「坊主、やめたんだな」
待ち合わせをしたのだから、
いま目の前に現れた少年は佐藤祐太に違いない。
彼を最後に見たのはいつだっただろうか。
たしか、春の入学式にはいたはずだ。
「それ、染めたの」
阿含の目線は、自分より頭ひとつぶん上の佐藤祐太の髪にあった。
「染めたっつーか、抜いた?」
ユータは白にかぎりなく近い、金の前髪をひとつまみ指でねじった。
黒い眉にかかった白い前髪があまりに不自然で、そこばかりが目につくが、
2年前との違いは髪だけではなかった。
泥だらけだった手足は、ひょろりと縦ばかりに伸びた。
一年中夏みたいにまっくろだった頬が、白く痩せた。
黒目がちな丸い瞳が、今は切れるようだ。
"ユータ"こと佐藤祐太は、ほとんど別人になっていた。
「マックいこうぜ、俺今日食ってないんだよね」
ユータの声は2年前よりも低く大人になってはいたが、
対してその口調は妙に子供っぽく、サッカーチームにいた時よりも慣れ慣れしく感じた。
阿含は駅前広場の時計に目をやった。
5時10分。
自分はなぜこんな微妙な時間帯にわざわざ駅前まで出てきたのだろうか。
6時半の夕飯に間に合う為には、あと一時間くらいでここを離れなくてはならない。
正味一時間。"遊ぶ"には短かすぎる時間だ。
それでも二人は駅前広場を渡ってすぐの、マクドナルドの二階席に座っていた。
広場がよく見える窓際の席。
家に帰るのだろうか、会社に戻るのだろうか、
苛立つような足取りのサラリーマンが、日没を背景に広場をつっきると、
群がった鳩たちは申し訳程度にいちど羽ばたき、
すぐにまた白い染みだらけのコンクリートにまい戻った。
「マジ食わなくていいの」
プラスチックのトレーを持って、ユータが席まで帰って来た。
ストローのささっていない紙コップをひとつ、阿含の前に置く。
「サンキュ。まだ早いし」
阿含はジュースを受け取るとストローのパッケージを破り、
ユータはハンバーガーの包みを開けた。
肉と油とあたたかいパンのにおいが広がる。
寺でかぐ、夕飯のにおいとは違う。
過剰なほどのカロリーの、手軽で、強烈で、魅力的なジャンクフードのにおい。
阿含はこの歳になって、そういうものを食べた事がなかった。
「あ、マオエんチって厳しいんだっけ」
ハンバーガーにかぶりつこうとする寸前で、
ユータは思い出したように言った。
「厳しいっていうか・・・」
阿含はプラスチックのふたにストローを突き刺す手を止め、
口ごもった。
「ていうか、うるせえ?」
赤と黄のラインの入ったストローから、阿含の目線は瞬間移動した。
ガチリ。
動揺の色のうかぶ阿含の目と、
無表情なユータの目が、ぶつかった。
頬を限界まで膨らませたユータの、マヨネーズのついた唇がふいに上がる。
金の前髪の向こうの目が、楽しそうに笑っている。
「しょーがねえーなあ、オマエは」
実際にはユータの口は満杯で、ここまで明瞭な発音ではなかったが、
ユータは親しみのこもった口調でそう言った。
面倒見のいい、兄貴分のユータ。
阿含はふと、彼の立ち位置がそういうものだった事を思い出した。
「な、なにがだよ」
目の前の初対面の人間が、実は知り合いだった事に気付いたような気恥ずかしさで、
阿含の言葉はつまった。
「アニキの気分がよくわかる」
ハンバーガーを流し込むように、ユータはLサイズのコーラを吸い上げた。
双子ゆえ、兄の雲水を引きあいに出される事はよくある。
似てるとか似てないとか、兄貴がこう言ってたとか。お前らはこう違うとか。
ただ、自分を兄、雲水の立場に置き換えるような発言を阿含は初めて聞いた。
それがどんな気分なのか、阿含が想像してみる事さえなかった。
阿含が問うまでもなく、ユータは話し出した。
2年前、ある日の事。
雲水はどこか使いにでも出た帰りだったのだろう。
市営グラウンドの片隅に立ち尽くしていた。
「雲水じゃんか!」
サッカーチームの練習中だったユータは、パスを出すと雲水の側まで走ってきた。
雲水はうれしそうな顔で、見ていていいか、と言った。
俺らが日本代表だったらダメだけど、まだ代表じゃねえからいいよ。
ユータはそう答えた。
自分の打ち込んでいるものに、他人が関心を示すのは悪くない。
日本の少年なら興味があって当然のサッカーも、彼が興味を示すのは珍しい。
ユータは得意になって言った。
やってけば、雲水。
それを聞いた雲水の表情は、
まだ11のユータには推し量ることのできない複雑な表情だった。
興奮した目に、ぼう然としたように少し開いた口。固い頬の肉。
雲水は何か言いたげで、それでいて何も言わなかった。
「ユータ!」
チームメイトに呼ばれたユータは、雲水の腕を強引に掴んだ。
雲水の表情を"悪くない"そう受け取ることにしたのだ。
手をひかれると、雲水は自分から走りだした。
それから雲水は慣れないボールを普通の靴で蹴っていたが、
6時15分になると猛ダッシュで帰っていったという。
その日から週に3度ある練習日の、1度か2度は雲水が姿を見せた。
スパイクもサッカーソックスも無い、彼の足もとはいつだって泥だらけだった。
そして6時15分になると急いで帰る。
そんな事がふた月ばかり続いていた。
ある日、雲水は阿含を連れて正式にチームに入った。
「ああ、その前にお前もいっかい一人で来たっけな」
ユータは話しながらも口に放りこみ続けていたポテトの、
最後の1本を口に押し込んだ。
「そのあとおまえら速攻やめたけどな」
阿含は、困惑していた。
阿含が、はじめてサッカーの練習に行く前の日に、
雲水の口から聞いていたからだ。
"俺はじめてやったんだ。サッカー"
ところがユータはこう言う。
"雲水が練習に参加し始めて、ふた月後に正式にチームに入った"
なにか、食い違っている。
ユータは、勘違いをしている。
雲水がチームに入る前に行った練習は、あの日だけだ。
写経をやらされたのも、靴下が泥だらけだったのも、
自分を置いて先に帰ったのも、あの日だけだ。
ユータは勘違いをしている。 それは勘違いだと、ユータに言うべきだろうか。
もう昔の事だと、流すべきだろうか。
ユータが、こっちを見てる。
「知らなかったんだろ」
紙ナプキンでくちもとを拭いながら、ユータは言った。
「雲水が練習に来てたこと」
知らなかった。
阿含の顔にはそう書いてあった。
「結局オマエ、いきなりレギュラーだったじゃん」
紙ナプキンをトレーに放ると、ユータは腰を上げて腕を伸ばした。
カン
彼が紙くずだらけのトレーをよけて、
テーブルに丸いステンレスの灰皿を置いた。
「俺、言ったぜ?阿含さそわなくていいのかって」
シュボ
ユータはマルボロを唇にはさむと、
その先端に100円ライターで火をともした。
フー
つぼめた唇から、勢いよく細い煙を吐いた。
「でも、雲水がいいっつーからさ」
トントン
火をつけたばかりの煙草は、
ユータの灰を落とす動作を無意味にしている。
「オイ、ショック受けんなよ」
ユータは指に煙草を挟んだまま、
テーブルの上に身を乗りだした。
「あン時俺が雲水誘わなきゃ、お前も来なかったし、
お前が来なきゃ俺もサッカーやってたかもな」
自嘲するように、意地悪くユータは笑った。
その目の光から、阿含は思わず目を逸らす。
徐々に心臓が高鳴り、阿含は無意識に唇を噛んだ。
「でも、雲水はさいごにお前を呼んじまった」
ユータは乗りだした身を引き、銀色の灰皿のくぼみに煙草を置くと、
そのまま阿含に向かって手を伸ばした。
危険を察知したのか、阿含の肩が波打った。
白い節が目立ち始めたユータの手が、阿含の伸び放題の頭を天上から掴んだ。
「バッカ。怒ってねーよ」
ユータは笑うと上の歯茎が出る。
その笑みは懐かしく、まぎれもなく"兄貴分のユータ"だった。
犬にでもそうするように、ユータは阿含の髪をぐしゃぐしゃと乱暴にかき回し、
さいごに拳をつくって、かるく阿含の額をこづいた。
「お前が来たら、全部もってかれちまうって」
阿含をこづいた手を再びマルボロに戻し、ユータは短くなったマルボロに吸い付いた。
その同級生のしぐさを、阿含はじっと見つめた。
「わかってたのに、お前を呼んだ雲水のキモチ、よっくわかる」
ニッと剥き出した歯のすきまから、ドライアイスのように白い煙がゆるやかに逃げた。
お前はなんかほっとけねーんだな、と独り言のようにユータは言った。
やっぱ、そっか。
たとえば漢字テスト。
前日に雲水といっしょに勉強してからやったテストの点数。
うっかり忘れていてぶっつけ本番でやったテストの点数。
阿含はいつだって同じ点数を取った。
雲水はそうではなかった。
隣の席の横井という女子もそうではなかった。
クラス委員長のテツヤはいつも勉強しているからわからない。
でも大半がそうではないらしい。
100メートル走も、バスケも、中間テストも。
阿含だけが"そう"だった。
"そう"であることと"そう"ではない事が、
2年前のサッカーに、ユータの金の髪に、こっそり練習に出ていた雲水に、
まさか関係しているとは、阿含は今の今まで考えた事がなかった。
それなのに、阿含の胸のうちで繰り返すのは、
やっぱ、そっか。
考えた事がない、というのは嘘なのかもしれない。
「お前、時間いいの。"15分"だぜ」
ユータが公園広場の大時計を親指で指した。
6時15分
いまから急いで帰っても、夕飯に間に合うか間に合わないかという時間だ。
6時にはここを出るつもりだったのに、いつの間にか陽も暮れている。
「ユータ」
阿含はガラス越しの広場の時計を見下ろしたまま、
ぽつりと言った。
「ん?」
ユータは口にくわえた2本目のマルボロに、
火をつけている。
「それ、吸ってみたい」
阿含のまだ細い顎が、
ユータの唇に挟まったマルボロを指すように、くい、と動いた。
「・・・・・」
火のついた煙草をくわえたまま、ユータは目を見開いて阿含を見た。
「それと」
ががが、という音を立てて椅子を引きながら、阿含は立ち上がった。
「やっぱ俺も食う」
阿含はそう言うと、1階へ降りていった。
この日、阿含が1階のカウンターで注文したのは、チーズバーガーセットのMサイズ。
この日、阿含が吸ったマルボロは全部で7本。
この日、阿含が失ったものは、伸び放題の黒い髪。
かわりに、光に透けると白いほどの金髪を手に入れた。
この日、阿含は帰らなかった。
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