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プシュー
ガダンッ
ミーンミンミンミンミン
ドア、閉まります
かけこみ乗車はご遠慮ください
ミーンミンミンミンミンミーン
「…音が暑ちィ」
「ん、母さんもうすぐ着くって」
この暑さのせいか、平日の日中だからか、ホームに降りた人間はまばらだった。
夏期講習にでも行くのだろうか、小学生高学年といった2人組の少女と、
37度の陽気に外回りらしい、哀れな中年男性が小脇にジャケットを抱え、
汗をふきふき歩いていく。
大きなスポーツバッグを肩に掛け、その重さを気にもかけないような17歳の逞しい背中に、
白いTシャツが汗で張り付いている。
雲水は携帯電話を尻のポケットに押し込むと、切符をさがす。
「右ポケ」
雲水は半歩うしろから聴こえた声に従って、
ジーパンの右ポケットに手を入れてみると、切符はすんなりと見つかった。
「あった」
振り返って切符を声の主に見せる。
この暑さ、自慢のドレッドヘアも今は憎くて仕方がないというように、
頭の後ろにだんごのようにまとめている。
阿含の薄い黄色のタンクトップから出たむきだしの肩にも、
雲水と似たようなスポーツバッグがどっしりと下がっている。
阿含は自分の切符を前歯にはさみ、当たり前じゃんと片方の眉を上げてみせた。
「音が暑い」ことアブラゼミの大合唱が、2人の肩にふりそそぐ。
まるでみえないヘッドフォンから音楽が聴こえているかのように、
阿含はすね丈の麻のパンツの膝をスプリングのようにゆっくり弾ませ、肩でリズムを取った。
履きふるしたビルケンシュトックの足取りが軽快だ。
今日から、この世は夏休み。
「あれかな?」
横につぶれたドーナツ型をしたの駅のロータリーに車が入るたび、
車のガラスの跳ね返す強烈な日差しに、阿含はサングラスの奥で目をしかめながら、
無言で雲水の視線を追った。
もっと濃いのをかければ良かったと後悔しているのかもしれない。
「ぽいな」
見覚えのある白のカローラセダンがロータリーをおおきく回ってこちらへくる。
強い日差しとは反対に車の中は暗く、顔は確認できないが、
バックミラーにぶら下がった茶色の貝と白いハイビスカスでできたレイに見覚えがある。
真上の太陽にいまにもかき消されてしまいそうな、ちいさな日陰にふたりはならんでいる。
その2人の前にカローラセダンがすべりこんだ。
炎天下に車のボンネットで目玉焼きを焼く…。
あれはなにかの漫画だっただろうかと雲水の脳裏によぎる。
目玉焼きまではいかないが、雲水が手をかけた後部座席のドアはおそろしく熱い。
鉄のドアを開くと、冷たくあまいココナッツの香と、
ウクレレのゆったりとしたハワイアンミュージックが、地を這うつめたい煙のように流れ出た。
ハンドルを持ったまま、運転席から振り返った彼女の第一声はこうだった。
「なーんでアンタがいんのよー」
彼女のこんがりと健康的に日焼けした顔は、
雲水の肩の奥で中指を立てて舌を突き出した、生意気な息子をおもしろくなさそうに睨む。
「母さん、うしろ開けて」
肩にかけたスポーツバッグを持ち上げるようにして雲水が言う。
若い母親はなにやらぶつぶつ言いながら、トランクを開けた。
「お昼はそうめんでいいよね、夜なんにするー」
小さな頃からよく知っているスーパーマーケットは、
ちかごろリニューアルオープンしたとかで、照明もあかるく売り場も清潔でうつくしい。
内装は全体的にウッド調でスタイリッシュにはなったものの、
敷地の広さと建物自体はかわらない。
狭くはないが子供のころ迷子になれたのが不思議なくらいの広さだ。
今は自分よりも小さくなった母の後ろを、ガラガラとカートを押す自分がいる。
「なんでもいいよ」
実際、雲水はなんでもよかった。
実家にいた頃は手抜きだと文句をいっていたネギとみょうがだけの素麺でさえ、
母の手で茹でられたそれは、寮暮らしのいまはとても貴重な気がする。
「もう、パパみたいな事いわないでえ」
母はそう言って雲水をふりかえると、一束98円のネギを雲水の押すカートに入れた。
振り返った母の目線は、雲水を中心に右へ左へと泳ぐ。
「あれ、あいつは?」
駅まで車で迎えにきた母が、途中スーパーに寄るというと面倒くせえとぶーたれ、
じゃあ車で待ってろというと、
炎天下の車に子供をおきざりにして殺す気かと文句をたれていた弟は、
結局はついてきたのだが、夕飯の食材には興味はないらしい。
姿は見えないがスーパーのどこかをうろついているのだろう。
「さあ…あ、母さん」
何でもいいよが一番困るのよと言いながら、
次男の事はすっかり忘れて野菜を物色しているやせた後ろ姿に、雲水は呼びかけた。
母のベージュのTシャツの背中にはフラガールのシルエット。
「カレーがいいな」
雲水の声に母が振り返ると、Tシャツのフラガールも振り返る。
彼女はカートを押している雲水と、その目線の先を交互に見て、
白い歯をニカリとむき出して笑った。
大特価・なす一袋75円。
「いいね〜」
そして金剛家の司令官は、雲水にココナッツミルクを取ってくるよう指令をだした。
「おっそ〜い!」
夕飯の買い物を済ませ、荷物を車に積み込んでも阿含は二人の前には現れなかった。
クーラーをつけた車の中で、アイスを食べながらウクレレのハワイアンが2曲過ぎた所で、
阿含はやっとふたりのカローラのフロントガラスに姿を現した。
「何買ったんだ?」
悪びれもせず車に乗り込んできた弟が、シートにおいたビニール袋を雲水はのぞきこんだ。
ジュースにビール、カクテル、チューハイ、アイスにポテトチップ…
「かごに入れようと思ったらもういねえんだもん」
仕方ないから自分で買ってきたと阿含は言った。
「エビスー?なっまいきー」
母もあずきのアイスクリームを片手に、運転席から身を乗り出して、
雲水といっしょにビニール袋をのぞき込む。
飲酒や喫煙にうるさい家ではないようだ。アルコールを見ても驚きもしない。
むしろ抗議の先はビールの値段らしい。コーコーセーは発泡酒でも飲んでろと母親は言う。
「あっなんだこれっ」
母が雲水の手をはらいのけて取り出したちいさな箱は、
やけに派手できれいなデザインだが、チョコレートの箱ではないようだ。
「母親と買うモンかあ〜」
そのきれいな箱を、母はわざと雲水の目の前で振ってみせた。かさかさと軽い音がする。
なんの変哲もないしかくい箱だが、その独特のサイズの箱の中身が何なのかは、
いくら雲水でもわかっていた。
コンドームだ。
「ま、夏ですから」
阿含はそういって、母譲りの白い歯並びをむき出して笑った。
母は、バーカと阿含にコンドームの箱を投げつけて、
前を向きアイスの棒を前歯にくわえると、ハンドルを握った。
いつまでもスーパーマーケットの駐車場で遊んでいるわけにはいかない。
時刻はすでに14時をまわっていたし、お気に入りのウクレレ奏者のCDは2週目に突入していた。
でかい息子達も腹をすかせているだろう。
「ほどほどにしろよ〜ヤリチン!」
彼女は元気良く、焼けたアスファルトの上、車を発進させた。
家に帰ったらまず、大きな鍋にお湯を沸かして葱をきざむのだ。
母がいつからこういう物を好み出したのかはしらない。
とにかく雲水が生まれてすぐの写真では、雲水を抱いた母と阿含を抱いた父は、
今雲水が座っているソファにかかっているものと同じ、
母のつくった赤と白のハワイアンキルトのカバーのかかったソファに座っている。
母がふたりを産んだ時にはすでに、こういう趣味だったのだろう。
だからこそ、雲水の「母のカレー」の味はバーモントカレーではなく、
ココナツミルクのカレーなのだ。
彼女は大のハワイファン、ここまでくるとマニアだ。
フラダンス教室はもちろん、ハワイアンキルトの腕はプロクラス、
なんとこの母はサーフィンだって得意なのだ。
やろうと思えばなんでもできる、まるで誰かと誰かはそっくりだ、という事は、
父も雲水も口には出さず、胸にしまっている。
雲水がなんだかこの家は年がら年中夏みたいだな、
と気づいたのは寮に入ってからの正月のことだった。
父はうるさい事は言わない、というよりきっと母の趣味が好きなのだろう。
雲水と阿含は15年間365日、この常夏の家で育ったのだ。
きっと自分と弟が「出来た」のも、こんな暑い7月の終わりの事だったのだろう。
昼食(いやというほどの素麺)を食べた後、
3人はなにをするでもなく午後のおもしろくもないテレビを2時間も眺めていたが、
阿含がシャワーを浴びると言い出したのをきっかけに、母も夕食のカレーの準備にとりかかった。
「あんたんとこの学校もイジョーねー」
作り慣れたカレーの準備をしながら、母はひとごとのようにつぶやいた。
こうして久々の帰省をしてみたものの、実は明日からさっそくアメフト部の合宿なのだ。
早朝には家をでる。
そのため、ユニフォームやらなんやら、二人の荷物は大がかりなものだった。
「そのぶん早く終わるから」
去年より合宿の始まりは早いが、そのぶん今年は早く切り上がる。
要するに合宿所の都合で前倒しになったのだ。
それが関係するのかどうかはわからないが、雲水は未だひとりでソファに座ったままだ。
何をするでもないが、久々に実家に帰って来て、早々に自室にこもる気にはなれないらしい。
「とっとと準備しときなさいよー」
そんな雲水の気持ちを知ってか知らずか、母はそう言った。
そりゃそうだと雲水がリビングのソファから重い腰を上げると、がちゃりという音とともに、
キッチンの奥の風呂場から、阿含が頭にタオルを巻き付けパンツ一丁で出て来た。
「あー超スッキリ」
弟は半裸のまま何の迷いもなくそばの冷蔵庫をあけると、例のエビスを取り出した。
「オイオイ、まだ早いんじゃないの〜」
キッチンのテーブルの上でなすを切りながら、横目で見て母が言う。
時刻は18時に迫ってはいたが、夏の太陽はまだまだ月と交代する気配がない。
昼間といってもいいくらいの明るさだ。
「ま、ま、お母様も一杯」
阿含はもういちど冷蔵庫の扉をひらくと、
母のまな板の横に350mlのエビスをどん、と置いた。
「おっと、おぬしも悪よのう」
母は待ってましたと悪い顔で笑ってみせ、2人はプルトップを上げた。
軽く乾杯をすると、ふたりは同じ顔で笑い合い、ぴったり同じタイミングでこう言った。
「ま、夏ですから」
俺はおとなしく明日の準備でもする事にしよう。シャワーを浴びるのはその後でいい。
雲水は一杯の麦茶を供に、西日の強烈な2階の自室へ向かった。
タオル、着替え、スケジュールと、石けんは確か向こうにあったと思うが、
それにしてもしかし…
「暑い…」
がまん強い雲水もさすがに呟いた。
阿含と雲水は神龍寺に入学するまで、つまり中学三年生まで、
強烈な西日の直撃するこの部屋ですごした。
15にもなればひとり部屋が欲しくなるものだろうが、
阿含が毎日帰ってくるとは限らないので、2人とも特に文句はいわなかった。
寮に入った息子の部屋をわざわざ分ける親はいないだろう。
つまり17歳になってもこの兄弟は寮でも家でも、布団を並べて眠っている。
「暑っ」
窓から差し込む暴力的な西日に顔をしかめがら、缶入りカクテルを片手に阿含が姿を現した。
さっきのエビスはもう空けてしまったらしい。
「飲むう?」
阿含はそう言って、汗だくでスポーツバッグを解体している、
雲水のそばにあるとっくに麦茶のなくなったグラスに、自分の飲みかけを注いだ。
ストロベリーマルガリータ。
缶にはそう書いてあるがメキシコのそれとは似ても似つかない味の、
どぎついピンク色の液体。
こどもの好む駄菓子やジュースのようなわかりやすい鮮やかさ。
グラスの底からしゅわしゅわと炭酸が沸き上がる。
アルコールだ。
強烈な夕日に汗を流しながら、雲水は思った。この家庭に育ったのだ。
そこまでアルコールを悪者だとは思っていないが、
べつに旨いとも思わないので雲水は好んでアルコールをとらない。
「あー、自分のだけかよー」
阿含はジッパーのしまったままの自分のスポーツバッグを見て言った。
ちゃっかり者の次男は、しっかり者の長男が自分の準備もしてくれると思っていたらしい。
「当たりまえだろ」
陽をうけて、温度差で汗をかいた透明なグラスに、
ピンク色をしたジャンクなアルコールが半分、オレンジの陽が半分。
いまの雲水には、その毒々しいアルコールが妙にうまそうなものに感じた。
「なに持ってく?」
阿含は畳に腰を下ろし、準備中の雲水のバッグの口をひっぱって、中を覗き見た。
そして雲水ののどぼとけがゆっくりと上下する様を見た。
珍しい、阿含は思った。
彼はあまりアルコールが好きではないし、どぎつい着色料が好きではない。
それになにより、そのテの酒は…
「甘い」
一滴残らず飲み干したそのグラスを、睨みつけるように雲水は言った。
雲水が思っていたほど、アルコールの味はしなかった。
かわりに子供の頃よく飲んだ炭酸飲料のからみつく甘さが強かった。
甘すぎるし、着色料が露骨すぎるし、炭酸はきつすぎる。
でも、きりりと冷たかった。
「うまい」
どっちだよとつっこみながら、阿含はもう少し飲むかと雲水に缶を突き出した。
雲水はもういらないと首を横に振ると、再び明日の準備に取りかかった。
こういうのはたまにだからうまいんだろう。
阿含はなんとなく、雲水の気持ちに検討をつけた。
それだけ汗が出てりゃあ、何でもうまいだろうよ、とも思った。
普段あまり気にしないが、人間は髪の生えてる頭にだって汗をかくのだ。
雲水の坊主頭をみて、自分のドレッドが蒸れるのを感じて、阿含は思う。
雲水の短い芝生のようなあたまから流れ出たひとすじの汗が、
西日のあたるオレンジのひたいを通って、
慣れないアルコールでなんとなく赤くなった頬をつたうのを追った。
頬も鼻筋もしっとりとしめっていて、雲水の横顔はみずみずしかった。
ごくりと一口、缶をあおる。もうぬるい。
忍耐強い兄は、それでもすこし、この部屋の暑さに嫌気がさしているようにみえる。
眉と眉の間の筋肉が、かすかにこわばっている。
「なんだっ」
よく観察しようという気持ちからか、阿含の顔は雲水の顔のすぐそば、
ほんの5センチくらいの距離まで迫っていた。
雲水はあつくるしいというように、阿含の胸をぐいと押した。
「いいから」
阿含は自分の胸を押す、雲水の腕に自分の腕をからめるようにして、
自分への圧力をはずすと同時に自分からの圧力へ変えた。
いいからって、何がだ、と、雲水は顔をしかめてみるもそれは一瞬のことで、
雲水は瞬時にその空気を読んだ。
自分の選択可能な選択肢は、ふたつだ、と。
ひとつは、知らん顔で右手に掴んでいるタオルをスポーツバッグにつめこむこと。
もうひとつは、知らん顔をしないこと。
どちらでも、かまわない。
どちらを選んでもなにもかわりはしない。雲水の好きでいい。
飲んでも飲まなくてもいい、グラスのアルコールをきまぐれで飲んだように、
雲水は阿含の額に、自分の額をかるくぶつけてみた。後者を選択したのだ。
阿含のひたいは汗ばんでいて、同時に自分のひたいも汗で濡れていた。
彼ら二人はひたいをつけたまま、どちらともなく、口のはしをつりあげて笑った。
そっくりな歯並び。
阿含は雲水のひたいから自分のひたいを離し、雲水の唇へ自分の唇をおしつけた。
雲水が西日に灼けた畳に背中をあずけるまで、
ほんのすこしの時間しかかからなかった。
「…っ!」
雲水は、首もとまでまくりあげられたTシャツをなおそうともせず、
手の甲を唇におしつけ、ひたすら声を殺していた。
部屋にさしこむ陽の色にはだいぶ夜がまじってはいたが、気温が下がったとはいえない。
この部屋だけでいえば温度は38度に迫るだろう。
ふたりの発する音は、規則正しくゆるやかな、布ずれのような音だけ。
吐息が多少あらいとはいえ、アブラゼミと交代した蛙にくらべれば、かわいいものだった。
だれも気づかない。だれも見ていない。
お互いの汗の匂いにまじって、ココナッツカレーの匂いが漂ってくる。
それはたぶん、身体の火照りや、夏の空気と同じくらい、今ふたりが共有している感覚だった。
母が台所で準備しているカレーは完成間近にちがいない。
雲水はカレーのにおいと、それにともなう母の姿と、弟の肉体と、
ゆすられる自分の身体の奥から沸き上がる火照りを調節することもできず、
どれも追い払うことができず、ただ流れ出すままに息を吐いて、眉をひそめた。
ピンポーン
ふいに階下で、聞き慣れたインターフォンが鳴った。
「おっ」
阿含がにやりとわらうと、顎のさきから汗のしずくがたれた。
塩分を含んだ透明なその体液は、雲水の胸へ落ち、四方へはじけ、
濡れた雲水の肌になじんでいった。
阿含がなにか言うまえに、雲水は、阿含をにらんだ。
赤が滲んだような目元で。はたしてそのまなざしが睨んだといえるかどうか。
「いま、締まった」
これを言われたくないのだろう、阿含はわかっていてそう言った。
こんな意地悪が彼は大好きなのだ。
やがて階下では、ドアチェーンをはずす音が聞こえ、やがて短い低音の声が聞こえる。
なんという言葉かききとれなくとも、誰の声かはわかっている。
「おかえり〜」
母の声は、よく通る。
階段のすぐ下でどんな光景が繰り広げられているのか、目に浮かぶ。
「父さん、がっ」
揺らされる身体のリズムに言葉をさえぎられながら、雲水は声を絞り出した。
雲水は、できれば言葉を発するような危険なまねはしたくはなかったが、
言わないわけにもいかなかった。
父が帰宅したのだ、久々の息子達の顔を見に、この部屋に顔を出さないとも限らない。
けれども、雲水はそう言った次の瞬間、
自分の唇を大急ぎでがっちりと覆わなければならなくなった。
こんどは甲ではなく手のひらで。
「…っ!っ!!」
阿含はなにも言わずに、無言で答えるように勢いを増した。
振り落とされるように、雲水の腹に汗がおちる。
雲水の中に発生した不安は、阿含のその勢いに押し流されてしまう。
雲水自身は押し流してはいけないと思っていても、
意志はもはや通用しないところへ二人はきていた。
やがて雲水の指の隙間から、長く深い息が漏れる。安堵とせつなさの混じった、終了の吐息。
阿含は肩で息をしながら、雲水の身体にほぼ同じ重さの自分の身体を、なげだすように預けた。
心臓の速さはかるくいつもの2倍。
雲水のとあわせてその鼓動の大きさは蛙の求愛ソングや、階下の両親の動向を、
ふたりの脳内からかきけしてしまえた。
2人は黙って余韻に浸った。
「あごーん、うんすーい、ごはんよー」
階段の下から母が叫んだ。
息がまだ整ってはおらず、雲水は声を出す事を躊躇したが、
阿含は雲水のわきばらをせかすようにつっついた。
「はーーい」
雲水は、できるだけ大声で返事をした。今行くともつけ足した。
阿含はむくりと起きあがって、目に付いたボクサーパンツを雲水へ投げた。
「それも」
雲水も身を起こし、汗で湿ったTシャツを腹までおろすと、
自分の部屋着であるハーフパンツを指さした。
阿含は言われたとおり雲水の服を取ってやると、きょろきょろと辺りを見回した。
なにか探しているようだ。
「お前、パンツだったじゃないか」
弟の捜し物を察して、雲水が言った。
阿含はこの部屋へ登場したとき、今阿含が着ているタンクトップとパンツだけの姿だったのだ。
下に履くものを探していたのだろうが、それは見つかるはずもない。
「だっけ…」
パンツのうえに何かはくべきかどうか逡巡しているのか、
それとも体中の水分を出し切るような行為に疲労しているのか、阿含はぼんやりとしていた。
「さめちゃうよーー!」
階下で母が催促している。父は帰宅してそのまま、テーブルについたようだ。
一応着る物を身につけた雲水は、
先行ってるぞと立ち上がるととんとんと軽快なリズムで階段を下りていった。
とりのこされた阿含の目に、開きっぱなしの雲水のスポーツバッグが目に入る。
合宿所での寝間着だろう、チャンピオンのジャージ素材のハーフパンツが入っている。
これでいいや、阿含が手を伸ばすと母の元気な笑い声が聞こえてきた。
「やだー雲水、ホカホカになってるー」
汗ですこし重くなったコットンのTシャツを着て、湯気がでそうなほど頬を赤く染めた雲水が、
ダイニングの明るい蛍光灯にさらされている姿が目に浮かんだ。
「つければいいじゃん、エアコン〜」
そうだった。
この部屋にはちゃんとエアコンがついているじゃないか。
なんでまたあいつは西向きの窓を開けただけの、オーブントースターみたいな部屋で、
わざわざ汗だくになって準備なんかしてたんだろう。
やがて父親ゆずりの声で、雲水の言葉が聞こえてくる。
「夏だから」
阿含は、眉間にしわを寄せながら、汗をだらだら流し、
じっと耐えるように黙々と準備をする兄の姿を思い出す。
あれは、夏を満喫している姿だったのか。
「ばかだ…」
阿含はそうつぶやくと、自分も夕食へありつくべく階段を降りた。
匂いからして、今日はカレーらしい。
end.
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♪BGM「Wonderful World, Beautiful People」Jimmy Cliff
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