金魚

フォワード

キングの駒


どれも、欲しいなんて言ってない





ALBERT_10
巨人の庭 -前編-





「俺こないだスゲーDVD見た」

俺はそう言って、見慣れた光景をなかば飽きれた気分で眺めた。
氷でだいぶ薄まったオレンジジュースをストローで吸い上げながら。
そこらじゅうに散らかったマックの持ち帰り用ビニール袋。
まだ中身のあるチーズバーガーの包みがあと2つ。

「うら?」

お前ならそう言うと思った。
ハンバーガーとポテトで満タンの口から。
オレンジのレンズのサングラス。痛んでボサボサの金髪。

「ちげーよ、映画」

俺がそう言うと、興味を失ったのか最初から興味など無かったのか、
そしらぬ顔でチーズバーガーの新しい包みに片手を伸ばし、片手で掴んだコーラを吸い上げる。
唇がケチャップだらけなんだが、気持ち悪くないんだろうか。俺は見ていて気持ち悪い。

「スーパーサイズミーっつの」

ケチャップが気になりながらも、俺は続けた。
彼は4つ目のチーズバーガーに取りかかりながら、目線だけをこちらによこした。
(それで?)
そう言っているのだろう。

「30日間、毎日毎食マックばっか食う映画」

ふう、思わず溜め息が出る。
俺の目の前のマクドナルド狂は毎食ではないにしろ、30日どころじゃない。
もうかれこれ二年半だ。

「意味わかんね」

奴はそれの何が映画としての見所なのか理解できないらしく、
不機嫌そうに吐き捨てて、チーズバーガに喰いついた。

「映画の中じゃ、太ンだよ」

背が伸び、筋肉がつきはしても、つくはずの脂肪のつかない幸せ者に、
親切な俺は映画の趣旨を教えてやった。
こいつの胃袋に消えていった、二年半ぶんの超高カロリーのハンバーガーやポテトは、
一体どこへ行ってしまったんだ?

「マック食ってもシイタケ食ってもやっぱ同じなのかな」

ジャンクフードをがつがつと胃袋に詰め込んでいく相棒を、
ぼんやりと視界に捕らえて、俺は呟いていた。

「シイタケェ?」

怪訝そうにオレンジのサングラスが傾く。
この王様はジャンクフードが大好きで、椎茸のニオイが大嫌い。

「双子だろ、雲水も似たような身長なんじゃねえのやっぱ」

俺がそう言うと、"猿山の王様"こと阿含は、
目線はチーズバーガーに固定したまま、首をかしげた。

「そういうモンか?シイタケにコンニャクだぜ」

たぶん俺のがデカイだろ、と食いかけのチーズバーガーを口の中に押し込んだ。
この食生活でこの体形ならば、
シイタケとコンニャクの健康的な食事をしているであろう双子の兄は、
どれだけ貧弱に育っている事か。

「そういやアイツどこやった?」

ゲップ混じりに阿含が言う。突き出た喉仏は、二年前の儚さのかけらもない。
コイツが一回に食うハンバーガーとポテトの量は、セットに換算したら軽く3人前。
イヌだかネコだかみたいに、 ナントカ中枢とやらがイカれているに違いない。

「アイツ?つか、どこやったって何だよ…物かよ」

手持ちぶさたの俺は、ポケットからマルボロを出し、火を付けた。

「ユータ?」

モゴモゴいいながら奴は言った。
俺は火のついた煙草の煙を肺に吸い込まず、くわえたまま阿含を見た。
少し待った。煙の向こうの表情をうかがう。
…いや、待っても無駄なようだ。

「ユータはここに居ますけど?」

俺は自分のスキンヘッドに入れた黒いタトゥーを、人さし指でトントンと叩いて見せた。
去年からタトゥーショップでバイトしてる、俺のトレードマークだ。
奴は指先の塩を舐めるのをピタリと止め、そのまま一瞬だけ静止した。
そして何事も無かったように言った。

「じゃあ、一休」

じゃあ、って何だよ…。
最近、こいつはこういう事が多い。
物忘れというよりは、名前と顔が一致してないというか、
どうでもいいと思っているのか。いや、そういう所は昔からか。

「明日はガッコーだってよ」

今の時間は夜の11時。場所は爆音とどろくキングダム。
フツーの学生なら今頃、家で明日の準備でもして、テレビを観たり、
フロ入ったり、オナニーしたり、もしかするともう寝てるのかもしれない。
けれど俺達は朝から晩まで、ココに住んでいるようなモンだ。
ガキだって稼ごうと思えば食いぶちくらいはなんとかなる。
女の部屋で寝る事も多いが、起きたらまずここへやってくる。
登校とか、出勤みたいなもん。まあ、登校時間は平均16時だけど。
だから飯を食うのも酒を飲むのもほとんどココ。外へ出たらここは渋谷。
コンビニもマックも女も全部10分圏内だ。
けれど一休はここには"登校"しない。
あいつはなんだかんだ言って、シッカリ出席日数を確保しつつ、
チャッカリ高校受験もパスしてる。

「休みじゃねーの」

最後のチーズバーガーの包みをぐちゃぐちゃと丸めながら、阿含が言う。
確かに一休は春休みで、ここの所は昼間っから俺等とつるんでた。
ただしそれは昨日までの話。

「イッキュー君は明日からコーコーセーだそうです」

学校は学校でも、もう義務教育じゃあない。
今までと同じようにここへ通う事はできないだろう。

「ふーん」

気のない返事。
人に質問しておいて、もう違う事を考えているな。
雲水の金魚のフンだった阿含と、渋谷のボス猿の阿含。
違うようで全く同じ。
サボリ魔の小学生が、怠け者の王様になっただけだ。

「ン」

俺のマルボロを勝手にくわえて、俺の100円ライターを握りしめたまま、
阿含はピクリと何かに気づいた。
野生動物が耳をそばだてるように。
俺は阿含の表情と、爆音のフロアの気配に注意しながら、
ジーパンのケツポケットに突っ込んである軍手を取り出した。
なんてことはない、白地に黄色いフチのある軍手。
俺がそれを差し出すと、阿含はいつもと同じ顔で煙草に火をつけて、
火が移るとくわえ煙草のまま、俺の渡した白い軍手を受け取り、
いつも通り両手にはめた。

フロアがにわかにさざめいた。
キングダムの出入り口は、
ほぼ正方形のフロアの右壁を這うような鉄の階段の上に
たったひとつドアがあるだけだ。
よって"敵"がキングダムに攻め込んで来た場合、"引き分け"は絶対に存在しない。
撤退が難しすぎるのだ。
脱出するには大混戦の細い階段を駆け登って、ちっぽけなドアから出るしかない。
大人数になればなるほど、ここは密室とほとんど変らなくなる。
いちど踏み込んだが最後。相手の全滅しか終わりのない大乱闘が始まる。
それは "敵"を迎え入れるキングダムも同じだが、
今夜もキングダムには無敵の"王様"がいる。
だからここには人が集まる。いちばん危険でいちばん安全なクラブ。

「あ"ー、食い過ぎた」

白い軍手でTシャツの腹を叩きながら、王様は立ち上がった。
"食い過ぎ"という概念があったのか。それともどこかで覚えてきたのか?
やがて頭上の階段を、仲間がごろんごろんとが転げ落ちて行くのが見え、
爆音のフロアは身構えた。

「あごん!"ガーディアン"だ!」

階段の上から、キングダムが叫んだ。
ガーディアンというクラブを根城にしている奴らは、割としょっちゅうここへ来る。
阿含が目障りなんだろう。つぶしたくて仕方がないのだ。
基本的には頭が悪くて血の気の多い、ステレオタイプの不良の集まり。
だが、頭は悪いが場慣れしている。ここキングダムの事も良ーく知っている。
王様の特等席である、綿のはみ出した合皮のソファは、ちょうど階段の真下にあり、
見上げれば鉄の階段のステップとステップのすきまから、入口の様子が見える。

「おっ」

阿含が真上を見てつぶやいた。

さっすが、バカだ。

奴らは階段を一段一段降りて迂回する事はせず、
約4メートルの高さの階段から飛び降り、ショートカットで阿含の目の前へ着地して、
いきなり "王手"をかけて来た。
今日はそういう作戦を練ってきたのだろう。
狭いドアからなだれ込んできた彼らは、迷うことなく次々に階段の欄干を飛び越えた。

引力に支配されたこの星で、自身の落下を止められる人間はいない。
たった今、意気揚々と飛び降りたガーディアンの表情が凍りついた。

嫌だ、降りたくない。

落下しながら、彼の目には一瞬のうちに絶望が浮かんだ。
何かに掴まりたいと右手が宙を掻く。
阿含は決して速くはなく、むしろ少しのんびりとしたスピードで、
右膝をひょい、と持ち上げた。
ここまではまるで遊んでいるようなスローモーションだが、
次の動作の曲げた膝を伸ばす瞬間は、まるで光速だ。
はっきり言って、俺には見えない。
阿含のつま先は、 落下してきたガーディアンの両足が地面につく前に、
凄まじいスピードで腹にめりこんだ。
ガーディアンの背中から、阿含の足が突き抜けそうなほど速い、刺すような蹴り。
毎度ながらおっかねえ、見てるだけで吐きそうだ。
階段から飛び降り、着地の前に阿含に蹴られたのだから、
彼の身体は空中をほぼ90度に曲がって、
ドラム缶を4っつ並べただけのバーカウンターに叩きつけられた。
これがウチのバーカウンターのドラム缶がボコボコな理由。
そして階段経由でもガーディアン達はなだれ込んできたようだ。
人間の量が、キングダムの許容量を超えはじめている。
フロア中、動けば当たる前代未聞の大乱闘だ。女達の悲鳴が突き抜ける。

一度蹴りを放った阿含はもう止らない。両手両足頭膝腰背中。
彼の身体は何ひとつ無駄な動きをせず、どれ一つ止る事なく、
群がるガキどもの身体を一人で作業みたいに破壊していく。
こいつを見てると、実家の工場にあった巨大な印刷機を思い出すんだ。
ガッシャン、ガッシャン、ガッシャン。
音は単純だけど、物凄いスピードで、しかも複雑に、とても繊細に動く。
その動きだけを見れば、場違いにも美しいとさえ想う事があるくらいだ。

けれど破壊されるのは敵の身体だけじゃない。
阿含のその身体能力はたぶん、人間の肉体の限界を越えているんだろう。
それを物語るのが、もうすでに血に染まりつつある阿含の両手の"軍手"だ。
今はずいぶん身体も鍛えられたし、なにより身体が"男"になった。
けれども2年前はまだ身体のまったく出来ていない、ひよわなガキだったんだ。

だがどんな細い腕をした子供でも、阿含は阿含だった。
子供の身体でその力を発揮すると、壊れていくのは本人で、
阿含の幼い身体は阿含の能力にたえきれず、
こんな乱闘のたびに拳の皮はめくれあがり、骨が砕ける事さえあった。
その対策として"軍手"が登場した。
誰が考案したのかは忘れたが、たかが軍手一枚だが、それは無いよりずっとマシだった。
本人も拳に血液がつかない事を気に入り、いまでも軍手を必ずつける。
その血染めの軍手が、
まさか自分に降り降ろされる日が来ようとは。










まだ、俺が寺にいた頃。そう、夏だった。
麦茶を飲もうとして冷蔵庫を開けたら、
一匹の蚊が吸い込まれるみたいに冷蔵庫の中に入っていったんだ。
俺は蚊を追って冷蔵庫の中に手を伸ばした。
引力って本当にあるんだな。
蚊は突然、冷蔵庫の中で底に引き寄せられるみたいに、
ポトッと落ちたんだ。
そうか、夏に生きる蚊にとって、
冷蔵庫の寒さはたまったもんじゃないんだろう。
蚊ごときに情が移ったってわけじゃないけど、蚊はまだ生きてたから、
あまりに蚊の命が薄っぺらかったから、俺の力で生き返らせてやろうと思って、
神様になったような気持ちで、蚊をつまみ上げて外に出そうとしたんだ。

そしたらどうだ。
俺の指が迫ってきた事に気付いた蚊は、ヨタヨタしながら、最後の力を振り絞って、
俺の手から必死に、まさに死に物狂いで逃げたんだ。

冷蔵庫の奥へ、奥へ。

死んだ。あっという間だった。

正直おどろいた。
逃げるにしたって、なんで外じゃなくて奥へ逃げるんだ?
それで死んだんじゃ、逃げる意味がないのに。
手前に逃げればいいじゃないか。なんでそれが分からないんだ?
しかも俺は助けようとしたのに。

「阿含!ガーディアンだけじゃねえ、マンダラの奴等もだ!」

んん?
誰だ、今誰が言ったんだ?
テカテカのスキンヘッドに入った、うねる黒い墨だけが皮膚に沈んでる。
たしか前は金髪だった。知ってる。

しかしこいつら、何だってこんなにゆっくり動くんだろう?
もうちょっと早くよければ、俺の拳に当たらないのに。

つーかあの蚊は、そもそもなんで自分から冷蔵庫に入ったんだ?
こいつらは何でよってたかって、自分から俺のとこに来んだ?
危険を感じないのか?

重い、両手が重い。手のひらがぬるつく。
軍手がスゲー血を吸ってんだ。軍手の意味ねーじゃんか。
なんか今日はやけにウジャウジャいやがるから。
そういや、叩いて血が出んのは、
蚊もこいつらも変わんねーのな。

「チョーシこいてんじゃねえぞチビ!」

チビ?俺が?
なあ、お前等には俺が一体どのくらいの大きさに見えるんだ?
170センチくらいか?

見ろよ、こうしてる間にも俺はどんどん巨大化してく。
いま俺の背中はキングダムにつかえてるだろう?
もうすぐに突き破ってしまう。
ところでお前は一体どこに居るんだよ?
一生懸命目をこらして地面を見てても、俺の視点がぐんぐん上空にひっぱられる。
ほら見ろ、キングダムの薄汚ねえ屋根が、もうあんなに小せえ。
小さすぎるんだよ、お前らは。もうアリンコみてえじゃねえか。
お前らに、俺はどのくらいの大きさで見えてるのか知らないが、
この通り、俺はハンズからQフロントまでたった2歩あれば充分だし、
109は腰をかけるのにちょうどいい。ゴジラとどっちがでけえかな?
多分その気になりゃ、火も吐ける。ガォーってな。ほんとだぜ。
その証拠に俺はお前等の見分けがつかねえし、
お前等が俺を倒すなんて不可能じゃん。
蚊が人間を倒すくらい無理あんじゃん?

「阿含!」

なんだよ、うるせえな。
どこだ、どこにいる?誰が呼んだ?
両足を放りだすように109に腰をおろすと、
右足のかかとはバスターミナル、
左足のかかとの下で渋谷駅前の派出所がペッチャンコ。
ウルトラマン、ちょっと遅せえんじゃねえの。

「人数がハンパじゃねえ!」

うわうわ、本当だ。この量は確かにハンパじゃねえな。
ミニチュアの渋谷駅からウジャウジャ出てきて、
集団で俺の足にチマチマ登ってきやがる。
気持ち悪りィ、俺は片足を上げて振り払った。
超ミクロサイズの人間が俺の足から、
まっくらな渋谷の空に、散り散りに 吹っ飛ばされていく。
星のかわりだ。ちょうどいい。

「やめろ、阿含!」

ああ?ええと、誰だっけこの声。ユータ?
ユータ、どこだ?
俺、何かした?どこだユータ。
俺は顔を上げて、キョロキョロと周りを見回した。

俺の睫毛ギリギリを、手のひらサイズのANAのジャンボが、
チカチカ光りながら、トンボみたいな速度でスーっと飛んでいく。
ああ、星はねえけど今日は月が出てるな。
けれどユータは見当たらない。おかしいな、さっきまで俺の前に座ってたのに。
目の前にはひたすら夜空しかないし、シーンとしてる。
俺は109から腰を上げると、一歩進んで渋谷駅をまたいでみた。

ドシーン

東京なんか点滅する水たまりみたいなもんだ。あとは真っ暗。
あそこにあるクリスマスツリーみたいのは東京タワーか?
もうちょい歩けば先っぽ掴めそう。

ドシーン



しかし狭いな、世界って。



「よせ!それはキングダムだ!」

ン?俺もしかしてナンカ踏んだ?
よせって、それだけじゃどこの事を言ってんのかわかんねえよ。
どれが誰?どこらへんは踏んじゃだめ?ここはオッケー?
まさかこのウジャウジャした中にいんの?
だって足もとにすげえイッパイ居るんだよ。
こんなの見分けつくわけねじゃん。めんどくせえなあ。

「とまれって、阿含!」

とまれ?とまったら多分、コイツら足から登ってくんだよ。
そんで多分刺すし。嫌だって。

「とまれ!」

あー、もう分かったよ、止ればいいんだろ。ハイ、止りましたー。

「あっ阿含!あぶねえ!」

痛てっ!
イッテーな、刺しやがった!
だから言ったじゃねえかよ。クッソ、血がでてやがる。

知ってるか?
蚊ってホントはメスしか血を吸わねえんだよ。
オスは人間にとっては全く無害。
オスが何百匹いようと、血を吸われて痒くなる事はないらしい。

けどさ、

蚊は見つけたらオスかメスかわかんねーけど、刺される前に殺すだろ?

オスかメスか見分けてから蚊取り線香焚く奴が居るか?

アァ。もう俺ももうめんどくせえ。
どれでも一緒じゃねえか。わざわざ選んでやるだけの価値があんのか?
全部潰したらスッキリすんだろうな。










キングダムには窓がない。
昼も夜もいつだって同じ"夜"の薄暗さだ。
だから俺が目覚めたのは朝日のお陰なんかじゃない。
猛烈な吐き気だ。
胴体に入ってる内臓が、口から出ようと全部いっせいにせり上がってくる。
だけど俺は気を失ってる間にしこたま吐いた後らしい。
そこらじゅうがソレだらけだ。自分のモンでまた吐きそうになった。
けど胃には何も残ってない。ただ胃の痙攣だけが強烈で、耐えるだけで目が涙ぐんだ。
何とか波を持ちこたえ、ふと床に視線を転がすと、今度は違う意味で胃が縮みあがった。

死体だ

俺もこんな歳で、こんなアタマにして、学校にも行かず、
酒、女、ケンカ、みたいな生活してるけど、マジの死体は見たことねえよ。
でも多分、こんな感じなんじゃないかと思ったんだ。屍の山っていうのは。
今度は血の生臭さで、嘔吐をもよおした。

ビチャッ

髪のない俺の頭に、水分を大量に含んだ柔らかいもんがブツかってきた。
手に取ってみてゾッとした。生温かい。
真っ赤で、ぬるぬるで、スプラッタに出てくる内臓みたいな物だった。


「ユータ」


俺は死ぬほど驚いて、内臓を掴んだまま、顔を上げた。
顔を上げて、手に持ってる物が何かわかった。

軍手だ。

水びたし、ならぬ"血びたし"の軍手。
これを着けるのは彼だけだ。

「立てよ。乗せてけ」

いつものお気に入りのオレンジのサングラス。いつもと同じボサボサの金髪。
いつもと同じ返り血のついたTシャツ。

絶対に負けない、俺らの王様。

俺の歯は、情けないほどガチガチと音をたて始めた。
軍手から移ったひたいの血が、もう乾き始めている。

「ユータ、立てって」

"いつもの"苛立つような口調に、胃が壮絶なまでに拒否を示した。

そうだ。
殺されかけた。俺も。

そこらじゅうに転がってる死にかけに、
マンダラもガーディアンも、ましてやキングダムも無い。
ここにいる全員は、たった一人の人間に殺されかけた、
ただのかわいそうなガキだ。
俺は出もしない胃液を飲み込むと、立ち上がった。
死にたくない。たぶん本気で思った。
膝がおもしろいくらいに震えてた。

外へ出ると、中の生臭さが消毒されるような、春の陽射しの温かさだった。
昨晩は大雨だったらしい。
桜のあまり無い渋谷のアスファルトにも、うすい桜の花びらがずいぶんと貼り付いていた。
血のこびりついた手でバイクのエンジンをふかすと、
阿含はいつも通りタンデムシートに跨がった。

「どこに、行くんだ?」

自分を半殺しにした人間を後に乗せても、
春の陽射しのせいか、俺の声はずいぶんと落ち着いていた。
いつもの気だるい調子で、阿含は言った。


「ニューガクシキ」










確か、ずいぶん昔に聞いた事があった。
阿含と雲水は進学先が決まっているって。
俺は単純だしバカだから、勉強しなくていいじゃん、いいなあ、なんて思ったもんだ。

「こりゃ、すげえな」

どこの学校かなんて聞いてなかったけど、ここしかねえと思って俺はバイクを走らせた。
何段くらいあるのか、恐ろしく長い石段の上に巨大な三門がそびえてる。
新入生だろうか、それとも在学生だろうか?
暗い黄色の道着の生徒達が、ばらばらと階段を登っている。

「サーンキュ」

阿含は昨夜の事など夢だったようにバイクから降りると、
両手を青空に突き上げて伸びをした。
俺はもう不思議なことに、敵も味方も見境もなく殺戮した阿含を、
恐れてはいても、恨んではいなかった。
むしろ俺の感情は"反省"それ
一色だった。

階段の上には桜があるんだろうか。
阿含の金髪にも、俺のスキンヘッドにも同じように、
ちらちら、ちらちら、と花びらが降ってくる。
大あくびを終えると、阿含は長い長い石段を上り始めた。
素足にかかとの潰れたアディダズをひっかけて。

阿含。

俺はあの秋の日、雲水を誘おうと思って電話をかけたんだ。
同じお前に敗れた者同志、お前の悪口でも言いあって、
ついでに雲水をこっちに巻き込んじまおうと思ってた。
ホントはな。
だけど電話に出たのはお前だった。

壮大な青空と、上品な桜吹雪と、クソ真面目そうな神龍寺の制服の色と、
どっからどう見てもゴロツキの猫背の阿含の姿が、
あまりにも合ってなくて、安っぽい合成写真みたいで笑ってしまった。
さて、永遠のような石段も、もう中盤だ。
よく登るなあ。そんなお前の背中、初めて見たよ。
あの日お前が家を出てから、俺はお前の兄貴みたいなつもりでいたよ。
昨夜はその天罰があたったんだな。


「阿含!」


俺は声をすこし張り上げなければならなかった。
すこし遅れて阿含は振り返った。
(何だよ、うるせえな)
もう遠くて表情は窺えないが、
サングラスの奥の目はきっとそう言っているに違いない。
俺はひといき吸い込んで、言った。


「雲水によろしくな!」


雲水。

あの日電話に出たのがお前だったら、何か変っていただろうか?
お前を仲間にするどころか、案外俺はお前に諭されちゃって、
マジメに学校に行ってたのかもな。
お前は今、どんな姿なんだろう。
やっぱり阿含と似てるのかな。

俺の声は届いたはずだが、 阿含は聞こえないふり、あるいはシカトして、
ふたたび階段を登り始めた。


俺は暖かい四月の空気を肺いっぱい吸い込んだ。
階段に背を向けてゆっくりとバイクを発進させる。

これから階段にとりかかるであろう神龍寺生達が、
すれ違いざまに俺を盗み見る。
なんだ、スキンヘッドが珍しいか?お前等だって似たようなもんじゃないか。
向こうから来たピッカピカに磨かれた黒いアウディとすれ違う時、
その鏡のような車体には、ジャガイモみたいな輪郭のスキンヘッドが映ってた。

こりゃ酷い。

視界が狭いとは思っていたが、
ここまでボッコボコにされていたとは。
参ったな、いくらタトゥーショップとはいえ、これは流石に叱られるだろうな。
参ったよ、ほんと生きててよかった。


アルバート第11話「巨人の庭-後編-」へつづく