かなり従順な性格だと思う。
優しすぎるくらいで、拒絶ができない性格だとは思う。
けれど、それとこれとは話が別だ。
気付いた時には、セナの身体は俺の腕の中にあった。
気付いた時には、俺の唇は動き声に出して発音していた。
その外気に触れた言葉は、俺だけに良く馴染んだ独り言だった。
誰にも知られる事無く俺の頭の中でのみ、繰り返し繰り返し唱えた言葉。
セナは緊張と驚きで、身体がガチガチに固まっていたが、
それでもあたたかく柔らかい肉を身に纏った生き物の感触だった。
その感触に俺の口ばかりか、体中の全ての細胞が沸騰したように叫んだ。
好きだ、セナ。
坂道
雨が降ると憂うつになるというが、本当は晴れた日にこそ憂うつになるのだ。
雲がひとつもない。
太陽を被うのもは何ひとつない。さらけ出された太陽のガラス越しの光が心地良い。
心地よい気候、万全の体調。
にもかかわらず、さっきから俺は部活のメニュー表の同じところを何度読めば気が済むのか。
指示を待つ姉崎が、手持ちぶさたに指先で髪を梳くのが視界に入る。
そしてまた俺は同じところを読んでいたようだ。
「いんじゃねェか」
姉崎から受け取ったメニュー表を、また姉崎に返した。
「そ、そう?」
すこし驚いたように姉崎が受け取る。
いつも細かい修正を言い渡してからゴーサインを出すが、変更は後からいくらでもきくし、
とにかく今日はもういい。
俺は知らなかった。
自覚はしていたつもりだが、こんなに他の事が頭に入らなくなるとは全く予想していなかった。
昨日なぜあんな事を口走ったのか、口走った事によりどうなるのか、なぜそもそもあいつなのか。
考えてもどうしようもない事が、昨晩から飽きもせず俺の頭を堂々めぐりしている。
いつからか、あのチビは俺の中で巨大化していた。
あいつに絡む姉崎や、雷門を邪魔だと思うようになっていた。
俺が他人を、しかも後輩のチビでとろくさい男を、抑制がきかない程に欲するとは、
知らなかった。
「じゃあ、テスト明けにはコピーしとく」
姉崎はそう言って放課後の廊下を去った。
今の姉崎の一言で思い出したが、今日からテスト期間に入る。
テスト期間の三日間は部活動は禁止だ。3日とはいえそれだけ休むとキツい。
別にテスト期間中に練習をする方法なんかいくらでもあるが、それもまたキツいだろう。
何がって、奴等の脳みそだ。
2年は特に問題ないが、1年にはなぜ脳みその出来が危なっかしい奴ばかり集まったんだ。
集めたのは俺か。仕方ねぇ。この3日間は奴等に悪あがきさせてやるか。
俺も、悪あがきさせてもらうとしよう。
この3日間。学校内で最も混雑する場所。
ひとつはコピー室。ノートを取ってないやつが、必死こいて人のノートをコピーしに殺到する。
そしてここだ。ドアを開ける前からこの場所にふさわしくない焦った雰囲気が感じられる。
ガラリ。
誰もこっちを振り向かない。
席は満席。書棚の間にもずいぶんいる。そう、図書室だ。
俺は書棚には向かわず、満席の閲覧席へ向かった。
閲覧席といっても、折り畳み式のテーブルが3つつなげて置かれていて、それが3列になっている。
折畳み式テーブルには欠かせない、パイプ椅子が用意されている。
はっきり言って今は閲覧席ではなく学習席といった感じだ。しかもにわか仕込みの。
物凄い難しい顔つきで問題集を睨んではいるが、
さっきからちっとも右手のシャーペンが動いてねえじゃねーか。
英語、ね。
一体英語は何日目なんだ。
最終日だとしてもお前の英語力で今のその状態でどうにかなるのか。それともまさか明日じゃねぇだろうな。
しかも今止っている問題。それは高校入試レベルだろ。よくココに受かったな。
俺がそこまで考えたとき、やっと奴は気配に気付き顔を上げた。
「あ・・・」
素の自分を実は誰かに見られてたってのはばつが悪いからな、セナはしまったという顔をした。
「ヒル魔さんも、テスト勉強ですか?」
オメーと一緒にすんな。そう思ったが口には出さなかった。
セナの隣の席の奴が静かにノートを閉じ、足もとから鞄を引きずり出し、ちょっとモタつきながら席を立った。
まあ、明らかに俺を見て逃げたんだろうが、俺はその席を有り難く頂戴した。
「英語は何日目だ」
俺が席についてそう言うと、セナは一度手元の問題集に目線を落とし、それから俺の顔を直視せずに答えた。
「あ、あした・・・です」
相当深刻だ。
かなり初歩的な問題がこれだけサッパリ解けなくて、
望みゼロの状態で、明日テストに向かわなければならない心境とは一体どんなモンなのか。
「追試になるなよ。練習が潰れる」
俺がそう言うと、セナはガクっと首をうなだれた。わかってます、わかってますけど。そんなところか。
本当にわかってんのか。このままだと赤点どころか、0点だ。
テーブルの上にはさっきの奴があわてて忘れたらしい、赤いボールペンが転がっている。
俺はそのボールペンを親指でノックし、言った。
「オラ、やんぞ。問1」
奴はびっくりして一度俺を見たが、俺はおかまいなしに問題を読み上げ、奴は焦って問題集に顔を戻した。
「なんとかなるかもしれません・・・」
結局図書室を追いだされるまで、単語の綴りと文法をコイツに叩き込んでた。
文法はともかく単語の綴りを今更叩き込む事に俺も多少の不安は感じたが、
「しれません、じゃねえ。なんとかしろ」
奴のわき腹を蹴って叱咤した。
「いいか、家に帰ってもメシを食いすぎるなよ。脳に血が回らなくなる。
それからさっきやった問題をもう一度やれ。最低5時間は寝ろ」
そう言うと奴は意外に元気よくハイ、と答えた。
少しは自信がついたか。
テストで最悪なのは苦手意識だ。それがあると出来るモンも出来なくなる。
「・・・・・」
「・・・・・」
テスト期間中の日暮れに、この学校前の坂道を歩いている奴はまずいない。
歩いているのは図書室に追いだされるまで居座り続けていた、俺とコイツくらいだ。
ほんの一瞬前までは忘れてたはずだ。俺も、コイツも。
それが今の一瞬の沈黙で、すべて蘇った。おそらくコイツも。
俺達二人は並んで学校前の緩やかな坂道を歩いていて、俺の目線はコイツの目線より遥に上で、
俺がちょっとコイツの顔を見たくらいでは、コイツはその視線に気付かない。
俺の盗み見たセナがどんな顔をしていたかというと。
顔全体の筋肉は硬直しており、唇も頬もまるで死体のように固い。
口は一分の隙もなく引き結ばれている。
眉間にだけわずかな筋肉の緊張が見られ、もともとアーチ型の眉は歪められている。
眼球は足もとにむかっていて、その瞳の色は暗く重苦しい。
足もとを見ているようだが、実際その目は俺に向けているものと考えていいだろう。
結論を言うと。答えはNOだ。
望みゼロの戦いを持ちかけたのは、俺だった。
おそらくコイツは俺の事が嫌いでもないし、それなりに俺の事を信用している。
俺のアドバイスは素直に受け入れるし、しっかりついてくる。
台詞にしたら多分こんな感じだ。
頼れる先輩だと思っています。アメフトを教えてくれて、ちゃんと僕を見ていてくれる。
先輩に出会わなかったら今の僕はいないと思います。僕にとってとても大切な人です。
けれど。
それとこれとは話が別だ。
その暗い瞳はそう言っている。
わかってる。いや、わかってた。
コイツがいくら俺を慕っていても、コイツがいくら臆病で従順でも。
あまりにありえない話だった。
俺は男が好きなわけじゃねぇし、たまたまコイツが男だっただけだ、と言えばわかりやすいが。
男に告白された男が、たまたま同じような気持ちを抱いていた、なんて事は。
奇跡に近い。
悪あがきは、所詮悪あがきだ。
「ヒル魔さん」
とぼとぼと辛気臭く坂を下りながら。
奴はついにその瞳を、俺に向けた。
時間切れが迫っている。
「なんだ」
俺はその目を直視することを拒否した。
少しも顔の角度を変えず、この坂道の真正面に沈む太陽を見た。
「・・・・・」
わかってる。
俺にこっちを見ろと言いたいんだろう。
お前は今、俺と決着をつけるつもりなんだろう。
小せぇ声でさっきみたいな台詞を言うつもりなんだろう。
セナはじっと俺が顔を向けるのを待っている。
俺は、まだ見ない。
もうわかってる。
わかっているから、もう少し待て。
いつかは終わるこの長い坂道が。
終わるくらいまでは、終わらせるな。
end.