「なー、まだ?」
「まだだ」
「あとどんくらい」
「…」
「もー超つかれたんですけど」
「…」
「もしもーし聞いてんのかよー、ウーンーコー」
「うるさい!まだ歩き出したばっかりだろう!!」
「すーぐ怒るー」
暑さはそれほどでもない。
こんもりと茂った木々のおかげで、
雲水の白いTシャツが時々木漏れ日をうつすくらいのものだ。
問題は道だ。
「バスとかさあ、ねーのかよ」
彼ら2人が歩いているのは、合宿所の裏手の山道である。
道路は舗装されているものの、その上り坂は急勾配でくねくねと折れ曲がり、
繁った木々で先が見えない。
「あるにきまってるだろ」
雲水は夏場の標準装備であるタオルを頭に巻き、 阿含の5、6メートルほど前をもくもくと歩いている。
右手にはスポーツドリンクのペットボトル。
肩から斜めにかけたウエストバッグには財布と携帯、それに買い物リスト。
「ハァ?じゃーそれ乗りゃいいじゃんよ」
阿含のその言葉を聞いて、雲水が歩みをぴたりと止めた。
そして振り返った。
「お前がモタモタしてるからだ!」
1時間に1本くればまし、そんなバスを阿含の支度が遅いせいで逃してしまったのだ。
雲水だってできればバスに乗りたかったが、すでに時間は午後4時をまわっていて、
1時間半後のバスを待っていては夕食に間に合わなくなってしまう。
2人の向かうスーパーマーケットは、直線距離では大した事はないのだが、
ちいさいとはいえ山ひとつ向こうなのだ。
バス道は平旦だが山を迂回する形に走っており、徒歩で行くには長過ぎる。
それならば自慢の健脚でひと山越えた方が早いのだ。
「すーぐ怒る…」
阿含はため息まじりにつぶやいて、鬱蒼と覆いかぶさる森を仰いで伸びをした。
黒い木々の天井の上に、あの殺人的な太陽がいるとはとても思えない。
ひんやりと湿った空気。濃い森のにおい。
姿の見えない無数の蝉の声が360度から降り注ぐ。
今日も、2人は夏休み。
「うお、ラーメン屋だ」
まだ山の入口とはいえ、まったくと言っていいほど人気のないその道に、
そのラーメン屋はあった。
色あせた朱色に、ラーメンと白抜きされたのれんがきちんと入口にかかっており、
換気扇も回っている。営業しているようだ。
創業三十年、店主は初老の夫婦、そんな感じのラーメン屋だ。
日中ビーチで女の子と一緒に泳ぎ、ビーチバレーをして過ごした阿含の体に、
ラーメンの匂いはとてつもなく魅力的だった。
「腹へった。ちょっと食ってこーぜ、ラーメン」
暗い山道で、当たり前のように営業しているラーメン屋のふしぎな佇まいに、
雲水も思わず足を止めていたが、阿含の一言で我にかえったように歩き始めた。
「いま食ってどうする」
合宿所は基本的に自炊であるが、食材は定期的に配達される。
本来買い出しの必要はないのだが、暑さのせいで食材が思いのほか早く痛んでしまった為、
彼らは臨時の補給部隊というわけだ。
練習後の雲水もラーメンを食べたくない、と言えばまったく嘘になるが、
今日は彼らの調達する物資が到着しなければ、部員達は夕食にありつけないのである。
自分だけここで腹一杯になる事を、よしとはできない性格である。
「つーかよ、なんで俺等なのよ」
一年にでも行かせておけよとぼやきながら、
阿含もラーメン屋を横目に渋々歩き出す。
「ジャンケンで負けたからだ」
ジャンケンで決めるなど全く持ってベタではあるが、
参加して負けたからには文句はいえない。
「俺は負けてないんですけどー」
「お前は"出さなきゃ負けよ"で出さなかったからだ!」
雲水は振り返りざま、持っていたペットボトルを阿含に投げつけたが、
阿含はペットボトルを難なく受け止め、スポーツドリンクを一口飲んだ。
そして肩をいからせて歩く兄の背中に、今日何度目かのせりふをつぶやいた。
「すーぐ怒る…」
「雲水、海みえるぜ海」
分厚い木々の壁がひらけ、オレンジに染まった海の上に、
熟した赤い太陽が浮かんでいるのが良く見える。
海に面した合宿所に来て10日以上経過している。
海などいまさらめずらしくもないが、山から見下ろすとそれはまるで知らない景色だった。
空は夕暮れ特有の複雑な色が混じり合い、空も海も果てしなく広がっている。
雲水も思わず足を止め、瞬きもわすれて海の日没に見入った。
「あのさ」
阿含は海の方へ視線を固定したまま言った。
「なんだ」
その風景が気に入ったのか、雲水はまだ歩き出そうとはしない。
黙って阿含の言葉を待っている。
阿含はオレンジに染まった兄の横顔に視線を移して言った。
「まだ…着かねえの?」
彼らがこの山歩きをはじめて、すでに2時間以上経過していた。
合宿所を出た時は燦々と輝いていた夏の太陽も、今や大海原にとけ込みそうなのである。
そろそろ着いても良さそうなものだ、というより合宿所の管理人の話では、
1時間もあれば楽に山を抜けるだろうとの事だった。
「…」
雲水の表情が微妙に陰る。
阿含はなんとなく持っていた不安を口にしてみた。
「道迷ってね?もしかして」
アブラゼミのサラウンドはすでにヒグラシになっていた。
すこしの沈黙ののち、雲水は唇を真一文字にひき結んだまま、
ちいさく首をタテに振った。
雲水はとっくに道を見失っていたのだ。
「だあーもう、早くいーえーよー」
当たってしまった悪い予感に、阿含は脱力して頭を掻いた。
合宿所の管理人に書いてもらった地図を持って、道を選んできたのは雲水である。
阿含は地図すらみていない。ただ雲水の後をついてきただけだ。
「貸せよ」
阿含は兄の持っているチラシの裏に書かれた地図を初めて開いてみた。
それは阿含の知っている地図というものの概念を根底からくつがえす物だった。
しかしそれでいて、どこかで見た事のある地図だった。
「宝の地図かよ…」
それは子供の頃アニメで見たような、
財宝のありかを夢みたいにアバウトに記した地図によく似ている。
この地図でたどり着けると思った兄は、なかなかの自信家といっていいだろう。
「思うにさ」
阿含は役立たずの地図を兄に返しつつ言った。
出発時には元気に怒っていた雲水も、今はしょんぼりとしているように見える。
「もうちょい太い道に戻った方がいいんじゃね?」
最初は舗装された道路で、広くはないが車だって通れる道だった。
それが今や2人が並んで歩くのも難しい、
かろうじて草が生えてない程度の道になっている。
そのままフェードアウトしてしまってもおかしくない。
「そうだな…」
これまで悟られないように気を張っていた雲水の声は沈んでおり、
今まさに自分のふがいなさを責めている最中であろう。
「オラ、行くぞ」
阿含は左手で雲水の右手を掴むと、ずんずんともと来た道を戻りだした。
「使えねーなーオマエは」
口調とは裏腹に、阿含は雲水の手をぎゅっと強く握りしめる。
(気にすんなよ)本当はそう、言いたかった。
阿含のその気持ちを知ってか知らずか、
雲水は自分の手を引いて草をかき分けて進む弟の後ろ姿に、こう言った。
「お前のせいでバスに乗れなかったからだ」
「…しつっけーよ、この方向ウンコ!」
雲水の手にすこし力がこもったのを、阿含は気付いただろうか。
大誤算だ。
阿含はまっくろな森の中で、兄に気付かれないようにため息をついた。
だらだら兄の後をくっついて来ただけだが、通った道順の記憶には自信があった。
何の問題もなく山を脱出できると思った。
しかしそれは最初に通った時と同じように、明るければ、の話だったのだ。
「阿含、大丈夫か?」
昼間は日よけに多いに役立った森が、せっかくの月を覆ってしまう。
暗闇の降りた森はまるで異世界になってしまったかのようだ。
「ビミョー。お前さ、星で方角とかわかんねーの」
「なんだそりゃ」
唯一自由にできる光といえば携帯電話の液晶くらいなもので、
足下を照らす事くらいはできても、森の闇を照らすには貧弱すぎる。
分岐点はどれも正解のように見えるし、どの道も間違っていたようにも思えてしまう。
これでは闇雲に歩いているのとすこしも違わない。
「よくあんじゃん、マンガとかで。あ”ー、ヤメだ!ぜってー無理」
「遭難だな…」
遠目には「山」と呼ぶにはかわいらしすぎるこの山で、
遭難とは大げさな気もするが、完全な迷子になった事は間違いない。
「こういうとき、じっとしてろとか言うよな」
「歩いても仕方ないしな…」
こんな小さな山、たとえ闇雲に歩き回ってもそのうち抜けるだろう、
そう思いながら歩いて現在午後20時17分。
電波の届かない携帯電話は、簡易ライトと時計の役割しか果たしていなかった。
阿含は適当にあたりの草を踏み、腰を下ろした。
4時間以上も山道をうろついていたのだ、足の筋肉ははりつめていた。
「あーー、疲れた」
汗でどろどろの体が、無数のヤブ蚊に刺され、スポーツドリンクも尽き、
空腹と疲労で、2人の思考は停止しかけていた。せめて休憩が必要だ。
「悪かったな」
雲水は阿含の隣に腰をおろすと、ちいさくつぶやいた。
「はあ?超はらへったー」
阿含は雲水の謝罪を聞かなかった事にして、ばりばりとタンクトップの腕をかきむしった。
座ってはみたものの、このまま朝までここに座っていなければならないのだろうか。
今はまだ8時で、日の出までの時間はあまりにも長過すぎる。
「刺され死ぬんじゃねーかな」
蚊の猛攻撃と空腹さえなければなんとかなりそうなものだが、
この状態で夜明けまでの10時間弱を考えると気が重い。
「なんか前にもあったな」
表情は暗くてよくわからないが、
雲水の声はなんとなく笑っているように聞こえた。
BGMはもはや絶え間ない蝉の声ではなく、時折きこえるフクロウの声、
それと阿含の皮膚をかきむしる音だけだ。
「あった、団地な」
「今思うとなんで迷ったんだろうな」
幼い頃2人は、叔母の住んでいた社宅のある団地で迷子になった。
同じ形のマンションの社宅が、広い敷地に等間隔に並んで成り立つその団地で、
彼らは「遭難」したのだ。
「変な世界に入ったような感じで恐ろしかったな」
「建物も道も一緒なのに、着かないんだよな」
小さな彼らにとって、その団地はあまりに広く、
ただ単に道を間違えたのではなく、世界がおかしくなってしまったのだと思い込んだ。
みわけのつかない同じ建物、曲がり角にあったはずの公園、
2度と辿り着けない母と叔母の待つ家。
まるで自分たち2人だけが取り残されてしまったような。
今思うとばからしいが、当時の恐怖は今も鮮明だ。
「あん時、お前が大泣きして助かったんだよな」
「なに言ってる、それはお前だろう」
「はー?お前だよ、何言ってんの」
「お前こそ、都合の悪いことはすぐ忘れるな」
2人は一歩も譲らないまま、しばらく言い合っていたが、
あるきっかけで中断せざるを得なくなった。
「何、今の音」
「動物か?」
がさがさっという、あきらかな生き物の動く気配だった。
しかし姿が見えない。
見えないが確実な気配が濃厚に漂っている。
昼間は人の手で整備されたように見えた小山も、
闇が満ちた今、ここは無数の生き物の住み処なのだと実感する。
「阿含、もう少しひらけた所へ行こう」
今度は雲水が阿含の手を取って立ち上がった。
まさか熊など出やしないだろうが、
この鬱蒼とした場所にいるよりは月の光が当たる所へ行った方がいい。
意外なことだが、阿含はあまり動物が得意ではない。
これも子供の頃のことが原因なのだが、知っているのは両親と雲水の家族だけだ。
「おう」
いつもと同じ、阿含の声。
けれどすこし強ばった阿含の手を、雲水は力強く握りしめて阿含を立ち上がらせた。
じっとしていた方がいいとは言うが、
なにも広大な雪山ではないのだから歩いていたって問題ないだろう。
「しかしみんなには悪いことしたな」
阿含の手を引いて歩きながら、雲水が言った。
日が昇れば山を出る事はできるだろうが、食料調達を果たせなかったのだ。
部員達は一体どうしているだろうか。
「死にゃしねーし、ん?」
ふと阿含が何かを見つけたように立ち止まった。
木々の幹のすきまを探すように、なにかを見ている。
「なんだ?」
雲水も同じ方向を見る。
「あ」
「明かりだな」
自分たちのいる地点よりかなり低い場所だが、ぽつんと民家らしい灯が見える。
行けば少なくとも電話くらいは貸してもらえるだろう。
夜明けまで10時間、あてずっぽうに歩くよりその民家を目指したほうが10倍早い。
「やりー、行こうぜ」
阿含が雲水の手を引いて、草をかきわけた。
道なりに行くよりも斜面を直接下りたほうが断然近いのだ。
「ああ、これで何とかなりそうだ」
そう言い終えると同時に雲水の阿含とつないだ手が、物凄い力で引っ張られた。
やべえ、そう阿含の声が聞こえ、その後はもう一瞬の出来事だった。
やはり暗闇の山で動くべきではなかったのだ。
斜面は一部がちいさな崖のようにせり出しており、それに気付かずに踏みだした為、
その長い長い斜面を2人は転がり落ちる羽目になった。
「うんすーい、生きてっかー!」
転がりながらも木に掴まり、やっと転落地獄から脱出した阿含が叫ぶ。
タンクトップからむきだしの腕が、あちこちすりむけたようでヒリヒリする。
暗くてよく見えないが、全身どろまみれなのだろう。身体が重い。
「あごーーん!!」
すこし遅れて、雲水の声は阿含のいる地点よりだいぶ下から聞こえてきた。
止るのが遅かったようだが、どうやら無事らしい。
もはやここまで転がり落ちたら、下りるしかない。
阿含は足場を確かめながら、急な斜面を下りた。
「こっちだ、阿含!ちょっと」
雲水らしきシルエットが急げと手招きしている。
阿含は後半を一気に駆け降りると、白いTシャツがまだらになった雲水に再会した。
顔にもどろがついているように見える。
「あれ」
阿含がそばまで来ると、雲水が指をさした。
一気に転がり落ちたお陰で、目指していた民家はもうすぐそばだった。
阿含はがさがさと草をかきわけ、斜面の林を出た。
斜面をぬけるとそこはひらけており、なによりどろどろになった阿含のビルケンシュトックは、
アスファルトを踏んだのだ。
そして目の前に現れた明かりの正体は。
「ラーメン屋だ…」
山の入り口で見た、あの古ぼけたラーメン屋がそこにあった。
驚くことに、湯気がたちのぼり、まだのれんすらかかっている。
「戻ってきたのか…」
雲水も、泥まみれのスニーカーで一番最初の道へ下りた。
その傾きかけたラーメン屋は、とてつもなく平和な佇まいで、
何時間か前とぴったり同じ姿で、いい香りの湯気をたちのぼらせていた。
2人は泥だらけの顔を見合わせると、同時に吹きだした。
「雲水」
こらえ切れないというように笑いながら、阿含が言った。
「うん?」
雲水も肩を揺らして笑った。
阿含が次になんと言うのか分かるからだ。
2人は泥だらけの顔でしばらく笑っていたが、
やがて阿含が、答えのわかりきった事を言った。
「ラーメン、食って行こうぜ」
「ああ、食っていこう」
end.
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