ずっと
ずっと
世界は
ちいさな庭だった
ALBERT_11
巨人の庭 -後編-
「14時にできるそうだから、帰りにでも取ってきなさい」
小さな石油ストーブひとつの広い座敷。
3月とはいえ冷え込みは厳しく、味噌汁の湯気がもうもうと白い。
雲水は飯茶碗と箸を置くと、栄達の浅黒い指のさしだす薄い紙きれを受け取った。
「はい。すいません」
二つ折りにされたその紙が何であるか雲水は知っていたが、
まるでそうすることが礼儀であるかのように雲水は紙をひらいた。
触るとかさかさと音のする、透けるほど薄いその紙には
"ツバメクリーニング"というスタンプが押されている。
お客様氏名という印刷の横には"金剛ウンスイ"様。
お預かり、学生服一点。"お急ぎ"という文字の上に乱暴なマルが書いてある。
雲水は近所のクリーニング屋の控えをジャージのポケットに入れると、
お椀の味噌汁を飲み干し、合掌するとさっと立ち上がった。
「では行ってきます」
雲水はまだ食事をしている坊主達に頭を下げると、側に用意してあった鞄に手をかけた。
「運動着で卒業式にはならんようにな」
しわくちゃの坊主がそう言うと、他の坊主達はワハハ、と声をあげて笑った。
坊主のほとんどは中年で、雲水が物心ついた時からずっとこうして一緒に朝飯を食ってきた。
坊主達はあたたかい笑い声と一緒に、凍える座敷に白い煙を吐いた。
「気をつけます」
雲水はすこしバツの悪そうな顔で、もう一度礼をして玄関に向かった。
古い板張りの冷たい廊下を踏みながら、雲水はちいさくため息をついた。
(水たまりの上で転んでしまって。)
我ながら気のきかない言い訳だ。
中学が近づくにつれ、道には黒い学生服や白いスカーフのセーラー服が増え、
ひとりだけ、紺色のジャージにマフラーを巻いた姿の雲水は、
だんだんと浮いてきた。
雲水の通う中学のジャージは、いまどき白い3本ラインの入ったもので、
胸にはオレンジ色の糸で"金剛雲"と刺繍が入っている。
年頃の中学生ならば、できれば着たくないと思う代物だが、
卒業式までのあと3日、雲水はこのままジャージで登校しようと考えていた。
例え今日の午後、学生服がクリーニングから上がってくるとしても。
でないと年老いた坊主の言う通り、ジャージで卒業式になりかねない。
昇降口へ着くと、雲水は自分の下駄箱へは向かわず、
肩から下げていた中学指定のスポーツバッグをスノコの上へおろし、ジッパーを開けた。
がさごそとビニール袋を取りだす。
袋は不透明なブルーで、"小林堂"という駅前にある書店の名前が印刷されている。
その袋から雲水が取りだした物は本ではなく、上履きだった。
白い運動靴を脱ぐと、三年間履き古した上履きに履き替える。
今度は脱いだ運動靴をビニール袋へしまう。
無造作に袋ごと鞄に押し込むと、雲水は教室へ向かった。
高校受験を終えて、卒業式を待つばかりの浮かれて華やかな雰囲気が、
三年生の廊下にはあった。
何ヶ月もの受験のストレスを発散するかのように、生徒達は朝からはしゃいでいた。
雲水が廊下に現れると、それぞれの友人とそれぞれの話題で盛り上がっていた生徒達の視線が、
すべて雲水に集まった。
申しあわせたように皆、声を低くする。
こそこそと、雲水の顔を見ながら何か言っているようだ。
雲水はかるく鞄を背負い直すと、すたすたと廊下を進んだ。
磁石を近づけると、砂鉄がにげるように、
雲水が進むと生徒達はそれぞれにわざとらしい動作で、雲水から距離をとった。
教室の引き戸を開けると、そこでも廊下とまったくおなじ現象が起こった。
ただ、廊下の生徒達と違うのは、誰もこそこそとささやきあったりしない事だ。
じっと、無言で雲水の挙動をみつめている。
開けた戸を後ろ手でしめる雲水。
戸の前で立ち話をしていた女子がさっとよける。
まっすぐに歩いて、廊下側から4列目で曲がる。からみつくクラスメイトの視線。
後から3番目、雲水の席。
机が四つ足で立つ動物だとしたら、雲水の机は仰向けに転がされたイヌだった。
床についているはずの四本の足は、天上にむかってぴんと伸ばされ、
逆に天板は床にべったりとくっついていた。
(毎朝、毎朝、ごくろうさん。)
雲水は手慣れた動作でひっくりかえった机を立たせた。
やっと空を仰いだ天板には、でかでかと彫刻された見慣れた文字。
"ホモ野郎"
文字の上にドサリと鞄を降ろすと、雲水はあることに気付いた。
椅子がない。
どこだ、と雲水が探す素振りをした途端、沈黙していた教室中がどっと笑った。
まるで"お約束"だ。
ここだ、という所で全員笑う。
面白いから笑うのではない、嗤いたいから笑うのだ。
雲水の椅子は、さむざむとしたベランダで発見された。
もちろん、四つの足は地についてはいなかった。
俺が気付いたのは一月の末だった。
そのころの授業の内容は主に受験対策。復習とポイントのくりかえしだ。
「先生」
授業の始まりと共に金剛が手をあげて言った。
「教科書、忘れました」
金剛が教科書を忘れる?
進路が決まっているのだから、いまさら彼に受験対策は必要ない。
決まっていなくても必要ないくらいだ。
だからって気を抜いて教科書を忘れるような生徒ではない事は、俺がいちばんよく知っている。
ぷっ
誰かが噴き出した。
加藤という男子生徒の肩が震えている。笑っているようだ。
ばかやろう、声がでかい、とでも言うように、後の席の山中が加藤の後頭部をはたいた。
つられるように、女子の中でいちばん目立つ4人組も、顔を見合わせ声を殺して笑った。
クスクス
くっくっく
うちよせるさざ波のように、クラスの生徒はみな声を押さえて笑いだした。
わざと何かを見ないようにようにしているようだ。
しかも見ない事を俺にアピールしているようなわざとらしさ。
そう、金剛雲水は笑っていない。
両手を膝の上に乗せて、背筋を伸ばし、かるく目を伏せて座っている。
俺はふと、一人の生徒を見た。彼女も笑っていないからだ。
矢島千秋。
机に頬杖をついて、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
やりやがったな。
そう直感した。
俺はだんだんと音量を上げはじめた生徒達をしずめると、授業をはじめた。
「途中で寝るなよ、見えてるからなー」
受験が終わってしまえば、後は卒業式の練習くらいしかやる事はない。
朝から晩まで勉強していたかと思えば、立ったり座ったり、歌ったり、
退屈な気持ちはよくわかる。
そして退屈な生徒達は日増しにエスカレートしていった。
進路は決まったし、どうせもうすぐ卒業だ。会う事もない。そんな所だろう。
「金剛は答辞、しっかりな」
今日は予行練習だ。卒業証書授与から送辞、答辞すべて本番通りやる。
ここ2日ほどジャージ姿の元生徒会長は、涼しい顔ではい、と返事をした。
ある日は素足で一日過し、ある日は頭からズブ濡れになっていた。
そしてある日、彼の机には彫刻刀で深く、こう彫られていた。
"ホモ野郎"
俺は全てを確信した。
"リーク"だ。
犯人は矢島千秋。
非の打ち所のない元生徒会長のスキャンダルは、
受験生のひそかなうわさ話から、高校一年予備軍の恰好の暇つぶしになったのだ。
その悪い毒はあっという間に学校中にまわり、全校中が下卑た喜びに酔った。
"あの"金剛雲水が、ホモらしい。男とやりまくってるらしいぜ。
それはこの中学の生徒達にとって、最高のエンターテイメントだろう。
真面目で優しくて運動神経がよくて、そのうえ学年いち頭が良い、
そんな男を、今ならもれなく敗北させてやれる。
嫉みと憧れなんか紙一重どころか、まるでいっしょくただ。
ただ、矢島千秋は俺にはいっさい触れなかったようだ。
悪意が分散するのを恐れたのかもしれない。そこからうかがえる矢島の意志。
憎いのはただ一人、金剛雲水だけなのだ、と。
国歌斉唱、卒業証書授与、起立、礼、着席。
予行練習だけですでに2度目だ。
生徒達はまるで兵隊のように身体に動作を覚えさせられている。
時々居眠りをしていて、起立に遅れる生徒がいるくらいで、何も問題はない。
問題は在校生の送辞の後、卒業生による答辞だ。
ジャージ姿の卒業生代表が舞台に上がる。
3年の夏にひと月で6センチも身長の伸びた彼の身体に、
入学時から着ている指定のジャージはすこし小さい。
マイクの前で手に持ったA4のコピー用紙を広げる。精悍な顔。
「三年前の四月、はじめて校門をくぐったあの日」
壇上の彼は、気が狂いそうなほど無数の好奇の視線を感じている事だろう。
卒業すれば終わるとはいえ、数々の嫌がらせは想像を絶する苦痛だろう。
それなのに、彼の声も、表情も、なにひとつ淀むどころか、
塵ひとつ落ちる気配さえ無い。
あまり雪が多いとはいえないこの神奈川で、雪が積もる、すると子供たちはどうするか。
まだ誰も踏んでいない、まっさらな雪をわざわざ探しだして、
泥だらけの靴裏で踏みにじりに行くのだ。
それに、似ている。
暖房のない講堂で、読み上げる息が白い。
「初めての制服に心おどらせ」
明瞭に澄んだ声がふと不自然に途切れた。
彼は壇上から何かに気を取られたようだ。
バシン!
ならんだパイプ椅子に腰掛けた制服の生徒達の中に、初老の数学教師が一人立っていた。
さっきの音は教師が右手に持ったファイルで生徒の頭をはたいた音だろう。
普段は温和なおじいさんといった感じだが、彼は怒らせると怖いのだ。
頭をはたかれた男子生徒から、なにか紙のようなものを取り上げると、
壇上の金剛を振り返り、続けろと手で合図した。
「どうかしましたか」
戻ってきた数学教師に声をかけると、教師は眉間にふかく皴を刻んだまま、
無言でとりあげた紙きれを差し出した。
A3のわら半紙のプリントの裏に、油性マジックでこう書かれていた。
"初めての肛門"
最悪の気分だ。
校門と肛門をかけてやがる。
生徒はこれを答辞にあわせて壇上にむかって広げていたという。
先週の答辞では、それまでおとなしくしていた生徒達がいっせいに騒ぎだした。
それはもうマイクを通した金剛の声が聞こえないくらいだった。
今度はこれだ。名誉ある卒業生代表の挨拶が、これでは完全にさらし者だ。
俺は唇を噛んだが、壇上の金剛はなにごとも無かったかのように、こう言った。
「未来の友人達への期待で一杯でした」
答辞のつづきだ。
なぜだ。
全校生徒の絶望が聴こえるようだった。
なぜ怒らない、なぜへこまない、なぜ惨めにならない、なぜそこまで。
自分への攻撃を無視できる。
俺には壇上に立つ15歳のジャージの少年に、何か神々しささえ感じていた。
卒業式、当日。
雲水が姿をあらわしたのは式が始まる直前だった。
「金剛、すぐ入場だぞ」
雲水は入学していちども遅刻した事がないから、
先生もさすがに気をもんだらしく、雲水が三年の廊下に姿を見せると、
ほっとしたようにそう言った。
たぶん、わざとぎりぎりに来たんじゃないかと思う。
入場を待って、すでに廊下にならんだクラスメイトを見ても雲水はすこしも焦らず、
教室に鞄を置きに入った。
出てきた雲水に、私はすかさず駆け寄った。
今日しかもう、チャンスはないのだから。
「雲水」
こんな風に、堂々と名前を呼ぶのはひさしぶりで。
私は雲水の目の前に立つと、なんだか言葉と視線のやり場に困ってしまった。
早く、早くと心臓が私をせかす。
「ごめん」
馬鹿。
まるで不貞腐れてるみたいな私の声。力んでしまって"ご"を強く言い過ぎた。
それだけで、全てが失敗に終わったみたいにいたたまれなくなって、
私はうつむいたまま、右手をつきだすのが精一杯だった。
卒業生が胸に飾る白い蘭。雲水のぶんを私が預かっておいた。
どうしても、謝りたかった。
とりかえしなんかつかないのに、謝りたいなんて、どこまでいっても自己中心的。
私の手なんか、振り払ってもいいよ、雲水。
だけど雲水は、ふわりとほつれるみたいに、
私の指から蘭を抜き取った。
顔が、見れない。
「3-E、入場するぞー」
雲水の顔を見る自信のなかった私は、その声に救われたような気がして、
そのまま列に飛び込んでしまった。
今思えば、あの時雲水の顔を見上げていたら、きっと彼は微笑んでくれただろうと思う。
だって、雲水は。
卒業式は見慣れた体育館に、
豪華な花と、ストーブと、化粧のにおいがするだけで、
あとはあっけないくらい、予行練習と同じだった。
予想以上に「校長先生のお言葉」が長いくらいで、涙が出て卒業が悲しくなるような、
感動的なイベントは一向におこらなかった。
「おい、次だぜ」
後の席の男子の、ごしょごしょとした声が聞こえる。
この声は加藤だ。
「やる?マジ、あれ」
この声は川原。
2人とも言うことばっかり偉そうで、甘ったれの最低なやつら。
加藤は卒業式の今朝、突然ピッカピカの茶色に染めた頭で登場した。
俺って悪いでしょ、俺って目立つでしょ。そういうみえみえな所が私は大っ嫌い。
しかも、話の内容も聞き捨てならない。
いくら感動的じゃなくても、今日は予行練習じゃなく卒業式本番なのに、
保護者が後で見ているって言うのに、雲水の答辞でまた何かをやる気なんだろうか。
送辞を読み終えた在校生代表が、自分の席へ戻っていく。
「答辞。卒業生代表、金剛雲水」
はい、という雲水の落ち着いた声。
立ち上がり、壇上へむかってしずかに歩く。
あ、今日、雲水学ランだ。私の渡した蘭がちゃんんと胸に飾られている。
さっき会ったのに、今気付いた。
先週、男子便でびしょ濡れにされてから、ずっとジャージだった。
本当に、ごめんなさい。
だから今日ぎりぎりに来たんだよね。
まさかこんな事になるなんて思わなかった。
あの時、気が狂いそうで、ああする事しか考えられなかった。
言いふらすなんて最悪の事を、あの時の私は平気でやった。
壇上の、派手すぎるくらいの花の横に立った雲水が、
白い和紙をひろげる音をマイクが拾い、体育館中に ごそごそという音が響く。
そんな音さえも、好きなのに。
和紙に包まれた、波形に折った紙を広げると、
雲水はしゃんと背筋をのばしたまま読み上げた。
「答辞」
マイクを通して、雲水の声が体育館中にしみこむように拡散する。
「三年前の四月、はじめて校門をくぐったあの日」
ガッターーーン
一瞬、驚きで身がすくんだ。
静かな体育館で、その暴力的なほど大きな音は、私の真後ろで突然鳴ったのだから。
「俺は、金剛雲水を卒業生代表と認めません!」
加藤は、自分の座っていたパイプ椅子の上にたちあがって、
右手を高く上げ、顔を真っ赤にしてそう叫んだ。
ざわめく保護者席。唖然とする卒業生。
たしかに、昨日まで"金剛雲水苛め"を楽しんでいた。
でも、今日は違う。優先順位が違う。
皆の顔がそう言っていた。
それなのに、空気の読めないこのバカは、
ミンナが言いたい事、俺が代弁してやったぜ、とガッツポーズで吠えた。
まるで英雄気取り。それで髪形にも気合い入れてきたってわけ。
私の中でふつふつと、なにか泡のような物が浮かびだした。
隣の川原は、加藤と同じぶあついフィルタがかかっているのか、
興奮してわざとらしく手をたたきながら、
マジヤリヤガッタと物凄い早口で繰り返している。
私のなかで、なにかが吹っ飛んだ。
「いい加減にしなさいよ!このクズ!」
びっくりした。
誰の声?
私の声!
ここには何百人もの人間がいるのに、誰もいない体育館のように静まり返っていた。
その静まり返った人間を、私は立ち上がって見下ろしていた。
思わず、立ち上がっていたのだ。
体育館の隅々にまで、私の叫び声が行き渡った実感がある。皆、私を見てる。
しまった、うちのお母さんも来てるんだった。
「は!?おめーが言いふらしたんだろうがよ!」
加藤は耳のさきまで真っ赤にして、パイプ椅子の上からつばを飛ばして怒鳴った。
その通り、私が全ての元凶。いちばん最悪なのは私。
だけどもう、この際それは棚にあげるしか無かった。
だって私の顔も加藤の事をいえないくらい、真っ赤にゆで上がってたはずだから。
「アンタなんかこうでもしなきゃ、雲水に勝てないんでしょ!」
今度は加藤の図星。
いつもは達者な口が、ぱくぱくと空回りしている。
目はしばたきながらも、私を見、そして壇上を見た。
「・・・・」
ぽかん、とした表情のまま加藤の動きが壇上に釘付けになった。
なにがあるのかと、私も舞台を振り返る。
そこにはさっきと変らず、マイクが立っており、雲水が立っていた。
雲水は答辞の紙を両手で持ったまま、こちらの様子などちっとも見えていないかのように、
立っていた。
その視線は"何か"をじっと見ている。水平よりも上の方。
今度は雲水の視線の先を追って、私はまた加藤のいる後を振り返った。
加藤もパイプ椅子に立ったまま、不思議そうに何度も後をふりかえっていた。
卒業生の後に二年生、一年生。そして色とりどりの保護者席。
それよりも上…体育館特有の入り組んだ天井がある。
梁にバスケットボールがひとつ、挟まったままだ。それだけの、なんの変哲もない体育館。
私はまた雲水に視線を戻した。
雲水は、その何もない体育館の天上を見つめたままだった。
きーん、と耳鳴りがしそうなほど会場は静まり返っていた。
雲水?
なにを、見てるの?
ドシーン
ドシーン
遠くの雷鳴のように、でも確かにきこえる。
ああ、あんなに高い所まで土煙が上がってる。青い空が黄色くかすむ。
遠く黒ずんだ木々の輪郭が揺さぶられ、鳥たちが恐れをなしていっせいに逃げて行く。
そこに、いるんだな。
ひとたび姿をあらわせば、その巨体が太陽を隠し、巨大な影を落とすだろう。
その大きさに憧れ、影におびえ、お前の力の巨大さを、
目の当たりにしながら生きてきたのに、目の前からいなくなったというだけで、
皆すっかり忘れてしまった。
こうしてお前はどこかで、大地を踏み、呼吸をし、今にも現れて、
何もかもをさらってしまうかもしれないと言うのに、のんきなものだ。
取るに足らない俺なんかを祭りあげて大喜びしている。
今はもう、この地鳴りのような足音も、お前がおこす突風も、俺にしか聴こえないらしい。
さあ、この音が頭蓋骨に鳴り響いている以上、俺は前に進まなくてはいけない。
向かった先がどこだろうと、立ち止まるわけにはいかない。
まずは、手始めに目の前の卒業式を終わらせよう。
「三年前の四月、はじめて校門をくぐったあの日」
ドシーン
ドシーン
俺の声が全校生徒に、保護者に、床に、壁に、空気に、染み込むのがわかる。
こんなちっぽけな音が聞こえて、この馬鹿でかい音が聴こえないのだろうか?
揺れる大地に、騒ぐ鳥に、本当に気付かないというのだろうか?
俺が教えたら思い出すだろうか。今、なんだかそれを確かめたい。
「あの日、俺の隣には双子の弟がいました」
ドシーン
ドシーン
絶えず届くその足音、その大きすぎる音が聴こえるが為に、
その他の音が、どうやら俺には聞こえないらしいんだ。
誰の声も、どんな音も。
お前は、でかい。
それだけが俺に理解できるたったひとつになってしまう。
比べておれは小さい。
それはあまりにも歴然で、お前に挑む事自体、競おうという発想自体がフィクションに近い。
お前が聞いたら、きっと笑ってしまうだろうけど、
それでも俺はこの学校で一番らしい。
という事はお前がいたら二番だったわけだ。
1と2の間が何万光年も離れてる、それでも数字のうえでは一位と二位だ。
みんなには、その距離がわからないんだ。
どのくらい離れているのか知ろうとしないんだ。わざとかもしれない。
お前が居なくなったから、繰り上がりで俺が二位。
あまりにも雑で単純な計算を、なんとか信じ込もうとしてるんだ。
お前がこんなにも大きい事を忘れたくて。
千秋、どうしてそんな顔をしてるんだ?
何か言いたそうな顔だけれど、たぶん、俺には聞こえないだろうな。
千秋、俺にはお前の声がずいぶん前から聞こえない。
お前もあいつの音が聞こえないのか?
思い出せ、千秋。お前は知ってるはずじゃないか。
「ご存知のとおり弟は優秀で、成績はもちろんサッカー、金魚すくい、
何ひとつとして俺は弟に勝てませんでした」
ドシーン
ドシーン
ちょっと静かにしろ、加藤がなにか叫んでるみたいだ、
お前の足音のせいでまったく聴こえないじゃないか。
仕方ない、とりあえず先に進めるしかないか。
俺が何を言ったって、どうあがいたって、
どっちみち、俺にはお前の足音を消せやしないのだから。
「そんなちっぽけな俺が、
いま、代表としてここに居る事がふしぎでなりません」
ドシーン
ドシーン
ああ、見ろよ。
お前の足音がやっと皆の耳にもとどいたみたいだ。ああいう表情、久しぶりにみたな。
俺ひとりに視線が集まっているようで、彼らは今、お前の姿を思いだしてる。
恐れいるのに憧れている。
そうか、まるでお前はまるで神様だな。
なんだか、少し満足した。
ずっと、ずっと思ってたんだ。
なんで忘れてしまったんだ、なんできこえないんだ、って。
お前がいなくなったあの日から、ずっと。
俺が一番になった日から、ずっと。
しまった、決まっていた文章とずいぶん違う事を言ってしまった。
今からでも軌道修正した方がいいよな。
ええと、そうだな、じゃあこうしよう。
「それもみな、ここにいる皆さんが支えてくださったおかげです」
誰ひとり、触れなかった。生徒はおろか教員でさえも。
金剛雲水という生徒に。彼の素晴らしくよくできた答辞に。
俺は、辞表を出した。
決して彼とのことが学校にばれたわけではないし、
金剛雲水に引け目を感じたわけでもない。
教師として失格、そう素直に反省できるほど俺は子供じゃないらしい。
タイミングよく研究員の話が来たという事と、ただ単に"教師"にあきた。それだけだ。
もう、見つからない気がした。
ああいう生徒に出会ってしまった以上、この職業に望むものはないだろう、
なんだか一度そう思ったら、俺はやる気をなくしていた。
桜ふりしきる、4月の朝だった。
「乗っていけよ」
俺は運転席の窓を半分ほど開け、ずいぶんと男くさくなってしまった背中に声をかけた。
山吹色の道着。
着ている物だけでずいぶん印象がちがうものだ。
学ランの時は、坊主頭と白い肌のコントラストを色っぽいとさえ思ったものだけど。
「先生」
素直におどろく顔があどけなくて、俺は少し安心していた。
俺もずいぶん年を食ったな。
「わざわざ出てきたんだ、乗ってけよ」
どう言えば彼が断れないかは、この2年でずいぶん勉強させてもらった。
彼は俺の思惑通り、しぶしぶ助手席に座った。彼と一緒に桜の花びらが舞い込む。
「おひさしぶりです」
金剛雲水はまるで卒業した元生徒会長のようにそう言った。
もちろん、それは間違いないのだけれども、俺達はそれだけではなかったから。
「金剛」
窓の外、ガラスを掠めては通りすぎて行く桜吹雪を眺めていた彼は、
ゆっくりとこちらを向いて答える。
「なんですか」
「東京タワーとエッフェル塔、どっちがでかいと思う」
俺は車を運転しているわけだから、基本的には前を向いているが、
一瞬だけ訝しげに眉をしかめたのが、視界に入った。
「東京タワー、ですか」
「正解」
卒業式のあの答辞で、まるで手品のように一瞬だけ彼が見せた、
"彼の世界"
巨大な弟の存在。
小さすぎる自分の存在。
だけど、
「東京タワーとエッフェル塔、もし二つ並んでいて、
君が真下に立ってたら、どっちが大きく見えると思う」
エッフェル塔の重量は、東京タワーの倍。
けれども、俺が言いたいのはそういう問題じゃない。
「さあ…、二つならんでいるのを見た事がありませんから」
ご明答。
本当に君は賢いな。
「どっちも信じられないくらいでかいだろうな」
「そうでしょうね」
何百メートル高いとか、
何万トン重いとか、
コンマ何秒速いとか、
100点と99点とか、
その差がどれだけ大きいものだとしても、
真下にいるニンゲンごときには、どっちもたいしてかわらない。
とにかく凄くでかい。
それだけだ。
そして君もまた、巨人なのだ。
「金剛」
「なんですか」
昨夜のつよい雨に耐え抜いた桜達が、今日力尽きて散っていく。
この長い長い桜並木にも、山吹の道着がちらほらと増えはじめた。
最後のドライブだ。
神龍寺生に気をつかう振りをして、すこしスピードを落としても構わないだろう。
「なんであの時、拒まなかった」
思い出話をするように、俺は聞いた。
あの、どんよりと湿っぽい梅雨入り前の、この黒いアウディでのはじまり。
あの日と同じ坊主頭の、あの日と同じ助手席で、ずいぶん背の伸びた彼が言う。
「先生が、初めてなんですよ」
彼はそう言って、"男"の顔で、すこし笑った。
照れを含んだ、精悍な笑顔。
「俺を苗字で呼んだのは」
思い出話をするように、彼は言った。
13の子供のくせに、妙に張りつめていたあの時のこと。
「先生に金剛って呼ばれるまで、俺は雲水だったんですよ」
もちろん生まれたころから苗字は金剛だったけれど、
それは俺だけのものではなかったと、彼は言った。
道にはちらほらだった神龍寺生が、ずいぶん増え、突然右の視界がひらけた。
神龍寺だ。
世にいういわゆる高校生と、ここの生徒を一緒くたにする者はいない。
高校と呼ぶにはあまりに閉鎖的で、禁欲的すぎる。
ゆったりと階段前に車をつけ、ゆっくりとブレーキを踏む。
俺がブレーキを踏むと同時に、彼はシートベルトに手をかけた。
手慣れた動作ではずすと、シートベルトは彼の山吹の道着の胸を、
名残惜しそうにするすると引きずられていった。
なんの躊躇もなく、彼は助手席のドアを開けた。
じゃっ
彼の真新しいローファーが、神龍寺の砂利を踏む。
鞄を肩にかけ、神龍寺の有名な階段を背負った彼が、
からっぽの助手席越しにこちらを見つめた。
なま暖かい風が吹き込む。
「俺も、」
言葉をくぎると、ほんの少し、あどけなく視線を彷徨わせた。
それは長いようで、一瞬のようで、彼の目が俺の目に再び戻ってきた時には、
迷いも、照れも、後悔さえ無い、
強い瞳で、その瞳で彼は最後にこう言った。
「俺も、弱いですから」
バタン!
言うだけ言って、彼は助手席のドアを勢いよく閉めた。閉めた反動で車が揺れるくらい強く。
閉まったドアの窓からは、彼がドアを離してすぐにきびすを返し、
階段に向かって歩きはじめる姿が切り取られて見えた。
助手席越しの窓からでは、神龍寺の階段はてっぺんどころか半分も見えない。
もちろん、見える必要などないのだけれど。
彼が唐突にドアを閉めたように、
俺も何事もなかったように車を発進させるべきだ。
階段前をぐるりとまわって、俺は神龍寺生とすれちがいながら、
ゆったりとした速度で神龍寺を去った。
黒い皮張りの助手席には、しろい桜の花びらが、
思い出のように数枚のこっていた。
砂利の上をあの黒い車が走り去る音がする。
胸の奥まで息を吸うと、桜の花びらまで吸ってしまいそうだ。
石段には雪のように積もり、一段一段踏むたびにふわりと舞った。
この長い階段の上には、大きな樹があるのかもしれない。
俺はまだ半分以上残った階段の頂上を見上げてみた。
石段の、明度の微妙に違うねずみ色。
散る桜のしろ。
神龍寺の山吹き。
ひどく違和感のある色彩だった。
赤いTシャツ。
金色の髪。
オレンジのサングラス。
「雲水」
その響きほど、自然なものを俺は知らなかった。
地鳴りのような足音の、
恐ろしい巨人は、
散る桜の下、
神龍寺の三門を背負って立っていた。
あの、強烈に甘い笑顔で。
「アメフトやんね?」
正直、彼がなんと言ったのか、その時俺は聞き取れなかった。
けれど、何と言っていようが関係ないんだ。
お前の存在がある限り、
おれの在り方は選べない。
「やるか」
世界はお前の庭だから。