縦長に引き伸ばされた金網と、同じく引き伸ばされた少年の後ろ姿が、
日没の迫ったアスファルトに、影となって映し出されていた。
その少年は線路と歩道を隔てる、180cmほどの高さのフェンスにひとりで腰掛けていた。
彼は自分の後に伸びる影のことなど知る由もなく、一心に何かをみつめていた。
フェンスの下には土手があり、その土手の終わる所に停車していた電車がゆっくりと滑り出すと、
フェンスをきしませ金網のむこう、土手の下へ姿を消した。
予言
「あやまんな」
そう言った彼の声は普段と少しも変わらず威圧的で、
普段よりも少し張りつめていた。
その一言で、その声色で、ムサシは彼の言わんとしている事をすべて了解した。
謝罪を口にするのは自分に非があった時のみで、それ以外では決して口にしてはいけない。
確かにそれはムサシ自身の非ではなかったし、どちらかといえば不可抗力に近い。
だから謝る必要は無い。彼はそう言っているのだ。
彼が必死に隠そうとしている自分への心遣いに、ムサシは感謝をこめて言った。
「すまんな」
彼が思いきりこちらを睨みつけたので、ムサシはまたも自分が謝罪を口にした事に気付いた。
謝罪をした事に対する謝罪をしてもきりがないので、仕方なくムサシは席を立った。
「ムサシ」
身体の大きなやさしい男がムサシを呼んだ。
ムサシはその男が何を思って自分を呼んだのかもわかっていた。
彼は我慢をしている。
言いたい事があるのだが、ムサシの状況と心情をわかっているから言えないのだ。
彼はおそらくこう言いたいのだ。
(ムサシ、戻ってくるよね?)
「元気でな」
ムサシはそれだけ言うと、2人の視界から去った。
「・・・2人になっちゃったね」
栗田は先程まで3人目だったはずの彼の空席を見つめて言った。
「・・・」
蛭魔はなにも言わず、ひたすらに薄汚れた壁を睨みつけていた。
「クリスマスボウル・・・」
栗田の声は震えていた。
蛭魔は何も言わなかった。ただ拳を強く握りしめた。
「ムサシ・・・」
栗田の声はすでに涙声であった。
おそらく彼の大きな身体のちいさな目からは、涙がとめどなく流れ出ているのだろう。
そして彼はそれでもその涙をこらえようとしているに違いない。
それまで微動だにしなかった蛭魔は、握りしめて固くなった拳をいちど胸の高さまで上げ、
そして振り落とした。
彼の拳を受け止めた机は古い木製だったため、派手な音は出ずその衝撃を吸収した。
彼は何か言おうとした。
メソメソすんなとか、どうせ3人だけじゃクリスマスボウルにはいけねえとか、
3人が2人になったからってたいして違わないとか、これから部員なんかいくらでも集めればいい、とか。
けれど彼は何も言わなかった。
彼自身そんな台詞で救われなかったからだ。
これから何十人、何万人の部員を得たとしても、今の自分の中にある消失感は本物だからだ。
栗田はそんな殺気だった蛭魔を見て、自分ばかりが泣いている事を恥ずかしく思った。
目の前にいる彼は、泣くことなんかできないのだ。
栗田は感情が高まりすぎて泣いた時の、しゃっくりのようなものを繰り返していたが、
それでも口を開いた。
「ごめん、ヒル魔」
そう言って栗田の目からはまた涙が溢れた。
両手で涙を拭う栗田を見て、蛭魔はちいさくつぶやいた。
「あやまんな」
それから長い長いたった2人だけの泥門デビルバッツが始まった。
コーヒー、ガム、ミネラルウォーター、シャンプーがきれてんだった。
それと今日の夕飯と明日の朝飯、オマケにコーラをひとつ、ああ、コーラはダイエットがいいか。
入学式の胴上げは十数人。
今日は昨日の効果が少しは出ているだろうか。
それとも部室で俺を迎えるのは相変わらずあのデブだけだろうか。
もしそうだったら今日も練習はお預けだ。他の運動部を回るか、校門で検問張ってもいいな。
彼の毎日の日課。
放課後練習を始める前にコンビニに寄り、ひとりで買い物をしながら放課後の作戦を練る。
ムサシが去って約一年。たった二人のアメフト部。
最低でもあと9人。秋大会まであと半年。
クリスマスボウルに行きたいんじゃない。
クリスマスボウルには行くのだ。
これは彼の中の決定事項だ。目標ではなく、予言だ。
コンビニを出る。
夕暮れの商店街には人がひしめきあっている。
夕飯の買い物をする主婦、会社帰りのサラリーマン、寄り道をしている中学生。
こんなにも人間がいるのに、どれもこれも彼の予言の役に立つ人間はいない。
彼はそんな事を悲観する性格をしてはいなかったが。
店を出て学校へ向かおうとして彼は立ち止まる。
見覚えのある顔。胴上げした中の一人だ。
胴上げした中で一番ちいさかったので良く覚えている。
名前はなんだっただろうか、長い苗字だった気がする。
制服を来てここにいるという事は、勧誘作戦はあまり効果がなかったようだ。
しかしただ駅に向かって下校しているようには見えない。
キョロキョロして実に挙動不審だ。そう、まるで何かに追われているような。
明らかに挙動不審なその新入生は、突然キョロキョロをやめて低く腰を落とした。
しこでも踏むのか?
彼はガムを膨らまし、ぼんやりと観察していた。
瞬間。
彼にそんな経験はないが例えて言うなら、
フルスピードのF-1カーが自分のすぐ横を走り去ったような衝撃。
高速で回転するタイヤとアスファルトの摩擦で火花が起こる。
彼の視界に火花が散る。
彼は反射的に目で火花を追った。
その小さなF-1カーはすでに群衆の彼方にあったが、
通り道は見事に人間と人間のあいだに亀裂のような道を残していた。
カットだ。
追わなくてはならない、彼はその亀裂を辿るように走り出した。
いざ走ってみるとそれは亀裂ではなかった。
あの少年はひとごみをかきわけて進んだわけではない。すべてよけて通ったのだ。
あのスピードを見た後では、自分がどれだけ凡人並の足であるかが思い知らされる。
追いつけないどころかたいして進まないのだ。
しかし、あの少年は走ってみせた。
彼は舌打ちをひとつすると細い路地へ入った。ショートカットだ。
彼は新入生ではない、馬鹿正直に人間で渋滞した最短距離を走るより、
多少距離が長くても誰もいない裏路地を走った方が早い事を知っている。
おそらく少年は駅に向かっている。やはり追われていたのだ。
いまどき金属バットとは、彼は失笑した。
彼はこまかく何度も角を曲がり、駅のある通りへ出た。
速い。
少年はあの永遠に続くかに思われる長い商店街の、
買い物客という敵軍の中をを孤立進軍し、もはや駅に到着しようとしている。
彼は駅まで200メートルほど離れた場所におり、少年からも同じくらい離れている。
目的は少年に追いつく事ではなく、少年を視界に入れる事だ。
今、少年は視界に入った。
先程の金属バットの仲間の一人は駅に先回りしていたらしい。
結構アタマを使うじゃないか。
彼がすこし感心した瞬間、少年はスピードをほんのわずか落とし、
くるりと回転して待ち伏せした少年の腕をすりぬけた。
F-1カーは突然かろやかな蝶に姿を変えたのだ。そして改札に向かった。
まるでプレゼンテーションだ。
彼は思った。
少年は次から次へと彼にその脚の可能性を披露してみせた。
彼は改札を通らず素通りし、線路への転落を防止するための柵を乗り越え、線路を渡った。
そして一直線に土手を駆け登り、土手の頂上にあるフェンスの金網に指をかけて力をこめると、
高さ180 cmはあろうかフェンスの、幅4.5cmの鉄の枠に、
コンビニの袋を持ったままひらりと飛び乗った。
それから駅のホームの見渡せる場所を探し、その枠に腰を下ろした。
彼が高みからホームを見下ろすと、電車の発車を知らせる高い音が聞こえた。
ゲームエンドの笛が鳴り響く、距離にしてあと10ヤード。
果たしてタッチダウンなるか。
「イヤ、行ける」
彼はつぶやいた。
彼が見ていたのは駅のホームではなかった。
不良から必死こいて逃げる情けない少年でもなかった。
彼が見ていたのは目の前に広がる青い芝と、H形のポール。入り乱れるヘルメット。
そして。
「飛べッ」
背番号21。
これも、彼の決定事項だ。
彼の予言。
end.
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