常識

背徳

罪悪感

どれも、俺を止めなかった





ALBERT_9
変身





「グラウンドにいるのは、3-Eですかね?」

初老の数学教師は、目を細めて職員室から窓の外を眺めた。
外には一月のつよい北風が吹いているのだろう。
葉を落とした木々が、横なぎに震えている。
教師は、まるで見ているだけで寒いとでも言うように、
湯飲みを大事そうに両手で包みなおした。

「あー、そうですねえ。野球ですか」

昨年女子大を出たばかりの若い音楽教師は、
数学教師の目線を追うと、のんびりとした口調で言った。

「大丈夫なんでしょうかね、初めてでしょう。三年生は」

せっかちに、苛立たしげに、職員室の最奥から痩せた教頭が声を張り上げた。
彼の苛立ちは至極まっとうと言える。
今年初めて受験生のクラスを受け持った若い理科教師は、
一月という受験生にとって極めて重要な時期に、
クラスの生徒全員を連れ出して、グラウンドで野球を始めたのだ。
その理科教師は、職業として中学校の教員を選んだのが不思議なくらい優秀な男だし、
年齢に左右されない安定した人格を持ってはいるが、
教師としては半人前、そう思われて当然だろう。

「まあ、たまにはいいじゃないですか。みんな楽しそう」

音楽教師はよく通る、明るく朗らかな声で呼びかけた。
きっと他のクラスの生徒達は、教室で彼らの声を聞いて羨んでいますよと、
初老の教師も笑った。
ところが突然、やわらかに笑っていた初老の教師の目が、見開く。

「お、お」

教師の口からはそんな声が漏れ、
目は窓の外に釘付けになった。腰は椅子から浮いている。
すこし遅れてワァ、と沸きあがった、
受験を目前に控えた生達の、伸びやかな明るい声。

「ハァー、やりますなあ、芹沢先生」

浮いた腰を椅子に戻しながら、数学教師は嬉しそうにため息をついた。
それからお茶をひとくち飲むと、くるりと椅子を回転させて、
デスクの上のプリント用紙を軽く整理しながらつぶやいた。

「いやあ、たいしたもんだ」





5時限目の授業の終わりを告げるチャイムが、
寒々とした校庭に鳴り響く。

「先生!野球やってたんすか!」

これでもかと言うほどに白い息を吐き出しながら、生徒達が駆け寄って来た。
発言した彼は元野球部の部長で、とても芯の強い生徒だが、
ここ最近はどうにも表情が固かった。
彼の狙っている公立は、少々レベルが高いのだ。

「いや、やってないよ」

俺がそう言うと、俺の口からもこれでもかと言うほど白い息が漏れた。
社会人になってから、めっきり運動不足だ。すこし息が上がってる。

「うっそだあ、ピッチャーだったんでしょ?」

言葉遣いのなっていない彼女は、こう見えても成績はなかなか優秀で、
志望校の合格はまず間違いないだろう。本番にも、強そうだしな。

「俺はピッチャーじゃなくて、クォーターバックだったんだ」

冷たい北風のグラウンドを、42人の中学生をぞろぞろと連れて昇降口へ向かう。
受験生の担任か。大学時代の仲間が見たらなんて言うかな。

「え?何バック?なんのスポーツっすか?」

俺の思惑通りのリアクションをしてくれる素直な彼は、
すでにバスケ推薦が決まっている。
背なんか181センチの俺に、今にも追いつきそうだ。

「アメリカンフットボールのポジションだ」

そう答えると、生徒一同はそれぞれのアメフトを思い描き、
ヘェ〜アメフトかあ、と呟いた。
多分、半分以上の"アメフト"はしましまのシャツを着ている事だろう。

「あ、わかった!パス出すとこだ!」

飛び出した声に少々驚いた。
ここ日本でアメフトはまだまだマイナーなスポーツで、
大人ならともかく中学生がポジションまで知っているスポーツではない。
俺だって当時は全く知らなかった。

「へえ、よく知ってるな」

俺が感心すると、クラスのお笑い担当少年は得意げに笑った。
兄が大学でやっているのだと、大げさに胸を張ってみせた

彼の受験は、正直厳しい。
成績は悪くなかったが、志望校のレベルが高すぎる。
彼もその事を知っているから、
いつもうるさいくらいの笑い声は、近頃小さくなるばかりだった。
でも、すこし調子が出て来たじゃないか。

「じゃあ、掃除やって帰るか」

ポンと手を打つと、生徒たちは授業の締めの挨拶を口々に言い、
ワイワイと自分の持ち場へ散っていった。
この一時間弱の野球が少しでも、気分転換になればいい。
彼らは今、リセットされるべきだ。
さて、俺はこれから教頭の小言でも拝聴しに行くか。その前に。

「金剛」

三年間帰宅部を通し、決して目立とうとはしないのに、
どうしても人目を引いてしまう坊主頭の少年。
つい最近の引き継ぎまで、立派に生徒会長を務めた彼は、
すでに仏教系の男子高校へ推薦入学が決まっている。
いや、正しくは"推薦"ではない。
彼の行く高校は、彼の意思ではなく彼の親というか、家というか、血筋が決めたのだ。
つまり生まれる前から、進学先は決まっていた、という事だ。
彼の父親と神龍寺の理事長は懇意なのだとか。

「はい」

少年はいつもの涼しい顔で振り返る。
神龍寺は神奈川県内でいえば難関だが、
全国模試で一桁にランクインする彼の入学する学校としては、役不足だ。
しかも一年の半ばから行方知れずになっている、
どこにいるのか、生きているのかさえ怪しい、
彼の"弟"もすでに神龍寺への"推薦入学"が決まっている。
おかしな世界だ。

「理科室に数珠、忘れて行ったの金剛じゃないか?」

底冷えの廊下の空気をふるわせて、俺の声が伝わって行くのが見える。
彼の前で言葉は溶解し、渦巻き、やがて彼が口を開く。

「すいません。放課後とりに行きます」

ぺこりと頭を下げる動作が慇懃で、しかもあどけない。
ああ、と答えてやるともう一度軽くお辞儀をして、颯爽と廊下を歩いて行く。
全く、とんだ役者だ。





「失礼します」

薬品の匂いは理科室の中だけでなく、この古い木製の引き戸にも染み込んでいる。
カーテンにも、背もたれのない椅子にも。
ただ理科室にあるからわからないだけで、
もし椅子のひとつを別の教室にでも持っていけば、強烈な刺激臭を感じるだろう。

「ああ、どうぞ」

理科室に入って突き当たり、上下可動式の黒板の横、
理科準備室のドアの向こうから、聞きなれた返事が聞こえる。
こんにちは、そう一言挨拶しただけで、
その聡明さを人に悟らせることができるような、静かで、柔らかで、冷静な声。
6人掛けの実験机を横切って、準備室のドアを開けると、
彼はこちらに背を向けてノートパソコンに向かって座っている。そしてこう言う。

「よく来たね」

彼が椅子ごとくるりと振り向くのは、必ずそう言った後だ。

「座って。何か飲むかい」

そう聞きはするけれど、彼は俺の返事を待たずに立ち上がって、
コーヒーポットからコーヒーを注いで、俺に手渡す。
今日みたいに寒い日は、銀縁のメガネが湯気で少し曇る。

「俺、さすがに数珠は持ち歩いていませんけど」

俺がそう言うと、彼は思い出したとばかりにぷっと吹き出した。
誰にも気付かれず、俺を呼びだす方法はいくらだってあるのに、
この教師は時々こんな悪ふざけをする。
わざと人目のある場所で言うのだ。
それはノートの忘れ物だったり、明日の実験の準備だったり。

「いや、どんな顔するかなと思って言ったんだけど」

笑い混じりに彼は続けた。
俺は数珠なんか持ち歩いていません、他の人のじゃないですか。
あの時そう言ってやれば良かった。

「まったく表情変えなかったな」

たいした役者だよ、と教師は続けて笑った。
俺はちいさく溜め息をついた。
次は木魚を忘れてたとでも言い出すのだろうか。

「昼間の君を見てるとね」

教師は笑うのを止め、
そう呟くと俺の手からコーヒーカップを外し、テーブルに置いた。

銀縁の奥の目が、表情を変える。

長い指が、俺の顎にひやりとした感触と共に巻き付く。
人さし指が唇を割り、爪が俺の歯にあたった。
俺の歯が開く気配がないと、レンズ越しの目がすこし、細まる。
歯をうすく開くと、乾いた指がするりと侵入して、俺の舌をからめ捕る。

彼に染み込んだ薬品の匂いが、舌の上でとける。
俺の腰が、重くなるのがわかる。

正直に言えば、理科室の引き戸を開けて、
薬品の匂いを肺に吸い込むだけで、身体がたちまちに火照る。
それはもう、どうしようもなく。

「たまらなく、こっちの君が見たくなるよ」

指一本で俺の口内を弄び、余裕の顔で教師は笑う。
その顔に、切なさがこみ上げて、思わず眉間に力が入る。

「わざとかな、生徒会長」

彼の声と、熱い息のかかった右耳が、どろどろと溶けていく。
見えないけれども、俺の学生服についた鈍い金色のボタンが、
今ひとつ、外された。

金のボタンがすべて外された後は、シャツのボタンが外されるだろうか。
石油ストーブひとつの、肌寒いこの理科準備室で、
シャツのボタンが外される事を考えると、
また腰が疼く。
胸がたまらなく詰まる。

ボタンが、またひとつ外れた。

ボタンがひとつずつ外されていく度に、俺は俺を保てなくなっていく。
俺が何かに変っていく。恐ろしいのに止められない。
止めたくないのが、恐ろしい。

またひとつ、ボタンが。





「千秋ちゃん、これから塾かい?」

柔和で、懐かしい声。
前にこの声を聞いたのはお盆だったかな。

「栄達さん、こんにちは」

栄達さんは金剛寺のお坊さんで、
親戚ではないけれど、ほとんど見たことの無い住職さんより、
この栄達さんの方が"伯父さん"という感じがする。
栄達さんは買いだしの途中だそうだ。
裸足に引っかけた下駄が、見ているだけで寒い。

「毎日、遅いのかい?」

栄達さんの吐いた息で、
一瞬目が見えなくなるくらい、眼鏡が曇る。

「9時くらいです、お母さんに迎えに来てもらって」

お迎えがあるなら安心だね、と笑って、
栄達さんはまた眼鏡を曇らせた。

「うちのも生徒会でずいぶん遅い時もあるけれど、
担任の先生が送ってくださるから」

担任の先生?

私と雲水は同じクラスだから、担任の先生は一緒。
確かに文化祭や体育祭といったイベント前には、生徒会は忙しそうだった。
先生が送る事もあったかもしれない。
でも、普通は生徒会の先生が送るのでは?
園芸委員を受け持つ先生が、どうして雲水を送るんだろう。
たまたま居合わせたんだろうか。家の方向が同じだったとか。
とりあえず、そうなんですかと愛想笑いをすると、
栄達さんは続けた。

「今日も遅いなんて電話があったけど、毎回じゃ申し訳ないよねぇ」

おかしい。
何か、噛みあわなすぎる。

「雲水、今日も生徒会で?」

私は、感じた違和感が顔に出ないように、気を付けながら聞いてみた。
絶対に、ありえない質問。

「そう、うちのは学校、決まってるからいいけどねぇ」

嘘だ。

何が?栄達さんが?
まさか、栄達さんが嘘をつく意味がない。

雲水以外は、意味がない。

雲水はもう、生徒会長じゃないのだから。

「あ、私そろそろ行きますね」

ポケットから携帯電話を出すと、時間を確認するフリをして、
私は走りだした。
気を付けて、という栄達さんの声に答える余裕がなかった。

任期の終わった生徒会に出ている雲水。

その雲水を送る、担任教師。

嘘をつく、雲水。

私の中の何かが、塾とは逆方向に私を走らせた。
なぜそんな事をするのかわからなかったけれど、止めようとは思わなかった。


昇降口で上履きを出す私の手は、震えていた。
心臓があまりに早く波打っているから、
その振動で手が震えているのではないかと思うほど、興奮していた。
その興奮の原動力はわかってる。
従兄弟の、つめたい横顔を思い出す。

嘘を、暴いてやりたい。

暴いた所で真実はつまらない事かもしれない。
それでも、気付くと口の端が笑うように歪んでいた。

興奮とは裏腹に、教室にも、生徒会室にも、雲水は見あたらなかった。
落胆で、かいた汗が冷たくなりかけていた時、理科室に入った。
物音がしたわけではない、声が聞こえたわけでもないけれど、
かすかに人の気配がした。
実験室には見当たらない。

あとは理科準備室。

担任の芹沢先生は、職員室よりも、
この薬品臭い理科準備室でパソコンに向かっている事の方が多い。

準備室のあのドアに耳をつけてみたい。

普段通りキーボードを叩く音が聞こえてきたなら、
そっと来た道を帰ればいいだけなんだから。

校舎が古いため、理科室の床が歩く度に悲鳴を上げる。
授業中はちっともにならなかった音が、今はひどく大きい。
教室ひとつの距離が遠い。私は一体なにをしたいんだろう。

ドアに耳をつけてみたいと思って、ドアの前まで来た時、
ドアが4センチ開いていたらどうする?

ほんの少しだけ開いたドアを目の前にして、耳を付ける馬鹿がいるだろうか。
千秋は息を詰めて、細く長い隙間から理科準備室へ、右目を潜入させた。

石油ストーブの上のやかんから、
真っ白い湯気が吹き出ている。とっくに沸騰しているのだろう。
湯気の向こうには、思った通りに坊主頭の後姿があったので、
千秋は驚くというより、やっと追跡が成功した事を安堵した。
ただ、その安心は一瞬遅れで、衝撃に塗り替えられた。
石油ストーブがついているとはいえ、一月の空気の中で、
雲水は学生服を脱ぎ、眩しいほどの白いシャツ姿でそこに居た。
その白い背中に、雲水の物ではない長く骨張った指が現れ、
雲水の肩のラインにそって動くと、ごく自然に素肌があらわれた


千秋は無意識に息を飲んだ。
シャツを剥いだ長い指は、雲水の背中を這ってうなじを支え、
やがて見覚えのある顔が。

銀縁の眼鏡が光に反射して、眼差しの行方が見えなくなる瞬間を、
彼を担任に持った2年間、千秋は幾度となく目にした。
その光景がそこにあった。

冷たそうな眼鏡が雲水の首筋に触れ、
女子生徒に人気の横顔が雲水の肌に吸い付く。

肩をあらわにした雲水の背中が、痙攣するようにのけ反ると、
彼の薄い唇から、息が漏れた。

千秋は従兄弟であって、従兄弟ではない、雲水の姿に、
ぼう然と見入っていた。

誰?

雲水に似ているけれど、まさか。雲水じゃない。
けれど雲水だと認めないわけにはいかない、そこにいるのは、
間違いなく幼なじみの、従兄弟の、初恋の相手の、雲水。

千秋は急に視線を感じ、戦慄した。
手のひらに、冷たい汗がどっと吹きだす。

重なってはならないはずの冷たいレンズの向こうの目と、
千秋の右目がかちあった。
逃げなくては、千秋はとっさに思ったが、
足どころか右目の瞼でさえ動かせなかった。

逃げられない。

1秒もかからず、千秋は悟った。
教師がこっちへ歩いてきて、ドアを開けたとしても、動けない。
なんて言ったらいい?いいわけは?
千秋は軽いパニックに陥っていた。
ところが教師は、千秋の予想通りには動かなかった。
目だけは隙間から覗く千秋の右目に固定したまま、
舌を出し、雲水の喉元に噛みつくように口づけた。

そして教師は、微笑んだ。

ただし教室で見せる教師のやさしい顔ではなく、
狡猾な、大人の笑みだった。

誰?

顔も髪形も白衣も眼鏡も、何もかもが芹沢先生にそっくり。
でも、先生じゃない。
千秋の喉はからからだった。

教師に似た男は、微笑みながら雲水の背中にまわした片手を、
雲水に気付かれないよう、雲水の肩ごしに自分の唇のそばまでそっと持っていくと、
人さし指以外をかるく握った。

しーっ。

集会の時、おしゃべりを止めない生徒の前で、彼が良くやる仕草だった。
そのしぐさを見た途端、動かなかった千秋の足は、勝手に動き出した。
後ずさり、一歩、二歩。





千秋が我に返った時、彼女は昇降口のスノコの上にべったりと座り込んでいた。
時間の感覚がまったく無かった。
どのくらいこうしているのかわからなかった。
理科準備室で見た事の真実味も、
昇降口の外にちらついている、白い雪の現実味も無かった。

「矢島、だったのか」

突然降り注いだ静かな声に、千秋は撃たれた様に振り返った。
そこに立っていたのは、担任の芹沢先生だった。
背が高くって、格好よくて、面白くって、頭がいい、
いいことづくめの、芹沢先生。

千秋は、自分がまるで異世界を彷徨っていたのではないかと思った。
気が狂ってしまったのかもしれないとさえ思った。
今日着ていた白衣を小脇に抱え、鞄を持ち、
指に車のキーぶら下げて廊下に立つ彼の姿は、
それほどに"いつもの先生"だった。

「まだいるぞ、金剛」

教師のこの台詞は、千秋が夢だったのではないかと思いかけていた、
先程の光景を肯定した。

生徒の首筋に舌を這わせていた男と、
聡明な担任の先生の像が混じり合って、千秋は混乱した。
教師はそんな千秋の顔を困ったな、という顔で、しばらく眺めていたが、
やがて言った。

「気をつけて帰れよ」

そう言い残して、教師は教員玄関へ続く廊下の奥へと消えた。
リノリウムの廊下を踏む教師の足音が消えると、
千秋は操られるようにのろのろと立ち上がった。
もうひとつ、足音が聞こえたからだ。

「千秋」

先程教師が現れたのと同じ階段から、今度は雲水の声が聞こえた。
千秋はうなだれていた頭を振るようにして向き直り、雲水を睨みつけた。

「きったない」

吐き捨てると、余計に怒りが込み上げてきた。
千秋は、憎悪が猛烈な勢いで自分の身体を駆け巡りだした事を自覚した。

「あんたホモだったのね」

この言葉で死んでしまえばいい。
彼女は生まれて初めて、全身全霊で人を呪った。

雲水は眉を寄せた。

目はじっと千秋を見据えていた。

口はかたく引き結び、

黒い学生服のボタンは、詰め襟のホックまで、
きっちりとはめられていた。

ついさっきまで、その学生服を捨ててシャツをはだけ、
男の前で肌をさらけだしていたのに。
教師の舌が這い回っていた肌は、今は奇麗に隠ぺいされている。
千秋は唇をつよく噛んだ。

「別に、そうじゃない」

雲水の堅い唇がひらいた。
昇降口から吹き込む北風が、千秋のスカートを揺らす。

「じゃあ、なによ、あれ」

もっと雲水を傷つけられる言葉があるはずなのに。
うまく舌が回らない事を、千秋は口惜しく思った。
言葉のかわりに目だけは、雲水の縦に並んだ金のボタンを睨みつけた。
乾いた唇を叱咤して、罵倒の言葉を探す。

「なんで、あんなことすんのよ、き、」

きもちわるい。

千秋の言葉は最後まで繋がらなかった。
彼女の途切れた言葉じりは、雲水が強引に奪って繋げてしまったからだ。


「きもちいいからだよ」


言い切った雲水の顔は、もう堅くはなかった。

全校生徒の前で、必要最低限の話をする、
生徒会長の顔だった。

真摯で、爽やかで、

硬派な金剛雲水。



でも、それが一番、遠かった。


アルバート第10話「巨人の庭-前編-」へつづく