阿含さん! 一休の声は、もはや喉から先へは出てくれなかった。 四つん這いになっていた一休は髪を引き上げられ、無理矢理立ち上がらされた。 視界がぼんやりとして良く見えない。 「ワキ役は退場してろ」 そう聞こえた。 ガッ 顔面に一発。 ドッ 腹に一発。 痛覚は麻痺し、痛みは熱さとしてでしか感じなくなっていたが、辛うじて意識はあった。 指一本、動かす力はなかったが。 髪が強引に後ろに引っ張られる。立っている事ができず、一休は髪だけで床を引きずられた。 赤い光と歓声がどんどん遠ざかっていく。雲水も、遠ざかっていく。 むっとした空気を感じたと思ったら、一休は投げ捨てられるような形で解放された。 「おつかれ」 先程と同じ男の声が聞こえたと同時に、赤い光も、歓声も、 バタン。 閉ざされた。 一休がうち捨てられた床は、フロアのものではない。ざらざらとしてあたたかい。 重いまぶたを上げると、坊主のヒップホップ風の男がすぐ側に転がっている。 ずいぶん懐かしい気がした。どうやら外へ放り出されたらしい。 鼻血が詰まって息が苦しいし、胃が暴れていていまにも戻しそうだ。体中が痛い。 ・・・こんな所来るんじゃなかった。 一休を滅入らせたのは身体の怪我よりもむしろ、ドアの向こうの阿含の劣勢だ。 たとえ彼が超人的に強かったとしても、あの場にいたギャラリーを含めた人間が全員でかかったら、 ひとたまりもない。 あのダメージ、あの出血。 いくら阿含とはいえ人間には変わりない。立っていることさえ出来ないだろう。 「うんすい、さ・・・すいませ、ん」 なにも一休が悪いわけではない。 原因は間違いなくあの双子の弟、阿含だ。 けれども一休は自分の無力を呪った。 いますぐ立ち上がって中へもどり、雲水の顔が見たかった。無事をこの目で確認したかった。 それでも身体はまるで自分の物ではないかのように重く、 視界のすみに現れた黒いもやがどんどん増殖していくのがわかった。 もやなのか、夜の闇なのか、区別がつかなくなってきた頃、路地の向こうに二つのライトが現れた。 車だ。 いくら人通りが少ないとはいえ、一休が転がっているのは歩道ではなく車道だ。 まるで二つの目のようなライトは路地の直線を、まっすぐこちらに向かって飛ばしてくる。 こんな暗い車道に転がっていては、すぐ側に来るまで一休の存在に気づかないだろう。 そして気づく距離に来てからブレーキを踏んだのでは、もう遅い。 車は車道に転がった一休のことなど知る由もなく、直線にスピードをどんどん上げている気さえする。 今すぐ避けなければ、轢かれる。 身体が、動かない。 避けるどころか指先さえ動かない。声も出ない。まずい。 このままでは多分。死ぬ。 二つのライトが一休の姿を捕らえた。その距離、わずか10メートル足らず。 「うんすい」 「うんすい」 「うんすい」 重たいガラスの塊で2度も頭をかち割られ、その後も相当もらったが阿含は倒れなかった。 「うんすい」 自慢のサングラスも飛ばされ、踏み割られた。 「うんすい」 頭部からの出血はそう簡単に止まるものではない。目に血が入り視界を奪う。 その死角から、またもらう。反撃する。違う男が阿含の腹に強い蹴りを放った。 がしゃあん! 阿含の身体は背中からバーカウンターに叩きつけられ、また歓声が上がる。 上半身がするどく軋む。情けなく膝が震える。カウンターに手をかけて、やっと立ち上がる。 「うんすい」 カウンターの上を手探りで触り、ひとつの瓶を掴む。 瓶の注ぎ口についたアルミの蓋を片手の指先でまわして開けた。 「出るぞ!阿含の酔拳!!」 観客のひとりが下品にそう笑うと、フロアの熱気はまた上がった。 あの、阿含を。 ここまで追いつめた事による、達成感と優越感そして連帯感。 フロアの熱気はもはや狂気だった。 阿含は当然の事ながら飲む為に酒を開けたのではなかった。 かぶる為だ。頭から。 頭上で瓶を逆さまにし、頭から酒をかぶった。 その酒は幸か不幸かアルコール40度の透明な酒、ウォッカだった。 最後の一滴までウォッカをかぶってから、阿含は勢いよく瓶をカウンターに戻した。 衝撃で瓶にひびが入った。瓶を握りしめている右手が震えている。 ガラスの灰皿で割られた頭に、そのアルコールは恐ろしく染みる違いない。 やがて震えが止まり、阿含はゆっくりと顔を上げた。 「うんすい」 酒をかぶったのは傷の消毒の為ではない。 視界を妨げる血を洗い流す為だった。 再びひらかれた阿含の瞳に。 数でいえばざっと30対1。しかも相手はすでにボロボロだ。負けるはずはない。 それでも男達は、阿含のその目に息をのんだ。 「うん、すい」 カウンターに背をもたれかけていた阿含がゆらり、立ち上がった。男達も身構える。 キキィィイイィィィィーーーーー! フロアを振動させる程の重低音にもまけない、するどいブレーキ音。次いで、 ドォォオン!!! この古くさいクラブが崩れ落ちるのではないかという程の衝撃。 フロアは大きく揺れ、天井からパラパラと破片のような物さえ降ってきた。 衝撃の為か、大音量のスピーカーが止まった。 「・・・・!?」 まるでなにかが激突したようなその激しい衝撃。 フロアにいた阿含を含めた男達の動きが止まった。 スピーカーがイカれ、静まりかえったフロアの外に複数の足音と、怒鳴るような声が聞こえる。 ばあん!!! 勢いよく扉が開かれた。 「阿含!!雲水!!!」 最初に姿を現したのは、見覚えのあるの道着に身を包んだ、 「ゴ、クウ・・・・?」 さすがの阿含も状況を掴みかねた。 「阿含ちゃん!すごい血!!」 「あとは任せろ!阿含!!」 「雲水出せコラァアーー!!」 「ブッ殺せ!」 「ッシャアアァァァーーー!!」 ゴクウ、サンゾー、山伏、サゴジョー・・・・入ってくる入ってくる。 殺気だった神龍寺レギュラーメンバー総動員だ。 ゴッ 「っしゃァ!おら、次ィ!!」 ゴクウはすでに彼のトレードマークともいえる、如意帽のような棒を振り回し暴れている。 モップからバット、はたまた鎖、鉄パイプ、メリケンサックまで。 彼らは見事に武装していた。 フロアにいた人間よりも神龍寺メンバーの方が若干人数では劣っていた。 しかしいまさら数がなんの役にたつだろう。 彼らは凶器を所持している上に、ただの高校生ではないのだ。 戦況は一気に傾いた。 「大丈夫?阿含ちゃん!」 外に放り出されていた一休に肩を貸し、サンゾーが近づいてきた。 「な、んで、オマエら」 阿含は実際立っていられるような状態ではなかったが、意地でカウンターにもたれかかり、 かろうじて立っていた。 「GPSよ」 サンゾーは言った。 「?」 「一休ちゃんがメールをくれたのよ。GPSメール」 GPS 汎地球測位システム。 衛星を通して、現在位置を知ることができる。カーナビや携帯電話に搭載されている。 ここ、クラブ・ドクターに来るすこし前、 一休はポケットに阿含に割られた携帯電話を持っていた事に気づいた。 液晶画面はバグっていたが、送信していたのだ。 携帯電話に搭載されているGPSで、現在の位置を示したEメールを。 「監督の許可も出たし、軽トラでここまで。助けに来たのにあやうく一休ちゃん殺すとこだったケド」 サンゾーはくす、と笑ってウィンクした。 「雲水!いんのか!?」 「鍵かかってんぞ!」 「ぶっ壊せぇ!!」 どうやらあらかた片づいたようだ。 近寄る事の出来なかった奥の扉にメンバーが集まっている。 「やーまぶし!やーまぶし!!」 異様なほどにハイテンションになったナーガメンバーから、山伏コールがかかる。 本日誕生日をむかえた山伏権太夫が進み出て扉の前に立つ。ドアノブを握った。 鍵がかかっている事はお構いなしに、思い切りひねる。 ばきっ 「地っ味!」 派手さには欠けるが、鍵のあるなしに捕らわれないない握力は大いに役立った。 ギィ・・・ 開いた扉の、その奥には。 「雲水!!」 騒ぎが気になっていたのだろう。雲水は扉のすぐ側に立っていた。 「みんな・・・」 ポカンとした顔で、雲水は言った。 暴力や拘束を受けた気配はない。出掛けていった時と同じ道着姿で雲水は現れた。 「助けに来たぜ、雲水」 「怪我ねぇか?」 「災難だったな」 部員達が口々に雲水に言葉をかけ、顔をのぞきこみ無事を確認した。 「これは」 そんな事はお構いなしに、雲水は一歩フロアへ踏み出し、あたりの惨状を見渡した。 累々と重なる屍の山、とまではいかないが、40人以上の人間が折り重なりあいながら倒れている。 床にちらばったガラスの破片。血痕。たちこめるアルコールの臭い。 サンゾーの側の、傷ついた一休。 「雲水」 ふらふらとおぼつかない足取りで、阿含が雲水に近づいた。 「阿含!」 雲水は驚いて目を見開く。 「よかった」 阿含は乾いた血のこびりついた手を伸ばし、雲水の頬にふれた。 雲水を確かめるようにぎこちなく、頬をなでる。 「阿含、お前・・・」 雲水は阿含の血の付いたシャツを見、あたりに転がるゴロツキを見た。 「お前、が?」 冷静な雲水の声が震えるのを、一休をはじめ部員たちは初めて目にした。 「うん」 阿含は生傷だらけでつっぱった頬で、笑った。 そんな阿含の表情も、初めて見るものだった。 そもそも阿含が(何かに必死に)なるところを今日、初めて見たのだ。 「あごんちゃん・・」 サンゾーは泣きそうな顔で口元を手で覆った。 「そう、か」 雲水は頬に触れる阿含の手を、そっと握った。そして。 「がはっ!!!」 「!?」 阿含の身体が「く」の字に曲がった。その腹には。 「お前ってやつは・・・」 雲水の拳がめり込んでいる。 「う、雲水・・・?」 山伏が驚いて思わず声をかける。部員たちはあっけにとられた。 阿含は崩れ落ちるように床に膝を突き、倒れた。 「お前、お前って奴は・・・・」 雲水の声が震えている。ただし、怒りでだ。 「お前はなんの不満があってこんなに沢山のひとを苦しめるんだ!?」 雲水は怒鳴った。 「何もしてない人間に暴力を振るう、同一人物の恋人を7回連続で奪う、そのうえ手をあげて捨てる、 今日ここに居た人たちはな・・・聞いてるのか!阿含!!」 聞こえてないぜ、雲水。 部員達は心のなかで、そう言った。 阿含は極限状態だったのだ。そして、雲水の一撃でもはや意識はないだろう。 床に倒れこんでぴくりとも動かない。 「挙げ句の果てには・・・こんな・・・。一休まで巻き込んで・・・・」 しかし、雲水は怒り頂点だ。 おそらく何も見えてはいないし、部員達の心の声など聞こえているはずがない。 やれやれ、さすが、双子だ。 「帰ろうぜ」 ぼそり、ゴクウが言った。 「ああ」 ため息混じりにサゴジョーが頷く。 助っ人にかけつけたナーガのメンバー達は、なんともいえない疲労感を胸に、 次々とクラブの壁に突っ込んだ軽トラックの荷台へ乗り込んだ。 金剛阿含の夜は、まだ終わらない。