弟が消えても、俺は学校へ行った
弟が消えても、俺は2年になった
弟が消えても、俺はよく眠れた
弟が消えると、世界が態度を変えてきた
ALBERT_7
泥棒
「金剛、呼んでるぞ」
入学当初ブカブカだった学生服は、季節が一巡すると肩幅がぴったりになった。
声はまだ変ってはいないものの、その顔立ちは少年らしいほんの一瞬の男らしさがある。
「何?」
廊下へ出ると、どんよりとした雲をはめ込んだ窓がまず目に入った。
そろそろ梅雨入りするらしい。まだ気持ちの良い5月の半ばだというのに、だ。
「あの、こ、金剛先輩、これ」
自分を「先輩」と呼ぶからには多分、一年生なのだろう。
紙切れ一枚渡すのに、何をそんなに震える必要があるのか。
顔も知らない少女の差し出す薄水色の封筒を、ゆっくりと受け取る。
「ありがとうございますっ、し、失礼します!」
少女は制服のプリーツスカートをひるがえして、
離れた所で見守っていた友人の所へ駆け戻った。
「ハイ4人目〜!!金剛、今年に入って4人目ですよ〜!!」
取り次ぎをしたクラスメイトが口に手をあてて、
教室中に叫んだ。
「マジでー!」
昼食が終わって、だらだらと教室で暇を潰していた生徒達がいっせいにどよめく。
「イヨォ!金剛、モッテモテ〜!」
「お前ばっかずりーぞー!」
「金剛センパイ!これ読んでくだサイッ!だって」
鳴り響くチャイムもおかまいなしに、興奮した生徒達は"金剛コール"を始めた。
「チャイム鳴ってるぞー」
教室の入り口に立った白衣を着た教師の声で、
生徒達は昼休みが終わった事に気付いた。
「せんせー!金剛君がラブレターもらってます!」
一人の生徒がわざとらしく挙手して言った。
生徒たちがぷっと吹きだす。
「しかも今年に入ってもう、4人目です!!」
別の生徒が、中指でメガネを上げるようなしぐさをしながら言った。
クラスメイト達はこらえきれず、どっと笑った。
「へえ」
まだ歳若い白衣の教師は、興味深かそうに目を輝かせると、
迷惑そうな顔をして、机から教科書を取りだしている坊主頭の生徒を見た。
「俺も金剛を見習って、同じ頭にしようかな」
教師はそう言って、長めの自分の髪を指で梳いてみせた。
本気なのではと思うような、真面目な顔の教師の冗談に生徒達が笑い転げている中、
ひとりの少女が後の席の少女にそっと耳打ちをしている。
「ねえ、いいの?金剛、彼氏なんでしょ」
耳を傾けていた少女は、前の席の少女にそう言われると、
うんざりとした顔をつくって言った。
「彼氏じゃないよ」
それを聞いた前の席の少女は声を抑えながらも、
まけじと強い口調で反論した。
「うっそ。一年の時から噂だったもん。
千秋と金剛君つきあってるって」
ノートにいたずら書きをしながら話を聞いていた千秋は、
目を上げて少女をするどく睨みつけた。
「嘘じゃないよ。雲水と私はイトコなの。兄弟みたいなモン」
それを聞いた前の少女は、
ふと目線を泳がせ何かを考えている様な表情になった。
「兄弟、って言えば居たよねえ・・」
少女はそう呟いたが、頭では別の事を考えているのだろう。視線は遠い。
彼女の顔を見て、千秋は再び意味もなくノートにシャーペンを走らせた。
「彼女いないわよ」
千秋がそう言うと、少女はポカンとした顔で千秋を見た。
「告白、してみれば?」
ノートの隅に黒いケムリのようなものを拡張させながら、千秋は言った。
少女は千秋のぐるぐると動き続けるシャーペンの先を見つめながら、か弱くうなずいた。
「・・・して、みよっかな」
千秋は少女の顔をちらりと盗み見た。
さっきまでの勝ち気ぶりは何処へやら、真っ赤な顔をして、しおらしくうつむいている。
明日だろうか、あさってだろうか。
彼女が泣きながら帰ってきたら、私は震える彼女の肩にそっと手をおいて、
やさしい声でこう言ってあげよう。
仕方ないよ、雲水の成績は学年トップで、運動神経も良いし、
やさしくて格好いい。凄くもてるんだもの。
アンタなんか相手にされなくて当然だよ。落ち込まないで。
シャーペンの先で黒いもやを増やしながら、千秋はそっと微笑んだ。
「先生、このプリントだけ余ってるんですが」
雲水の通う県立中学では、生徒全員が何かしらの委員会に属している。
次の予算会議のための資料をもう少しでまとめ終わる、という所で、
雲水は手の付けられていないプリントの束を見つけてしまった。
「あー、嫌な予感がするなあ」
雲水の所属する園芸委員会をまとめる教師は、
雲水の担任である例の白衣の理科教師だ。
彼は歳こそ27、8だが、妙な落ち着きがあり、教養もある。
噂によれば大学教授も夢ではない頭脳を持っているとかいないとか。
だからと言って堅いわけではなく、むしろユーモアがある。
今年赴任してきたばかりだが、すでに生徒達には人気の教師だ。
「イヤーッ先生!これ全部いちまい足りない!」
雲水と同じクラスの女子生徒が、
7枚一組でホチキス留めされた資料のひとやまを探りながら言った。
その大量のホチキス留めは、この場にいる園芸委員2人と教師で先程終わらせたばかり。
「やり直しだな」
教師はかったるそうな顔ひとつせず、
銀縁の眼鏡を人さし指の第二関節で押し上げてさらりと言うと、
留めたばかりのホチキスを外し始めた。
「はァ、もー間に合わないよ〜」
女子生徒がため息まじりにホチキス外しにとりかかる。
現在まとめようとしている資料は明日の放課後使うもので、
今からやり直せば多少帰宅時間が伸びるにせよ、会議には充分に間に合う。
彼女の言う"間に合わない"とは別の事なのだろう。
「いいよ、佐々木、近いんだろ県大。俺やっとくし」
雲水は黙々とホチキスを外しながら淡々と言った。
「そうか、テニス部か。行きなさい、金剛もこう言ってるし」
教師は顔を上げると、そう言った。
県大会目前で練習に遅れるわけにはいかない女生徒は、
雲水に何度も礼を言い、教師に何度も頭を下げて理科室を出ていった。
「金剛は時間、大丈夫か?」
教師はやりなおさなければならないプリントの山を見てそう言った。
ホチキスで留めるだけなら早いものだが、一度つけたホチキスを外す、
となると一気に手間と時間がかかる。この分では日が暮れてしまうだろう。
「はい。帰宅部ですから」
雲水はひたすらホチキスの針を外す作業に専念している。
針の外れたプリントの束を、縦、横、縦、と交互に積み重ねていく。
「用事とか、手紙の女の子とか」
教師は手を淀みなく動かしながら、
ひやかすように眉を片方だけ上げて眼鏡のレンズ越しに雲水を見た。
「関係、ないでしょう」
雲水は顔色ひとつ変えず、
プリントから針を外す作業のついでといった風で答えた。
怒ったか?
教師は目の前でホチキスの針を引っこ抜いている生徒を、ちらりと伺った。
この金剛雲水という生徒は、成績優秀、スポーツ万能、
教師達からのウケも満点、性格は温厚で親切。男女ともに人気がある。
そう、すこし出来すぎていると言っていい。
動揺も、子供っぽさも、怒りもまるで欠落しているかのように見当たらない。
雲水の拒絶ともとれる発言を、教師はむしろ楽しんだ。
彼はしばらく雲水の様子を多少の期待をこめて観察してたが、
雲水はそんな視線も意に介さず、きっぱりとこう言い放った。
「俺にも、関係のない事です」
怒りでもないし、ましてや照れ隠しでもない。教師は直感した。
これは本当に心の底からの言葉だ。
女の子からもらった手紙や、その手紙の内容、
それがたとえ自分宛に書かれた物だとしても、自分には何の関係もない事だと。
この少年は本当にそう考えている。
女の子からのラブレターくらいでは、少しも心が揺らいだり、
舞い上がったりはしないのだろう。
とても中学生とは思えない、冷静すぎる思考回路だ。
ずいぶん可愛げがないな。
教師はふっと笑って作業を続けた。
その心中はどうあろうと、教師の指先は滑らかに針を抜いていった。
五月の半ばでずいぶん日が延びたというのに、
梅雨が近く雲が多いせいか空は夕焼けを見せもせず、せっかちに闇を降ろしていた。
街灯の少ない田園風景に一台の車のライトだけが、
重苦しい湿度の闇を、細長く切り進んでゆく。
「次の交差点を右です」
雲水は車の助手席に座っていた。
例のプリントをようやくまとめ終わる頃には、予想通り窓の外は真っ暗だった。
「右ね」
教師はそう言ってウィンカーを出した。
遠慮する雲水と、何かがあってからでは俺が困るという教師との押し問答の後、
結局、雲水は教師に車で家まで送ってもらう事にしたのだった。
「金剛」
車どころか、ひと一人歩いていない田舎道で、
左右の確認をしながら教師は言った。
「なんですか」
多分、あのことだろう。雲水は直感していた。
赴任して来たばかりとは言っても、彼は自分の担任なのだから。
「弟さん、連絡ないんだってな」
彼は今年の四月に赴任してきた為、
昨年の秋から音信不通となっている"金剛阿含"の事を知らない。
「はい、そうです」
雲水は、教師の予想通りの質問に安堵していた。
車の助手席に座っていると、隣の運転席の教師の手足は思っていたよりも大きく感じた。
背が高い事はわかっていたが、華奢なイメージだった。
それが車という狭い空間に並んでみると、
ハンドルを握る手も、ブレーキに伸びる足も、何もかもが骨張って大きい。
比べて自分はこんなに小さく細かったのかと、雲水はすこし落胆した。
「心配だな」
細く暗い田んぼ道を、黒いアウディはひたすら真っ直ぐ走り抜けた。
月明かりもなく、民家の光も遠く、風景はひたすら闇だった。
教師の言葉も、窓から投げ出された空きカンのように一瞬で通り越してしまった。
「あの街灯で左です」
雲水は空きカンを追わなかった。
こんな無礼なそぶりも"弟が行方不明の兄"というフィルタさえかけて見れば、
相手は自分に都合いいように解釈して、勝手に納得してくれる。
雲水の本当の気持ちなど、雲水にとっても相手にとっても必要ないのだ。
そしてその勝手な解釈に全てを任せるのが、
一番スムーズに会話を終わらせる方法だという事も雲水は知っている。
教師は何も言わず、街灯の下でハンドルをきった。
「この道の突き当たりです」
金剛寺のシルエットが少しづつ大きくなっていく。
「慣れっこだな」
ぼそりと、教師は呟いた。
この車にまるで自分しか乗っていないかのような、
教師ではなく"素"の男の呟きの声だった。
「え?」
聞こえなかったわけではない。雲水は確認したのだ。
俺に言ったんですか、それともひとりごとですか、と。
金剛寺の門がフロントガラスにゆっくりと迫り、そして止った。
「色んなものに、慣れてるな」
門の前に車を止めて、教師は助手席の雲水を見た。
この先生はこんな顔だっただろうか。
自分を見た眼鏡の奥の目は、全く見覚えがなく、
初めて会う人のような気がした。
その瞬間。
助手席に座っているのは生徒ではなく、14歳の少年だった。
運転席に座っているのは教師ではなく、28歳の青年だった。
青年は、少年から視線をはずし、自分のシートベルトを外した。
少年は、送って貰ったのは俺なのに、
なぜ俺の家の前でこの人がシートベルトを外すのだろうと思った。
しゅるしゅると音をたてて飲み込まれるシートベルトとすれ違うように、
青年が体重を移動させると、少年のもたれている革張りのシートがゆっくりと沈んだ。
声を発する暇はなかった。
シートは水平に近いほど倒れ、
外からはぎりぎり見えない位置で、
少年のくちびるに、
青年のくちびるが重なった。
青年は倒した少年のシートに片肘をつき、
少年側のドアガラスにもう片方の手を突いて、
少年に自分の体重をかけることはなかったし、
また無理な体勢でもなかった。
雲水の身体は倒れるシートに身を任せる他はなく、
青年の行動を読めるはずもなかった。
それでいて目撃者も残さない、
あまりに鮮やかな流れの口付けだった。
雲水の膝にのせたままの、鞄を掴んだ左手が、
雲水の意志とは関係なく、ぴくり、と動くと、
それがスイッチだったかのように、
雲水の唇はたやすく青年にこじあけられた。
唇を濡らし、
舌を絡めとり、弄び。
歯列を器用になぞるそれが、
青年の舌なのだとようやく気付く頃、
雲水の呼吸と思考は乱れきっていた。
舌を自分の口に入れられ、好き放題されていると気付いたとしても、
雲水は何をしたらいいかわからなかったし、
何を思ったらいいのかわからなかった。
ただ、唇から唾液がこぼれるのを止められないことが口惜しかった。
一時間にも感じたし、数秒だったのかもしれない。
青年は口付けの激しさとは裏腹に、
ぴたりと行為を止め、首をもたげた。
彼は落ちそうになる眼鏡を、肘をついたまま指で押さえると、
雲水を見た。
教師の涼しさと、男の熱っぽさが混じるその目に、
雲水はどんな顔をしたら良いかわからず、
また、教師が自分にした行為に対しても、
どんな感情を表せば適当なのかがわからなかった。
ただひたすら、困惑をさまよった。
すると、薄いレンズの向こうの瞳がきらりと輝いて、教師が笑った。
まるで悪戯が成功した子供のように。
その顔が余計に雲水の思考を乱し、頬はますます火照る一方だった。
けれども雲水は思考のかたすみで、認めてもいた。
奪われた時間と、身体と、思考。
この泥棒みたいな教師に、
そのままくれてやってもいい。
本当はそう、思っていた。
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