ。次回までに予習しとけ、宿題だ」
そう言ってポンと僕の肩を両手で叩いた。
なぜそんな宿題をしなければいけないのか?
今言ってくれればいいじゃないか。

「ヨシ。帰っか」

そう言ってヒル魔さんは器用に僕のシャツのボタンを全部とめた。










(多分)
続く。