全力疾走






この短い鉄橋を渡ったら、まもなく車内アナウンスが流れる。俺はドア付近に移動した。
次は泥門前、泥門前に到着です。JRはお乗り換えです。次は泥門前。
アナウンスが終わるころ、俺は鞄を持っていない方の手で手すりにつかまる。
線路の切り替えで車体が大きく揺らぐ。
不意をつかれてバランスを崩したた乗客が、ドタドタとバランスを取る音を聞く。
俺は手すりを離し、定期を取りだす。電車が減速し、ドアが開くのをひたすら待つ。
開いた瞬間から、全力疾走だ。




例えばもし1時間寝坊したら、俺は走らないだろう。
1時間30分の遅刻と、1時間35分の遅刻には大差ないからだ。
けれども15分の寝坊だったら、俺は走る。
ギリギリ間に合うのと、5分遅刻するのとでは全く意味が違う。
ドアが開いた。

改札への階段に一番近い車両のドアまで車内を移動しておいたから、階段は目の前だ。
俺は2段飛ばしに階段を駆け上がる。
このペースで行けばスムーズに一番乗りで改札を抜ける事が出来るだろう。
思った通りだ。俺は定期を改札に差し込む。
「おはよう、十文字君」
隣の改札口を俺より一歩先にでた奴が、通り抜けざま言った。
小早川セナ。
セナの口調は大分せっぱつまった声で、
奴も朝練に間に合いそうな、遅刻しそうなこの一本遅れの電車に乗っていたらしい。
いつも一緒の雷門はいない。
おはよう、という奴の挨拶に俺は返事をしなかった。
向こうも俺の状況を知っているのだから、挨拶など期待していないだろうし、
そもそも奴はもう改札を走り抜けている。聞こえやしない。
俺もあいさつなんかに気を取られている場合じゃねぇ。
ヨーイスタートだ。

夕方は混みまくりの駅前商店街も、まだシャッターが閉まってる時刻だから、
閑散としていて障害物は全く無い。走っているのも、俺等二人だけだ。
走る二人分の足音だけが、眠った商店街に響く。
あいつも全力疾走だ。ペース配分なんか全く考えちゃいねぇ走りだ。
校門前には恐怖の坂道が待っているが、俺も今は考えない事にして今の時間を節約したい。
いよいよ、坂道が見えてきた。すでに俺の息は結構上がっている。
いくら煙草をやめたとはいえ、肺が浄化されるには結構時間がかかるらしい。
俺の肺はまだリハビリ中だ。
多分一度も煙なんか吸い込んだ事などないであろう、あいつの肺は健康そのものでまだ息切れなんかしないんだろう。
それにしたって、距離が離されてすぎている。
改札を出た時は一歩分くらいしか違わなかっただろう。
いや、そもそも俺が最初に階段に足をかけたはずだ。
それなのに、今俺とあいつの距離は10メートルは離れている。
あいつも必死だろうが、俺だって全力で走ってる。



「8番、小早川セナです。よ、よろしくお願いします」
新学期最初のあの自己紹介を俺は忘れない。
草食動物以外のなにものでもないその雰囲気。
(昼メシ買いにいかなくて済むな)思わず黒木、戸叶と目が合った。
まだ声も変わってなくて、ちちくさい中坊の顔つきで、オドオドしたデカい目が勘に触った。
デカすぎる制服に、これからきっと大きくなるという期待がミエミエでサムかった。
何ひとつをとっても、劣っていそうな奴。
スゲー成績が良いとか、絵がうめぇとか、そんなの優ってるうちに入らねぇ。
問題は俺等にビビるか、ビビらねえかだ。あいつは案の定ビビった。
俺の顔を見て、声を聞いただけでビビった。
自分から進んで降伏宣言をしてきた。そんな奴べつに珍しくもない。ゴロゴロいた。
それなのにあの時も。
俺は追いつけなかった。
手も足も出なかった。
クソ。
今や俺とあいつの間隔は15メートルを越えようとしている。
この坂道が勝負だ。最後に全力を出して奴を追い抜く。
追い抜けるかどうかは微妙な距離だが、坂道がキツイのは奴も同じだ。

坂道は坂道とも言えないほど緩やかで真っ直ぐだが、
長い。果てしなく長い。
前に進む為のスピードを、緩やかな勾配が殺す。
アスファルトに一歩一歩踏み込む足がだるい。
この緩やかな坂道は俺の体力を少しづつ、でもかなり確実に奪っている。
さっきから気に入らねえのは、前を走っているあいつが時々心配そうに振り返る事だ。
あと少しだ、もうちょっとしたらスパートをかけてやる。それまでは耐えろ、耐えて体力を温存しろ。
とはいえ、別にゆっくり走ってるわけじゃない。
気を抜けば差は広がるし、俺のリハビリ中の肺は悲鳴を上げている。
余裕なんか全く無いのは確かだ。正直スパートなんかかける体力が残っているのか謎だ。
そう、思ったが最後。
俺の身体は急に限界を訴えだした。極端に短い歩幅でしか進めなくなってきた。
それでも右足と左足が交互に前に出ている事が不思議なくらいだ。
息が苦しい。
酸素が足りない気がして大きく息を吸い込んだ途端、むせそうになった。
ここでむせるとスピードを落としかねないどころか、立ち止まらなくてはいけない。
立ち止まったらあっという間にあいつの姿は見えなくなるだろう。
だからと言って今現在、呼吸のままならない俺のスピードはあからさまに落ちている。
普通坂道を走って登る場合、坂道にあわせ上半身を倒す。前傾姿勢になるわけだ。
その方が負担が少なくなるわけだ。今現在、本当に負担がすくないかどうかは釈然としないが。
登り坂道を前傾姿勢で走っているわけだから、目線は俯き気味になる。
いったん止るにしても、奴との距離を把握したい。俺は目線を上げた。

アスファルトに二つの小さな白いプロケッズ。
その上に延びる二本の制服の細い足。
白いシャツ、緑のネクタイ。
ブレザーの金糸のエンブレムが上下に揺れている。

セナ。

速い呼吸をし、汗で髪を額にはりつかせ、頬が赤く染まって、いかにも暑そうだ。
「だい、じょうぶ?」
息もきれぎれにセナは言った。

こいつ、俺を待ってやがった。

俺の息は激しく乱れている。とてもしゃべれる状態じゃない。
けれども暴れる呼吸を押さえつけて、俺は怒鳴った。
「・・・・っにしてんだっ、間に合わねーぞ、この、バカ!!」
セナの大きな目が一層大きく見開かれたかと思うと、その瞳の瞳孔は逆に小さくすぼまった。
心配していた相手に怒鳴られて、驚いたようだ。
けれどもセナはその赤い頬の緊張を、ほんの一瞬だけゆるませ、ふわり。

セナは笑った。

それから一歩、二歩、後へ下がり、すばやく方向転換してまたアスファルトを蹴った。
その白い靴裏が、かろやかに坂道を踏んでいく。
俺は、立ち止まったままぼんやりと見送った。
それしかできなかったからだ。
つま先から脳天まで、活発に血が巡っているにもかかわらず、全身が麻痺した。
汗が頬を流れ落ちる感覚だけが鮮明だった。

坂道の頂上でちいさくなったセナが、校門をくぐる。
長い長い坂道に、セナの姿はなくなった。
その事実もまた、俺の頭を素通りした。
俺の指先が痙攣するように動いて、本当はなぜ走らなくてはならなかったのかを思い出した。
俺は舌打ちをひとつして、その音があまりに嘘くさい事に幻滅した。
その舌打ちを忘れる為に、衝動的に全力疾走を再開した。

セナの通り過ぎたその坂道を。






end.