彼の渇いたくちびるからは、暖かい息が白い煙となって吐き出され、
彼の身体からは桐箪笥と防虫剤のまじりあったようなほのかな香りがしていた。
「ん?すこし、きついか」
雲水はひとり、つぶやいた。
彼はまだ17歳の育ち盛り。一年前の足袋がきつくても不思議はない。
そう、雲水は彼の息のように真っ白い足袋を履いていた。
「だからって靴下を履くわけにはいかないからな」
ちょうど一年前の12月30日に履いてから、
ずっと仕舞われたままだった足袋は多少窮屈ではあったが、雲水は足袋のこはぜを留め、
つぎにワラジに手を伸ばし、白足袋の足を入れると慣れた手つきで足首にくくりつけた。
ワン!ワンワンワンワン!!
金剛家の庭先で飼われている、柴犬がけたたましく吠えた。
来客だろうか、雲水が立ち上がって庭を覗くと、珍しい人物が現れた。
「ワンワンワンワンうるっせー!いいかげん覚えろ!クソ犬!!!」
そう言って容赦なく柴犬に蹴りを入れている男。
「阿含!」
ここは雲水の実家であると共に、阿含の実家でもある。
しかし冬休みとはいえ、阿含がこの家によりつく事はめったにない。
親戚やら檀家やらがせわしなく出入りするこの季節は得にだ。
犬に顔ならぬ臭いを覚えてもらえないのも当然と言えよう。
「こっちは二日酔いだっつの、腹立つな・・・」
そこまで言って、阿含はぴたりと歩を止めた。
そこに雲水の姿があったからだ。否、雲水のいでだちがあまりにも・・・・
「・・・雲水・・・血迷った?」
雲水が足袋とワラジを履いている事は前述したが、
それ以外にも雲水は日常ではまず、着ることのない服を着ていた。
いや、服というよりは衣装と言ったほうが正しいだろう。
白い足袋と同色のももひきを履き、上半身にはやはり白の鯉口を着、
その上には袖と丈の短いちょうどハッピのような着物を着ている。
群青色の背中には"金剛寺"の文字が白抜きでデカデカと入っている・・・あきらかに特注品である。
さらにはその着物を黄色の帯で結び、紅白のたすきまでかけている。
頭にはもちろん、はちまきだ。しかも結び目は額側、ときている。
「なんのことだ」
それでも。そんな現実離れした衣装を着ているにもかかわらず、
雲水は怪訝そうに問い返した。
「ア、アッタマおかしいわけ?なんだよそのカッコ。コスプレ?」
阿含は無理に笑おうとして、妙な顔になっている。
「何を言う、毎年着ているだろう」
雲水はしれっと言った。
「毎年!?なんでっ」
最もな意見だろう。
祭でもあるまいし、なんの意味があって年末にそんな格好を、しかも毎年しているのか。
「おっと、もち米が」
雲水は阿含の問いには答えず、白い蒸気をあげている、かまどのせいろに向かった。
「モチゴメ?」
ますます意味がわからないと、阿含は雲水についてせいろをのぞき込んだ。
雲水がせいろのふたを開けると、熱い湯気がもうもうと立ち昇り、
もち米の香ばしい匂いが鼻をついた。
「あー。餅つきか」
阿含は、やっと理解した。金剛家は毎年12月30日に餅つきをする。
餅つきというと正月を思い浮かべるが、正月についたのでは餅が固まらず、切る事ができない。
すなわち食う事ができないのだ。
「そうだ、お前も昔は着ていただろう」
雲水は自分の胸のあたりの着物をひっぱって見せ、湯気ごしに微笑んだ。
そう、遠いむかし、まだ、阿含が"物心"ついていない時、
幼かったふたりは揃いの着物を着て、この師走の30日には、
餅つきを手伝ったものだ。
「お前は嫌がって、写真にも残っていないがな」
もち米の匂いのする蒸気を浴びながら、雲水は笑った。
"物心"ついてから、阿含がこの毎年恒例の行事に参加する事はなかった。
家にすら帰って来なかったのだ。
阿含は餅つきのことも、小さい頃から嫌だったこの衣装のことも、忘れていたのだ。
「うまそう、だな」
阿含はせいろに手を伸ばした、餅になる前に少し失敬しようというのだ。
ばしっ
「いって!」
雲水がすかさず阿含の手をはたく。
「まったく、お前は成長しないな」
どうやら、子供のころにも、阿含はつまみ食いをしようとして、
雲水に手を叩かれていたらしい。
「俺は餅をつく。手伝うか?」
雲水はせいろをタオルで押さえて抱え上げると、阿含に言った。
「まさか、だろ?どうせ、ソレ着ろーとか言うの目に見えてるっつの」
阿含は欧米人がやるように、両手のひらを天にむけ、肩をすくめた。
「そうか」
雲水はそうひとことだけ言うと、
阿含に背を向け庭に用意した臼に向かって歩き始めてしまった。
「え?オイオイ、どうした雲水。ずいぶんドライじゃね?」
説教か、もしくはカミナリが来ると思っていた阿含は、
雲水のあまりにもあっさりとした言葉に拍子抜けした。
「・・・手伝う、というなら着ないわけにはいかない。
しかし、お前が着るはずがないだろう」
雲水はそう言って、炊き立てのもち米を臼にあけた。
「岡島さん、今年はいい出来だな・・・」
雲水は臼にあけたもち米を眺めてつぶやいた。
「は?オカジマ?誰?」
阿含が問う。知らない名前だ。
「ほら、毎年もち米をくれる・・・。
ああ、昨年御主人をなくされて・・確か戒名は・・・」
「いやいやいやいや、戒名聞いてわかるわけねーだろ」
雲水は下がったまゆ毛をすこし上げると、手のひらですくった水で杵を濡らした。
「さて」
雲水は杵の柄を握ると、前後に足を開いて膝を曲げ、
腰を落として杵をかつぐように振り上げた。
そして臼の中のもち米めがけて降り降ろす。
さすが、毎年やっているだけある。その様子はとても様になっていた。
ぺったん
古ぼけた木製の杵がもち米を打つ。
そして雲水は杵を臼に立て掛け、そばに用意した水の入った桶に手を入れた。
充分にぬらした手のひらで、杵に打たれて広がったもち米をまとめる。
ふたたび杵を握る。ふりかぶる。
ぺったん
杵を臼に立て掛け、桶に手を入れる。もち米をまとめる。杵を握る。
ぺったん
この繰り返し。
「・・・・・あのさ」
雲水の餅つきを眺めていた阿含が口を開く。
「っなんだ?」
ぺったん。
杵を臼に立て掛ける。
「毎年・・こうやって餅ついてたワケ?」
阿含はせわしなく働く雲水から目が離せない。
「どういう意味だ?」
ぺったん。
杵を臼にたてかける雲水。
それから手を水にひたす雲水。
その手でもち米をまとめる雲水。
ふたたび杵を握る雲水。
「いや、だから・・・一人で」
そう。あきらかにおかしいのだ。
餅つきというのはだいたい一人が杵でつき、一人がまとめる。二人三脚で行う仕事である。
ところが、つくのもまとめるのも、雲水ただひとり。
「馬鹿な。父さんと母さんと三人だ」
ぺったん
「・・で?そのジジイとババアは?」
阿含が帰ってきてから、父と母の姿は見ていない。
「温泉旅行だ。長野へな。善光寺にも行くらしい。明日の夕方、帰ってくる」
ぺったん
だからってお前一人で餅つきかよ・・・。
雲水の歯切れの悪い餅つきの音が庭中にこだまする。
「・・・手伝ってやろうか」
阿含は見るにみかねて言った。
「助かるな。じゃあ着替えてこい」
ぺったん
「別にソレ着る意味ねーじゃん、誰が見てるわけじゃねんだし」
いかにも。
餅つきどころか広い庭と寺を含めた面積の中で、彼らを見ている者など誰ひとりいない。
柴犬でさえ見ていないのだ。それどころか先ほどまでは阿含さえ見ていなかった。
「着ないなら、いい」
ぺったん
それでも、雲水は頑なに断った。
阿含は、想像した。
二日酔いであるし、餅つきに付きあわなければ家へ入って寝るだけだ。
その間、雲水はずっとこうして、おかしな格好で、一人で餅つきを続けるつもりなのだろう。
しかも、もち米の入ったせいろは視界に入るだけでもあと四つはある。
「わあったよ・・・・俺のもあんのか、ソレ」
阿含は観念した。完敗だった。
兄がたった一人で奏でるこの間抜けな餅つき音頭を聞きながらでは、
気になって寝ている事などできない。
「ああ、母さんの桐箪笥に。去年、新調したんだ」
雲水は手を止め、阿含を向いて嬉しそうに言った。
実際、雲水は嬉しかったのだ。
本当に何年ぶりだろう。阿含と餅つきをするのは。
小さくなった着物を昨年母が新調してくれた時に、
阿含のぶんも一緒にお願いしたのは雲水なのだ。
いつか阿含が手伝う気になった時、この着物がなくてはあまりに淋しいだろうと思ったからだ。
「くっだらねーもん買いやがって」
阿含はそう毒づいたが、本当に嬉しそうに頬を染めた兄を見て、正直照れくさかったのだ。
阿含が家へ入ってしばらくした後、雲水が足袋を履いていた軒先で阿含はすでにふてくされていた。
「つうか、キチーんだけどコレ」
足袋だ。
やはり一卵性双生児。雲水が育てば阿含も育つ。
阿含にも去年新調した足袋が合わないようだ。
「あ"ー蘇ってきた。過去が」
雲水と色もデザインもぴったり同じ格好をして、
雲水とおなじく小さな足袋を渋々履いた阿含がウンザリと庭先に出てきた。
「それ、左前じゃないか」
何年ぶりに金剛家伝統の餅つき衣装に身を包んだ阿含を見て、雲水が言った。
その純和風の衣装がおそろしく似合ってないとか、せめてサングラスははずしたらどうか、
などにはあえてツッコまなかった。
「は?左、後じゃん」
阿含は自分の着物の合わせを確認し、言った。
「着物の場合は身体にくっつく方が"前"になるんだ。まあ、いいが」
ほら、お前がつくか?と雲水は杵を阿含に差し出した。
「力仕事マジ無理。俺、アタマ痛てェの」
阿含はそう言うと、臼をはさんで雲水の反対側にしゃがみこみ、
水の入った桶を自分のほうに寄せた。
阿含の着物が死に装束になっているとか、同じ顔した双子なのに衣装を着た印象が全く違うとか、
阿含が飽きずに手伝うのか、など問題は色々だが、
いよいよ、金剛兄弟の餅つきである。
「いくぞ」
雲水が杵を担ぎ上げた。
「おうよ」
阿含が桶に手を入れる。
ぺったん
雲水がすぐに杵を上げる。
阿含がすかさずもち米をまとめる。
ぺったん
ぺったん
ぺったん
「オー。これが餅つきだろー」
阿含はさも自分のお陰だと言いたげに、正常な餅つきのリズムを聞いた。
「ああ、やっぱりこうだな。すこし早くするぞ」
雲水の額にうっすらと汗が浮かんでいる。
「オーライ」
阿含も機嫌が良さそうだ。
ぺったん
ぺったん
ぺったん
ぺったん
ぺったん
「ちょ、ま、早えーって!!!」
ぺったん
「バッ、あぶねっ」
ぺったん
「とまれっ雲水とま」
ぺったん
「雲水っ!」
ぺったん
「お前が」
ぺったん
「先に」
ぺったん
「止れっ」
ぺったん
餅つきとは不思議なものである。
今どき杵と臼で餅つきをする事は殆どないであろうが、
振りかぶってくる杵の迫力は相当なものであり、
また杵を持つ方も相手の手を打ってしまうのではないかと、恐怖にかられる。
ところがそんな恐怖があるのに、加速してしまうのがこの古来からの餅つき。
しかも早すぎるのならば、中断すればいいだけなのだが、
突かれると思わずこねてしまい、こねられると思わず突いてしまうのだ。
「マジっ」
ぺったん
「やめろっ」
ぺったん
「怖えっ」
ぺったん
はたしてこの高速の餅つきはいつ止るのか。その時、庭先で人の気配がした。
ワン!ワンワンワンワンワン!!
気配に気付いた柴犬が、けたたましく吠える。
「あっ」
犬の声を聞き、雲水がやっと手を止めた。
止った雲水の杵に、阿含はやっと止ったとばかりにドカリと庭に座り込んだ。
「そうだった、忘れていた」
雲水の息は上がっていた。
「何を?」
阿含は心底疲れ切ったという顔で、兄を仰ぎ見た。
「手伝いに来るんだった」
雲水は杵を立て掛けると、額の汗を鯉口の袖でぬぐった。
「だれがー?」
阿含は両手を突き、足を放りだして、顔は空を仰いでだらしなく座っていた。
「一休」
「ハ!?」
空に向いていた阿含の顔ががばりと雲水に向けられた。
「すいません、おそくなりました〜」
のんびりとした声が庭先から聞こえた。一休の声だ。
「バッなんでそれを・・・!」
阿含があわてて身を起こす。
「ああ、悪かったなわざわざ」
雲水が自分の居場所を示すように片手をあげて応える。
「あ、始まっちゃってました?
あれ・・・・?阿含さん?」
一休は目立たないわけがない衣装を身にまとった阿含の姿を、まっさきに捕らえた。
「スゲーっす!ふたりとも鬼カッコイイっす!!」
一休は大喜びで手にしていたあるものを、かざした。
ピロリ〜ン♪
カメラ付き携帯電話だ。
「・・・・っ!!なに写メってんだよ!!!」
阿含は、小さい頃から拒み続けてきた、この恥ずかしい餅つき衣装姿の写真を、
いとも簡単に撮られてしまった。齢17にして。
「消せ!つうかケータイよこせ!!」
阿含はすばやく一休につかみかかったが、
危険を感じた一休は携帯電話を、キャッチャーフライのように高く放りなげた。
青空に弧を描いて落ちる一休の携帯電話。
ぱしっ
携帯電話をキャッチしたのは。
「雲水!!!」
一休の携帯電話を受け取った雲水が、彼特有の爽やかな笑顔で言った。
「タッチダウンだ」
その後、雲水によって守られた阿含と雲水の餅つき衣装の写メールは、
いまでも、雲水の携帯電話の待ち受け画面になっている。
end.