「申し訳ありませんでした」
十かそこらの少年が両手をつき、畳に額をこすりつけている。
春の夜の青臭い空気によく似た少年。
子どもの柔らかさは薄れつつあっても、骨が目立つわけでもない、
ただ痩せた背中が月の光を背負う。
「わかっていますね」
開け放たれた障子戸に向かって立つ男は、
土下座の少年に裁きを下す閻魔大王よろしく厳しい口調で言った。
金剛寺の古株の坊主だ。彼が出家して間もない頃、金剛寺には双子が産まれた。
以来、双子にとって親のような、教師のような存在である。
痩けた頬にかかるふちなしの眼鏡が月光を受けて光る。
戒名は栄達。しごく柔和な男である。
栄達の口調は閻魔大王だが、その表情は地蔵菩薩のそれである。
「はい。只今より始めます」
土下座の少年の唇は畳に近接しているため、その声はくぐもっている。
「雲水、おもてを上げなさい」
頭上からの栄達の声は、ふわりと舞い降りたようであり、
雲水のこわばった肩の筋肉は、瞬時に許された。
「はい」
雲水は11になっていた。
上げた顔はその歳の子にしては凛々しい。大人の世界を知っているのだ。
その大人びた雲水の顔を、栄達は見つめた。
「珍しいことも、ありますね」
下がった眼鏡を上げながら、栄達はつぶやいた。
双子の兄、雲水の事はまだ首も座らぬうちから知っている。
彼の記憶が正しければ、雲水が寺の取り決めを破った事はただのいちどだって無い。
そう、今日を除いては。
まだ11の少年の、初めて破った禁に栄達はむしろ安心をおぼえた。
雲水は、恥じ入るような、悔やむような複雑な表情でまつげを伏せた。
それでいて、すがすがしい。
その表情が、まるでふつうの子どものようで。
連絡のひとつも入れず、18時半の夕飯の時間を過ぎても帰ってこない。
目くじらを立てるような事では無いと思うのは、金剛家の人間ではないからだ。
彼らが守らなくてはならない決まり事は、驚くほど多い。
雲水は今日、20時をまわったつい先ほど帰宅した。
「理由を聞く必要がありますか」
栄達はわかりきってはいながら、一応、という声色で問うた。
「ありません。申し訳ありませんでした」
雲水は栄達の予想した通り、また予想されている事を知りながら、
きっぱりと言い、もう一度ひたいを畳につけた。
予想通りの雲水の答えに、栄達は肩だけでちいさくため息をついた。
「あす、日暮れまで」
それだけ言うと、土下座のままの雲水をまわりこみ、
開いていた障子戸を抜け、後ろ手で静かに閉めると、
古い廊下の板を踏んだ。
廊下のきしみが遠のくと、雲水はすぐさま顔を上げ側の文机に向うと、
引きだしの中から、すずり、筆、写本、次々と取り出しては机にひろげていった。
雲水はこの窓のない四畳半の部屋で、明日の夕暮れまで写経をして過ごすのだ。
この部屋はその為にあると言ってもいい。
雲水が写経を始めてしばらくもすると、やや軽いきしみが近づいて来た。
ぎいぎい、という音は障子戸の前でぴたりと止る。
「あっちへ行ってろ」
雲水は目線を机から動かしもせず言った。
「・・・・・・・・」
戸は開かずとも、明らかな気配がそこにある。
「お前もやりたいのか」
雲水は睨みつけるような声で、障子の向こうの生き物を追っ払った。
「・・・・・・なにしてたの」
障子の向こうの側の生き物が発したちいさな声が、わずかに障子紙を震わせる。
「あっち行ってろって」
滑る筆から目を離し、雲水は障子を染める影をきっ、と見た。
「聞いたら、行く」
障子の向こうの恨みがましそうな声は、阿含のものである。
彼、が帰る時、雲水がいなかったのは今日が初めての事だった。
おいてけぼりを喰らったのだ。放課後の教室、雲水はすでにいなかった。
おいてけぼりにした以上、これだけは答えねばならない。雲水は筆を止めた。
「サッカーやってた」
雲水の泥だらけの靴下も、そう言っている。
「サッカー・・・。ユータのやってるやつ?」
阿含は、廊下に立ち尽くしたまま、
障子の向こうで仕置きの写経をやっているであろう雲水を視た。
途端、障子紙が待ちかねたように振動を始めた。
「そう、俺はじめてやったんだ。サッカー。
ユータに誘われてさ、ユータのチームの練習にまぜてもらって」
その時、阿含の胸になにかが奔った。
物陰に隠れながら、阿含に気付かれないように奔ったなにか。
一瞬だけ、ほんのちらりと阿含に見えた。
「おもしろいの」
阿含はそう言いながらも、いま動かない、
見えない物陰にじっと潜んでいるなにかに、必死に目を凝らす。
「おもしろいよ、すっげー難しいけど。ユータとかすっごい上手いんだよ。
なんで足だけでなんであんな風にできんだろ。俺まださ、5時くらいだと思ってたん」
「雲水」
阿含は言った。
見えない。
阿含は思った。
絶対にそこにいるはずなのに、見えない。
多分、阿含のみたことのない、何かの姿。
「なに」
筆はきっと止っているだろう。
雲水の声は嬉々として、熱い。
「あ、ごめん。お前も呼べばよかったな」
雲水が阿含の異変に気付く。
それでも興奮の色は隠せない。
それほどに昼間の楽しい記憶が彼を占領している。
彼もまだ、子供なのだ。
障子の向こう、見えない雲水。
どんな顔をしているか、視える。
筆の先は乾きはじめて、ぱりぱりになっているだろう。
目がいつもより大きくなっているだろう。
頬の筋肉が上がっているだろう。
頭のなかは、"サッカー"でいっぱいだろう。
今、うごいた。
ほんの少し、みえた。
やっぱり、みたことない。
「阿含、ごめんって。明日、お前行ってこいよ。
市営グランドでやってるから、俺、いけないし。絶対おもしろいからさ」
阿含のために興奮を抑えようとする声と、残念そうな声が、
障子を弱く震わせる。
「なんで」
阿含は、脅え始めていた。
ちらりと見えてしまった何かに。
高揚した雲水の声に。
雲水のその声が、その何かを奔らせることが本能的にわかった。
「なんでって、おもしろいぜ」
雲水はなぜ、そんなに楽しそうなんだろうか。
あの、ちょっとだけ見えたやつ、ちょっとしか見えなかったけど、
もしかしたら、物凄く大きいのかもしれないし、
噛み付いてきて、ばりばり食べられてしまうかもしれないのに。
なぜ雲水は、そんなに楽しそうなんだろう。
「一緒にやろうぜ、阿含」
いつのまにか俯くように下がっていた阿含の頭がぴくり、と上がった。
「お前も絶対おもしろいと思うって」
栄達さんにちゃんと話してチームに入れてもらおうぜ、と雲水は続けた。
雲水は阿含の思った通り、紙から離れた筆を握り、
目を輝かせていた。
「あ、ばか」
雲水は言った。
阿含が障子戸を開けたからだ。
「栄達さんにみつかったら」
雲水は筆を置き、くちびるに人さし指を当てた。
「いっしょにやる」
阿含は戸口に立ち尽くしたまま、言った。
それが写経のことなのか、サッカーの事なのか、
雲水は一瞬判断しかねた。
「いっしょに、やる」
逡巡する雲水に、もういちど。
写経か、サッカーか、多分どちらもで、どちらでもなかったのだろう。
とにかく、一緒にやる、という意志表明だ。
「サッカーはな。写経はやんなくていい」
雲水はそう言って立ち上がると、自分と阿含の視線のぶつかり合う直線上に、
ぴしゃん、と障子戸をすべりこませた。
「明日、2時から練習やってるから」
障子紙に遮られた、同じ高さにある雲水の唇がそう言った。
チームに入れるか聞いてきてくれ、と続けてから畳に正座する音が聞こえた。
「早かったなー」
雲水は寺の縁側で、門をくぐってくる弟を出迎えた。
「雲水、もういいの」
阿含は雲水の姿に気付くと、走り寄った。
まだ、日は暮れていなかった。
「もういいって、許してもらった」
日暮れまでという仕置きを早めに解放された雲水が、照れ臭そうに笑った。
「それより、どうだった?早かったな」
阿含は雲水の言った通り、少年サッカーの練習にまざる為、
市営グラウンドへ行っていた。
「途中でかえってきた」
阿含は言った。
よく見れば、阿含の靴も靴下も身支度したてのように、奇麗なまま。
「ほんとに行ったか?」
雲水は昨日のボテボテになった自分の靴を思い出した。
「行ったよ」
むっとしたように、阿含が眉をしかめる。
それからこう、続けた。
「もう、夕飯になっちゃうと思って」
その言葉を聞いて、雲水は振り返った。
壁にかかった時計を見る為だ。時計の針は雲水が思っていた時間と一致していた。
それは空の明るさとも、太陽の位置とも一致していた。
「まだ、4時だぞ」
夕飯は6時半。
阿含は心底驚いたような顔をした。
「4時?」
阿含も壁掛け時計に目を移す。
4時7分。
そういえば、空が明るい。
「4時だ」
ポカンとした阿含の顔に、雲水が吹きだした。
阿含は、ぼう然としていた。
練習が始まってたったの2時間しかたっていないからだ。
4時間にも5時間にも、1日にも感じた時間が。
たったの。2時間。
ゲラゲラと笑う雲水に、阿含はなぜか置いていかれたような気持ちになって、
とても笑えなかった。
1ヶ月後、2人は寺の許可も得て少年サッカーのチームに所属していた。
とはいえ、まだポジションもさだまらない。
ボールを手で触らない、という事にやっと慣れた程度だ。
そんな折り、少年サッカーの都道府県大会のメンバー発表があった。
12歳以下の大会である。
双子をサッカーチームに引き入れた、佐藤祐太は7歳からチームに所属しており、
出場経験が2度ほどある。
雲水の胸は高鳴った。
自分が選ばれるかどうかではない。
いや、多少の期待がなかったとは言えないが、さすがに始めてまだ1ヶ月である。
自分が年下の少年よりも下手くそである事はわかっていた。
その点、佐藤祐太のサッカーはすごい。
佐藤祐太が選ばれないのであれば、たったひと月とはいえ、
これまでの自分が否定されるような気がしてしまう。
ユータ。選ばれろ。
佐藤祐太が選ばれれば、いつか自分も彼のように上手くなれる気がした。
そんな子供じみた考えは、子供だけの特権なのだ。
グラウンドに膝を抱えてすわった少年達の前で、
チームの監督がコピー用紙を広げた。
いよいよ、発表だ。
練習の中心になっている年かさの少年も、補欠の少年もいっせいに唾をのむ。
監督は高校サッカーの出場経験があるが、
今は40手前。会社務めのかたわら少年サッカーの監督をしている。
少年サッカーとはいえ、その場の空気はけっして子供たちの集団ではなかった。
命令が下されるのを待つ、兵士さながらの緊張感だ。
「ゴールキーパー、山岸。
デフェンダー、高橋、武田、浦上、鈴木正輝」
チームは総勢40名。
監督の声も、神妙なものだった。一人一人、刻むように名が呼ばれる。
選ばれた少年も、また選ばれなかった少年も、
上げられた名前に誰一人声をあげる者はいなかった。
雲水のまだ出ていない喉仏が、ごくり、と動く。
佐藤祐太のポジションはフォワードだ。
「次、ミッドフィルダー。矢沢、金杉誠、遠藤、仲本」
雲水は佐藤祐太の横顔を見た。
真っ直ぐに、焼けた横顔が監督の白い紙を見つめていた。
信じている。監督を、自分を。
そんな横顔だった。
「最後、フォワード。斉藤信治、金剛阿含。
以上、11名」
これまで声ひとつあげなかった40名以上の少年がざわり、と波打つ。
金剛雲水が最初に思った事は、
佐藤祐太が選ばれなかったことだろうか?
自分と一緒に入った弟が選ばれたことだろうか?
瞬時のことで定かではないが、問題は、後先ではないのだ。
この後
都道府県大会を目前にして、金剛雲水、金剛阿含、両名の離脱。
それだけが残る。
佐藤祐太はフォワードとして出場し、初戦で2得点を成し遂げた。
それだけが、結果だった。
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