屈辱

落胆

憤怒

このまま言葉で殺せたら




悪夢




泣きながらに立ち止まった千秋に構うことなく、
フワフワと現実味のないアスファルトの上を、雲水の足が歩んでゆく。
右の膝を出し、右の肘を引く。
その次に左足を出し、左肘を引きながら、体重を移動する。

右、左、右、左

歩行して前進する為には、この動作を必ず交互に連続しなければならない。
ていねいに、確実に。決して右が二回重なるような事が無いように。
いちどでもこのリズムが崩れると、たぶん俺は帰れない。

右、左、右、左

長い正座の後のように足首は痺れ、道路の固さをまったく感じない。
膝は麻痺し、こうして歩行していても自分の体重の負荷がいっさいない。
まるで空気よりかるいヘリウムガスが体一杯につまっているようで、
自分の肉体がうつろになってしまったようで、
平常時、無意識にこなしているこの歩行というあたりまえの動作が、
いま雲水にとってはこの上なく困難だった。
13年間の雲水の人生で、自分の体がこんな感覚になったのは初めてだった。
よく通るこの道を、歩くいつもの感覚を、ありったけの集中力でイメージし、
雲水はいま必死に歩んでいる。

右、左、右、左

このたばこの自販機をすぎれば、もうすぐに門が見える。
さいごの一歩まで気を抜かないで、慎重に。
右、左、右

「おお、雲水」

暗くて姿はよく見えないが、聞きなれた声が聞こえた。
寺の門の奥からのようだ。

「・・・あ」

雲水は、まるで何日も遭難してやっと人間に出会ったような気分になった。
手のひらにどっと汗が噴き出し、鳥肌が立った。
思わず、とっさの声が詰まる。

「歩きだと、案外遠いものでしょう」

やわらかな声が、まだ10メートルは離れている雲水に聞こえるようにと、
ゆったりと放射状をえがいて降ってくる。
うす暗い門の奥から投げられたその声に、雲水の右、左が、突如スピードを増した。
地についていない足裏を、叩きつけるように踏みだし、ゴールテープのように雲水は門をくぐった。

「そんなに急がなくても」

ほんの数メートルを全力で走って帰ってきた雲水を見て、
栄達は眼鏡のレンズに月の光を反射させながら、はっは、と気持ち良さそうに笑った。

「まだ、夕飯は出来てませんよ」

そういって彼はぬか床から出したばかりのたくわんを雲水に振ってみせた。

「はあ、そうですよね」

もちろん雲水は夕飯の時刻に間に合わないと思って、
たった数メートルを走ったわけではない。
あの恐ろしい山から一秒でも早く、一歩でも遠ざかりたい。
そんな気持ちに似ていた。走らずにはいられなかったのだ。
雲水は、自分の足裏にわずかに庭の砂利のかたちを感じ、
体の麻痺がうすれつつある事を知った。

息をゆっくりと吸う。
夕げの、湿ったあたたかい香り。

つい数分前の、つい何百メートルかうしろの出来事が、最早ゆめのごとく霞んでいる。
おぞましい、体験だったように思う。
強烈な悪夢も目が覚めると急激に薄まるように、先ほどの事が霧散しかけていた。
雲水は、留守番電話に入った自分の声を聞いたことがある。
それはまったく自分の声とは違っていて、
確かに自分が喋った内容である事は間違いないのに、
とても自分自身の声だとは信じられなかった。
もしもし、雲水です
同じ言葉を言ってみても、やはり違う。
この留守電は自分をからかう為に阿含が吹き込んだに違いない。そうとさえ思った。
目が覚めて、みるみる薄れていく悪夢を、記憶に留めておこうと思い出すのは何故だろう。
あんなに恐ろしかったのに、あんなに逃げ出したかったのに。
つい数分前、自分の乾いた舌がのそりと動き、自分のくちびるが震えたと思った瞬間。
きこえてきた声は、何だったんだろうか。
俺が言ったんだろうか。だとしたら何かが俺に乗り移っていたのではなかったか?
千秋は、震えていた。
俺の口から出た何者かの言葉で、彼女がざっくりと傷ついた感触だけは生々しくある。
恐ろしくて。
たまらず背を向けた。右左が交互になる事にだけ集中して帰って来た。
千秋は今頃あの場所で、ずたずたになってるかもしれないのに。俺は置き去りにして来た。

そして、雲水は静かに息を吐いた。
「今日は、椎茸ですね」

雲水は、そう言った自分の声が、聞きなれた13歳の少年の声である事に安心をし、
また心のどこか違う場所ではひどく落胆していた。
悪夢を、いとおしむように人に話して聞かせるのはなぜだろうか。
雲水は、千秋に牙を立てたあの狂暴な声が、どこかなつかしくなった。






阿含は、夕食には戻らなかった。
彼が夕飯を食いっぱぐれる事は時々あり、
雲水も得に気にせず夕飯を食い風呂を使った。

「あ、そうだった」

明日の準備をする為に、中学指定のスポーツバッグ風の鞄を開けたとき、
雲水はひとりつぶやいた。
鞄の中には教科書や筆箱などと一緒に、茶色い紙袋が入っていた。
紙袋は書店の名前が印刷されており、雑誌などを買った時に入れられる取っ手のない薄いものだ。
雲水は紙袋を取りださずに、一度部屋のふすまを開け、廊下をうかがった。
人の来る気配のない事を確認すると、もう一度鞄を開け紙袋を取りだした。
漫画、テレビ、ラジオ。
そのどれとも遠い生活を雲水は強いられている。パソコンなど夢の世界の話だ。
教育に悪いというのではない、携帯電話然り、テレビも然り、必要ない。それだけの理由だ。
ニュースを得る為には新聞がある。それで充分だと。
しかしそれは雲水のまわりの、それも坊主という特殊な大人たちの極めてローカルな見解で、
一般の中学に通う雲水にとって、理解はできても納得のゆくものではない。
多少物分かりがいいとはいえ、かれとて中学一年生の少年なのだから。
そんな雲水を哀れんだクラスメイトが、
発売日を3日ばかりすぎた漫画雑誌を貸してやろうという申し出を、
断れなくとも誰も彼を責められはしないだろう。
雲水は今初めて、たったひとりの時間に漫画雑誌というものを手にするのだ。
学校ですこし見た事はあっても、教師に見つかれば没収されてしまう。
そうおおっぴらに読むことはできない。

雑誌はそう厚いものではなく、A4サイズの封筒のような紙袋にすっぽり収まっている。
静かに、音を立てないよう雲水は雑誌を抜き出した。
坊主たちに見つかったら例えそれが借り物であろうとも取り上げられるに違いない。
雑誌はつるつるとした表紙をしており、英語のタイトルがついていた。
表紙には雲水より2つか3つ年上くらいの少女が微笑んでいる。
あわいピンクの口紅をしたくちびるからのぞく八重歯が幼い。
雲水は漫画雑誌という物は、表紙にも漫画のような絵が描いてあるものだと思っていた。
これは漫画ではなく、クラスの女子が集まってこそこそ見ている、
女子の読むものではないのだろうか。
雑誌を貸してくれたクラスメイトは男であるし、
女子の雑誌など持っているはずもないので、雲水はいぶかりながらも表紙をめくった。

「!」

今の彼を表現する的確な表現は、雲水本人は知る由もない言葉だろう

彼はフリーズした。
表紙を開いた瞬間、雲水は思わずページから手を離していた。
指から離れたページは、はらりと落ち、雑誌は畳に開かれた状態で今、雲水は静止している。
その雑誌は成年指定でもなく、グロテスクな写真を載せるものでもなかった。
ごくふつうの週刊の少年誌だった。
そこには表紙の少女が見開きで、白い八重歯を見せてニコリと笑っていた。
ウエスタンブーツを履き、赤い星柄の白いビキニを身に付けて。いわゆるグラビアだ。
雲水の頭の中はおもにこんな事で占められていた。

なんだって、こんな事が。

なぜ漫画ではなくこんなものが。
漫画と何の関係があるのか。
なぜこんなものを平気で持っているのか。
なぜこれを平然と貸してきたのか。
こんな事があっていいのか。
なんだって、こんな事が。

雲水にとってそれはショッキングなものだった。
少年雲水は、得に深く考えた事はなかったが、
人間の体というのはみんな同じような物だと思っていた。
太っていたらそれは同じではないだろうし、年をとっていても同じではない。
もちろん女の人も同じではない。
でも、自分とたいして年の変らないような女子の体がこんな事になっているとは、
夢にも思わなかった。
幼い八重歯の彼女の肉体は全てが曲線だった。腰にはまんべんなく肉がつき、
ふとももは自分と同じ人間とは思われないほどしなやかで、
とくにその胸はたっぷりとしたアールを描き、水を入れすぎた水風船のようにはちきれそうだった。
その彼女のページを一枚、めくりさえすれば漫画のページが始まるのだが、
雲水はページを繰るどころか触ることすらできずにただ、固まっていた。
見てはいけないものだ。
雲水はとっさに察知していたが、目は吸い付けられるように見開きを這った。
普段、服を着ているその下に、こんな物が隠されていたとは。

「雲水」

その声は雲水の背後の襖のむこうから聞こえたものであったが、
雲水にとっては天から降り注いだかのようだった。
雷に撃たれたように体が弾かれ、雲水は言葉がでず、ただ汗ばかりが吹きだした。

「雲水?起きていますか?」

この時になって声の主が天の声ではなく、栄達の声だと雲水は気付いた。
雲水は鞄をつかむと、開いたままの雑誌の上にドスンと置いた。

「は、ハいっ」

声がうわずってしまったが、雲水はそれどころではなかった。心臓が早鐘を打っている。
栄達はふすまを開けることなく、廊下から言った。

「阿含はまだ戻っていませんか」

雲水は体全体が心臓になってしまったようで、
早鐘が体中に鳴り響き、栄達の声がどこか遠くで聞こえるような気さえした。

「もどってません」

口はそう勝手に答えていたが、現実味がなかった。
動揺と緊張でうまく飲み込めなかった。

「・・・・そうですか」

栄達の口調が意外なほど深刻じみていて、
雲水はやっと現実らしく時計を振り返った。

9時20分

あと3、40分もすればふたりで布団をならべて寝ている時間だ。
いつの間にそんな時間がたっていたのかと、雲水は驚いた。

「れ、連絡ありませんか」

時を忘れてグラビアに見入っていた事実は伏せて、阿含の話をしなければならない。
雲水はなんとか阿含へ頭をきりかえようとして言った。

「ええ」

栄達は、ふすまの向こうで何か考え事をしているようだった。
そもそも連絡があったのなら雲水に「阿含は戻っていないか」と聞くはずはないのだ。
雲水は自分の失言に気付き、口をつぐんだ。

「しらせがないのが、無事なしらせでしょう」

無口になった雲水を励まそうとしてか、栄達はあかるい声をつくって言った。
お前は明日も学校なのだから、安心して眠りなさい。
栄達はやさしくそう言うと床板をきしませ廊下の奥へ消えた。

雲水はもういちど時計を確認すると、鞄の下に隠した雑誌を抜き取りほとんど見ずに閉じた。
そのまま紙袋にしまい、紙袋を鞄にしまった。
壁に貼った日課表に目をやると、
立ち上がり自分の本棚から音楽と地理の教科書とノート、地図帳を取りだし、鞄に入れ、
鞄から現代国語の教科書とノートを取りだし、本棚に差し込んだ。
布団をふたり分敷き、電気を消すと布団に潜り込む。
この一連の動作は滞ることなく、流れるような澱みない動きだった。
雲水は布団のなかで暗闇を見つめながら、阿含の事を考えた。

どこへ行ったのか、なぜ帰ってこないのか。

けれどもわずか数十秒で思考は移り、脳裏に千秋の半泣きの表情が映る。
自然、彼女が言った言葉が嫌でも思い出される。
雲水は唇を噛みしめ、痛みに耐えるように瞼を固くつぶった。
瞼の裏には、さきほどの弾けてしまいそうな少女の身体が待ち受けていた。

「わたし、そんな風に、雲水君をみてる」

千秋の声が追いかける。
まさか、千秋の服の下もあんな物が詰まっているというのか?
雲水は動揺した。
目を見開いた。
暗闇だった。
暗闇を雲水の目がせわしなく彷徨う。
畜光の針だけ
がくらやみに浮かんでいる。
9時50分。
阿含は、まだ帰らないのだろうか。

どこへ行ったのだろうか。なぜ帰らないのだろうか。

思考は元の場所へ戻った。
雲水はそっと目を閉じる。
阿含は今、どこにいるんだろう。

想像がつかないな。

阿含はなぜ帰ってこないのだろう。

わからないな、俺には。

あいつの事は全然わからないからな。




この日の雲水の思考は、ここで途切れた。
眠りのなかには、悪夢は存在しなかった。


アルバート第6話「王様」へつづく