「下駄屋?」
玄関でしゃがみこむ坊主頭に声をかけたのは、阿含だった。
きれいに刈られた兄の頭より、いくぶん放置された彼の髪の先端は、額に掛かるほどに伸びている。
伸ばしたというよりは、伸びてしまった。まったく整えられていないボサボサの黒髪。
坊主頭の兄は靴ひもを結ぶ手を止めず、弟を振り返った。
当然のように、ふたりは同じくらいの早さで成長していた。
まだまだ幼さの残る顔。やわらかさのなくなりつつある、薄い胸。
「そう」
彼らは今年の春から中学へ上がっていた。
まだ声変りしていない、制服のサイズが身体にあっていない、
なぜだか頬のほんのり赤い、どこにでもいる田舎の中学生。
靴を履く雲水のそばには風呂敷包みがあった。
形からいってちいさな鍋だろう。
祖父のところへおかずを届けに行くものと思われる。
"下駄屋"というのは、その昔履物屋を営んでいた母方の祖父の家の屋号で、
今も名残でそう呼ばれている。
毎日の事ではないが、週に一度か二度は2キロほど離れた祖父の家へおかずを届けに行くのだ。
最初は彼らふたりで。最近はどちらかが、この仕事を受け持っている。
「歩き?」
台所から注いできたと思われる、麦茶のコップを片手に阿含が言った。
たしか雲水の自転車は、数日前パンクしたままだ。
「そうだな」
雲水は左足の靴ひもに取りかかりながら、開け放たれたままの玄関に目線を上げた。
秋の日は早い。
今はまだ陽があるが、1、2時間もして家へ戻る頃には暗闇だろう。
今日は天気が良い。星が出るかもしれない。
虫が、鳴いている。
「じゃあ、行ってくる」
雲水は立ち上がると、風呂敷を掴んだ。
「ん」
阿含は麦茶のコップに口を付けたままそう答えると、
がらがらと玄関の引き違い戸を締める雲水を見送った。
やっと存在を現わしたばかりの尖った喉が、ごくり、と上下する。
阿含の自転車は、パンクしてはいない。
パンクした雲水の自転車の横に、とめてある。
俺の、乗っていけよ。
いくら会話を交わしても、阿含がそう言わない距離感が13歳のふたりにはあった。
雲水が庭の砂利を踏む音が聞こえ、阿含が引き違い戸から目を離した時、
電話が鳴った。
「はい。金剛です」
阿含が受話器を取ると、電話の向こうから音楽のようなざわめきのような騒音と一緒に、
聞き覚えのある、それでいて記憶の中のその声より、やや低い声が聞こえた。
「あ、えーと。俺。ユータ」
名乗るまえにすでにわかっていた。
元チームメイトの"ユータ"だ。
佐藤祐太と同じ芝を踏んだ1ヶ月間から、早2年がたとうとしている。
あれから佐藤祐太とは同じ中学に進んだとはいえ、疎遠になっていた。
こうして気軽に電話がかかってくるような間柄ではなかったのだ。
それは電話をとった阿含とも、出かけている兄の雲水ともだ。
「おー、ユータ」
とっさに気の利いた言葉が出なかったのは、
意外な人物からの沙汰というだけでなく、固定電話にもかかわらず、
かしこまるわけでもなく砕けたユータの口調のせいだったのかもしれない。
「何、っつーわけでもないけどさ、今ヒマ?」
相変わらず佐藤祐太の背後は騒がしい。
彼は携帯電話を所持していて、外からかけているのかもしれない。
ちなみに金剛寺の双子に携帯電話は与えられていない。
「うん、まあ。ヒマだよ」
受話器に唇をあてながらも、阿含は麦茶を口に運んだ。
いやな、予感がしていた。
「じゃあ出てこいよ。久々にあそぼうぜ」
なぜ今さら佐藤祐太が電話をかけてきて、一緒に遊ぼうと言い出したのか、
阿含は一瞬疑問を感じたが、嫌悪は感じなかった。
彼とは仲が良かったし、あれから2年もたっている。
「別にいいけど」
コップの中の麦茶をゴボゴボ言わせながら、阿含は答えた。
グラスが息でしろく曇る。
「ん?」
喧騒の中のユータの声が、なにか珍しい物でも見つけたように、声色を変えた。
そうだと、おもった。
「お前、阿含か?」
よくある事、だ。
予感は的中していた。
佐藤祐太は、中学へ上がってほとんど学校へ姿を見せていない。
サッカーは、ずいぶん前に辞めていた。
阿含は、出かける準備をした。
「はあーい」
下駄屋のインターホンを押すと、
中から聞こえてきた声はあきらかに祖父のものではなかった。
若い、子供のような女の声。
パタパタと廊下を走る音が聞こえ、
サンダルか何かを足にひっかけたような音が、戸の向こうで聞こえる。
ステンレスの引き戸を開けたのは、黒い髪のおかっぱ頭。
「雲水・・・」
彼女は雲水の母親の姉の子、すなわち従姉妹にあたる。
名は千秋、という。
千秋は雲水の顔を見て、次に風呂敷包みを見た。
「やだ、かぶっちゃった」
お母さん慣れない事するから、と続けた。
どうやら彼女も祖父のところへ夕飯の足しになるような物を持ってきたらしい。
「おじいちゃん、雲水きたよ!」
千秋が家の奥へ向かって叫ぶと、上がって行け今日は千客万来だなあ、
という祖父の朗らかな声が聞こえた。きっと奥で茶でもすすっているのだろう。
「今日、部活は?」
千秋に風呂敷包みを手渡すと、雲水は靴を脱いだ。
彼女と双子は同じ学区内に住んでいる。
金剛寺と千秋の家は軽く4キロは離れているが、田舎の事。
学区の広さは都会の比ではない。
「あれ、知らないの?大野先生ぎっくり腰だって」
いとこであると同時に、同い年で小学校からの同級生でもある千秋は、
13という年齢の雲水が、意識せずに喋れる唯一の異性だった。
なにしろ、兄弟のようなものなのだから。
「あさってには出てこれるらしいけど、うわ、おいしそう!」
千秋は雲水の持ってきた風呂敷を開けて、覗きこんだ。
なんの事はない、かぼちゃの煮付けだ。
飯のおかずにするには甘すぎて、雲水はあまり好きではない。
「おじいちゃん、こっちにしなよ!お母さんのヤバイって」
千秋はのれんを開けて祖父に言った。どうやら祖父はすぐに夕飯を始めるようだ。
伯母はいったい何をこしらえたのか、そもそも伯母が料理を届けさせるなど珍しい。
なにしろ彼女は千秋によく似て活発な女性ではあるが、
料理はあまり得意ではないのだ。
「俺、帰るけど」
雲水にとってここは祖父と和む場所ではない。
自分の仕事のひとつではあるが、長居する場所ではないのだ。
「あ、じゃあ私も。おじいちゃん、ヤバかったらそれ食べなくていいからね!」
千秋は台所の椅子にかけてあったベージュのパーカーを掴むと、それを羽織った。
雲水が下駄屋に着いて30分も経ってはいなかったが、
青かった空はすでに橙と紺に変っていた。
千秋は乗ってきた自転車を引きながら、雲水と並んで歩いた。
さ、いこっか。
彼女が言った時から、雲水は妙に張りつめた雰囲気を感じ取っていた。
それから彼女は何か言ってもうわの空で、生返事ばかりを返してくる。
「どうした。なんか暗いな」
雲水がちらりと千秋の顔をみやると、
彼女はあきらかに動揺した。
さっきまでオレンジに染まっていた彼女の頬は、
いつの間にか陰を落としていた。陽が、沈んだのだ。
「暗い、とかじゃないけど」
千秋はそう言ったきり、立ち止まってしまった。
まっくろい髪が、残り香のような橙の空に映える。
「けど、何?」
仕方なく雲水も歩みを止め、千秋を待った。
千秋の自転車のハンドルを握る指先にぎっ、と力がこもる。
「何だろ、とりあえず・・・」
千秋が、顔を上げる。
「雲水君、好きな人いる?」
何だ。
何だ、千秋。
その、切羽詰まった表情は。
「・・・なに、言ってるか・・」
雲水は無意識にくちびるに触れた。
こんないとこの顔を見たことがなかった。
強烈な不安が雲水を襲う。
秋の陽が急速に沈むように、雲水の胸もまた高速で沈み出した。
「いとこ同志はね、結婚、できるんだよ」
まるで自分に言い聞かすように千秋が言った。
陽が完全に没したせいか、興奮のせいか、彼女に雲水の表情は確認できなかった。
間を恐れるように千秋は喋る。
「わたし、そんな風に、雲水君をみてる」
自転車を両手で支えたまま、足もとに目線を落とす。
黒いスニーカーをはいた自分の足が、酷く遠く見える。
まるで魚眼レンズを通したみたいにちいさい。
もうアスファルトに影はいなかった。
彼は、自分の事が嫌いだろうか?
いや、それはないだろう。それだけは、多分。
けれど異性として自分を見ていてくれるとは思えない。
これはきっかけになればいいのだ。
そう思っても、千秋の心臓は、ぐっと重さを増した。
言わなければ、良かったかな。
「千秋」
雲水の声は、千秋が立ち止まる前とすこしも変らなかった。
あまりに日常的で、自分の告白が夢だったのではないかと、
いやそうであるがずがない、と千秋は雲水の顔を凝視した。
声とは裏腹に、雲水のくちびるは夕闇の中それとわかるほどに、
震えていた。
「嘘をつくな」
震える唇から出た言葉は千秋にとって意外なものだった。
「うそじゃないよ、なんで」
泣き笑いの千秋の声に、顔色に、
雲水は容赦なく背を向けた。
「まってよ、なんで。うそじゃない」
街灯が瞬き、点灯した。
それに弾かれたように千秋は自転車を引いたまま、
2歩、3歩、雲水を追った。
「じゃあ勘違いだ」
雲水は振り向かなかった。
街灯によって再び映し出された雲水の影は、千秋とは別の方向へ伸びている。
千秋には、いつの間にか自分を追い越した雲水の背が、
とてつもなく巨大にそびえて見えた。
「お前が好きなのは阿含のはずだ」
千秋の歩みが止る。
「ちがうよ、なんで?ちがうよ」
もう泣いていた。
千秋の目から爆発的に涙がいくすじもこぼれた。
「ちがわない」
雲水は振り返った。
涙声の千秋に気付いたからではない。
黄色がかった蛍光灯によって鮮明になった雲水の眼差しには、
千秋は異性としては映っていなかった。
そのかわりに、雲水の両目には怒りが燃え盛っていた。
まるで裏切られた、とでも言いたいような。
自分の身を守らんとする、獣の目。
脅えて、強い。
「俺にする、理由がない」
何の疑いの余地もない。
雲水の口調と表情は盲信しているかのようだった。
成績が、スポーツが、阿含が常に雲水の上を行っている事を言っているのだろうか。
同じ顔で、同じ声なら、自分を選ぶ必要がないと。
ちがう。阿含じゃない、雲水が。
千秋は、このことを強く強く想ったが、
言葉は遂に闇に埋もれた。
このいとこの目に、たちうちできる言葉など、彼女には無かった。
ただ立ち尽くし、涙をながした。
今夜は、星は出ないようだ。
|