スリーセコンズ







「あ、靴紐が。先行ってて下さい」


時刻は夕闇。
セナは自分のスニーカーの靴ひもがほどけている事に気付き、
歩道にしゃがみこむと一緒に下校していた蛭魔にそう言った。
下り坂の傾斜で、蛭魔は二歩ほど進んでから立ち止まった。
帰宅するのが目的ではなく、二人で居る事が目的であるので、蛭魔が先に行っては意味がない。

「あ、すいません。すぐ・・」
それに気付いたセナは急いで靴ひもを結ぼうとするが、
夕方と夜の境目であるこの時刻、街灯がまだついておらず手元は見づらく、
なかなかまとめる事ができない。
しばらくの間、蛭魔は立ったままセナを見守っていたが、
やがてセナのそばに彼と同じようにしゃがみこんだ。
夕闇に青いほどに白く長い指が伸び、セナの指先から靴紐を奪うと、
光の濃度などもろともしない動作で蝶結びを完成した。
最後に思いきり左右に引き固く結びつけた。

セナはそんな蛭魔の動作を、なにか信じられない気持ちで見ていた。
蛭魔妖一という男をよく知っていると思う。
タフで繊細で、人はこのひとの強烈な個性に惹きつけられる。引っ張られる。
自分もその中のひとりで、彼と並ぶとあまりに自分がつまらなく思える程だ。
その彼が、いま自分の足もとにしゃがみ込み、つまらない靴紐など結んでいる。
自分が想う程でなくとも、彼が自分をとくべつに想ってくれている証拠であり、
嬉しくもあり、恥ずかしくもある。

「ありがとうございます・・」

靴紐だけではなく、色々の意味を込めてセナは言った。
蛭魔がしゃがんだままセナの顔を見ると、ちょうどそのとき街灯がいっせいに点灯した。
向きあってしゃがんでいるセナの顔が、オレンジ色の街灯に照らされる。
セナは急に明るくなった事にうろたえた。
暗がりではあまり気にならなかった二人の距離は、案外近いものだったからだ。
察したように蛭魔は笑い、人さし指で自分の頬をつついて言った。

「お礼」

ふたりの距離と、そのしぐさで(お礼)が何を指すのか、セナは瞬時に理解した。
「う・・・」
セナはちいさく呻くと、左右を確認した。
坂道の下からふらふらと振れながら、小さなひとつのライトがゆっくりと上がってくるのがわかる。
自転車が坂道を上って来ているのだ。
「早く」
その視線に気付いた蛭魔は言った。
その自転車の主が近づくまで、まだもう少し時間がかかりそうだ。
「め、目をっ」
セナが言うと、蛭魔は満足そうにまぶたを伏せた。
「さ、3秒はそうしててくだ
「早くしねーとチャリくんぞ」
目をつぶったまま、蛭魔がセナの言葉を遮る。
まぶたの裏の暗闇から、じゃり、という音が聞こえた。
セナがしゃがんだまま、すこし近づいたのだろう。

1

セナのちいさく暖かい息が頬に触れる。

彼はまだ逡巡しているようだ。

2

そっと、感じるか感じないかの温度が、頬に触れる。

ゆっくり、ぎこちなく柔らかい感触が押し当てられる。

3

その感触が離れたか、温度が消えたかのうちに、

ジャッ

アスファルトと砂がこすれあったような音。
三秒を待たず、蛭魔は瞼を上げた。

オレンジに照らされるアスファルトの上には、
真っ赤な顔をしてしゃがんでいるはずのセナの姿はなかった。
蛭魔は視界を横に振ると、5メートルほどの距離に先程の自転車が来ていた。
自転車に乗っていたOL風の女は、自転車のペダルから片足を外して地面につき、
自分の登ってきた坂道を振り返るように見ていた。
その視線のずっと先、等間隔に落ちるオレンジの光の中にセナはいた。
振り返りもせず、夢中で走っている。

くく。
蛭魔が喉の奥でちいさく笑うと、自転車の女が驚いたようにこちらを見た。
蛭魔はゆっくりと立ち上がりざまつぶやいた。

「さすが」

「速えーな」

蛭魔は急ぐでもなく、ゆっくりと自転車とすれちがい、坂道を下りはじめた。

多分彼は駅の改札あたりで、自分を待っていることだろう。







end.



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