動体視力には、自信がある。
その自慢の両目を、生まれてはじめて疑った。
おかしくなったんじゃないかって。だけどどこがどうおかしくなったんだろう。
乱視ってやつ?それとも狂ったのは目じゃなくて頭か?
「自分の番号も知らねーのかよ、メニューゼロだよメニューゼロ」
「メニュー…メニュー…ないぞそんなボタン」
「あるよ。貸してみ、原始人」
「ん?なにか…?」
目が合った。しゃべった。俺を見てるぞ、動いてる。
人間だ、どうみても本物の人間だ。幻覚とかCGとか夢とか乱視とかじゃない。
「いや、あの…」
俺は何を言ったらいいかわからず、この不思議きわまりない生き物から視線をずらして、
そのとなりに座った(どう見ても)俺のよく知ってる人間を見た。
それが合図になって、坊主頭の超不思議生物は、となりの金髪頭をひじでつっついた。
「おい、阿含」
あごん。
俺の心臓は、はねかえったように飛び上がった。
いや、分かってるんだ。どう見ても間違いようがない、この人は"あごん"だ。
キングダムのあるじ、そして渋谷のボス猿。
決して私立高校の入学式の会場にいる人間じゃない。
しかも"いつものあごんさん"がそっくりそのまま切り抜かれたようにここにいる。
Tシャツ、ジーパン、サングラス。まるでタイムスリップしてきたようだ。
別世界の住人は、両手に色違いの携帯電話を持って同時に操作していた。
片方は見慣れた"ボスのケータイ"。
もう片方は同じ型なのに、キズひとつない新品の携帯。
電話番号を登録しているんだろう。
両手の携帯で、同時に、しかも違う操作ができる奴なんか、俺は一人しか知らない。
めんどくさそうに液晶から目を離し、彼は俺を見上げた。
「あ…?」
なんだ、こいつ知ってるぞ。サングラス越しの目がそう言った。
わかってはいたけれど、やっぱりこれは"あごんさん"だ。
「知り合いか?」
それよりこの坊主頭…似てるよな、似てるというより"同じ"だ。顔と体が。
おろしたての神龍寺の道着がやけに似合う、年季のはいった坊主頭。
だけど、それでもピッタリ同じだ。
格闘ゲームの対戦で、同じキャラを選んだ時みたいなんだ。
衣装と顔つきと色合いが違う、同じキャラ。
「知り合いっつか、イッキュー」
キングダムの王様は動じる事なく、左手の自分の方の携帯で俺を"イッキュー"と指すと、
もう片方の新品の携帯を坊主頭の"2Pあごんさん"に返した。
(まもなく第72回神龍寺学院入学式をはじめます)
いかつい中年男のアナウンスが流れると、あごんさんはじゃあおれ行くわ、と立ち上がった。
山吹色の道着の新入生の中を、赤いTシャツの金髪頭がフラフラと移動する。
クラスは2つ隣の5組だったようだ。
「ここ、いいっすか」
あごんさんが立ち上がってあいた席をさして、坊主の"2Pあごんさん"に俺は聞いた。
ここに座らない手はないだろう。
神の子、そんな表現さえけっして大げさではない男と、おなじ姿をしたこの人間に、
俺はおおいに興味があった。
「ああ」
"2Pあごんさん"はあごんさんの座っていたパイプ椅子の上の紙切れをさっとよけた。
その紙切れをどうするんだろうと見ていると、
坊主のあごんさんは適当に折り曲げてポケットにつっこんだ。
「アメフト部なんスか」
隣に座って言うと、坊主さんは、少しきょとんとした顔をした。
すこし驚いた。あごんさんには無い表情だったから。
え、だって、と俺はポケットを指さす。
坊主さんは、ああ、と思い出したように再びポケットから紙切れを引っ張り出した。
よれよれのA4用紙を広げ、しばらく眺めてから坊主さんは言った。
「さっきアメフトって言ったのか…」
独り言のようだ。
彼はそう呟くと、困ったような顔を俺に向けて言った。
「ルールも知らないんだけどな」
そんな表情も見た事がなかった。
当たり前だけど、この人は"あごんさん"ではないんだな、と妙に納得した。
2人で新入生の席に座っていたんだから、双子なんだろう。
というか見ためからいって、双子以外のなにものでもないだろう。
「俺、アメフト部ッスよ」
本物のあごんさんには何度も言ったはずだけど、多分覚えてないだろうな。
俺たちは入学式が始まるまでと、終わったあとに少し話した。
"坊主さん"の名前は金剛雲水。
双子の弟は金剛阿含というらしい。"あごん"って本名だったのか…。
あそこでは苗字も本名も必要なかったから、得に気にした事はなかったけど。
俺は一休でいいすよ、と言うと、雲水さんはわかったとうなずいた。
ボスのお兄さんの第一印象はそうだな、「すごいフツーだな」だ。
同じ顔だから余計に普通に見える。それが逆に衝撃でもあるんだけれども。
「まあ、そんなもんだろう」
翌日の放課後、俺達2人…雲水さんと俺は一緒に居た。
阿含さんは初日から学校には来なかった。
それについて兄の雲水さんは得に驚きもせずそう言った。
昨日の入学式後には、阿含さんはすでに居なかったらしい。
「電話とかしてみたんスか?」
俺達は今グラウンドへ向かっている。アメフト部の見学の為だ。
アメフトのスポーツ推薦で神龍寺に来た俺と、これから初めてアメフトを見る雲水さんは、
先ほど3人分の入部届を提出してきた。
「電話?」
どこに、と雲水さんは怪訝な顔をした。
「いや、ケータイっすよ、阿含さんの」
今度は俺の顔が変になる。
だって昨日、仲良く番号の交換をしていたじゃないか。
「ああ、携帯か!」
雲水さんは新鮮な驚きを表情に出した。
その表情に今度は俺が驚いた。
携帯電話を持つのは初めてで、「携帯にかける」という概念がまったくなかったと、
雲水さんは真顔で感心していた。
「でも、まあ、電話するほどでもないだろ」
確かに。
この兄弟は2年半、つまり阿含さんが渋谷に現れてからずっと、音信不通だったのだ。
1日学校に来ないくらい何でもない、というより、
阿含さんが毎日学校へ来る事がそもそもありえない、か。
そしてなんと、アメフト部への入部は阿含さんから言い出した事らしい。
俺がアメフトをやってる事を覚えていたとは思えない。
たまたま、気まぐれ、そんな所だろう。
「先生、お久しぶりです」
神龍寺ナーガの老監督に、そう挨拶したのは俺ではなかった。
「おお、雲水か」
俺は、推薦入試の際、監督に会っている。
数ある推薦入学希望者のなかから俺を選んだのは他でもない、この仙洞田監督なのだ。
ところがこの2人の接点は一体なんだ?
「アメフト部に入部させていただきますので、どうぞよろしくお願します」
雲水さんが45度に頭を下げると、監督の白髪眉が、
見えない糸でつり上げられたようにひょこりと動いた。
「入部、とな」
監督は眉の奥から雲水さんの顔を見つめて、ふうん、と唸った。
「はい。阿含も一緒に」
今日は来ていないようですが、と雲水さんは続けた。
阿含さんの事も知っているのか。ということは家ぐるみの知り合い…そういえば、
阿含さんの家は大きなお寺だとキングダムのユータが言っていた気がする。
もしかすると神龍寺となにか関係があるのかもしれない。
「ほほ、阿含とか」
監督はぱん、とひとつ手を打って、こりゃ愉快とばかりにわらった。
そしてうんうん、と頷きながら、水分の抜けきった竹のような指でグラウンドをさした。
「どれ、一本」
示された先には、神龍寺ナーガの先輩達が40ヤード走のタイムを計っていた。
監督は部員の一人に声をかけると、雲水のタイムを計るように指示を出した。
雲水さんは突然のできごとに唖然としていたけれど、
どうやら監督が本気らしいという事がわかると、帯をゆるめて山吹の道着を脱いだ。
黒いTシャツと、制服の黒いズボン姿になった雲水さんは、
自分の靴がローファーである事に気付いた。
「ま、そのままでもよかろ」
監督はいいから早く行けと、手をひらひらと振った。
何事かとこっちを見ている部員達の待つスタートラインに、雲水さんは小走りで向かった。
「あれ」
俺は思わず呟いていた。
40ヤード走のスタートラインの奥、
神龍寺ナーガの部員のさらに奥に、金髪がひとり立っていた。
「ありゃ、阿含か?」
監督が目の上に手でひさしをつくって眩しそうにながめている。
神龍寺に入学して2日とたっていないが、
彼以外に金髪の生徒なんか一人も居ないことは確かだった。
それに阿含さんは、相変わらずのいつもの格好だったのだ。見間違うはずがない。
雲水さんも気付いたようだ、スタートラインにいる先輩達に一礼すると、
そのまま阿含さんの所へ駆け寄った。
手振りから察すると、雲水さんはお前もどうだ一緒に走るかと阿含さんを誘っているのだろう。
阿含さんはふたことみこと、雲水さんと言葉を交わすと、
こちらに背を向けて歩き出してしまった。来たと思ったらもう帰るらしい。
雲水さんは阿含さんの背を見送るでもなく、すぐにスタートラインへ戻ってきた。
ユニフォーム姿の先輩達の中で、Tシャツと制服の雲水さんは、
ぺこり、とお辞儀をすると、40ヤード向こうのスタートラインで、
クラウチングスタートの体勢になった。
俺のすぐそばのストップウォッチを持った部員が、片手を上げ、
スタートラインの雲水さんが見ている事を確認すると、上げた右腕を振り降ろした。
雲水さんのローファーがグラウンドを蹴った。
「5秒3」
ゴールラインで息を切らす雲水さんと目が合って、俺は思わず笑ってしまった。
よく知っているようで、それでいて全然知らない彼の顔と、彼のタイムに。
中学時代に帰宅部だったという割には、なかなかのタイムだと思う。いや、速い方だ。
ただ、"あのひと"と兄弟だと思うと…、
「すげーフツーッスね」
雲水さんが40ヤードを走る間に、阿含さんの姿はすでに見えなくなっていた。
思ったよりデカイな。
それが2年半ぶりに会った印象だった。
当たり前だ、俺の知ってる雲水はまだ喉仏なんかなかったし、声だって変ってなかった。
大きくなった雲水が、桜の降りしきる石段を登って、俺の横に立った時。
その目線は俺の高さとぴったりおなじだった。
それは妙に爽快で、ああ、俺の隣にはこいつがいたんだっけと、
双子の兄弟だったという過去が、現実に瞬間移動したような感覚だった。
2年半という月日は、過ぎてしまえばまばたきの間のようなもんだったのかもしれない。
つい昨日そう思ったばかりだった。
「いま来たのか!」
昨日着てたあのださい道着はどこへやったんだろう。
乾いたグラウンドの土で黒いローファーを白く曇らせながら、
Tシャツの雲水が走ってこっちへやって来る。
「なにしてんの」
授業ってのは、もうこの時間には終わってるもんなのか。
何年たっても俺が学校へ通うのは無理っぽいな。通う気も別にないけど。
「部活だ」
雲水は親指でうしろを指した。部活?なんのユニフォームだっけあれ。
このグラウンドの半分近くが、あまり馴染みのないスポーツのユニフォームを着てる。
「なんの部活」
「アメフト」
「…ああ、俺が言ったのか」
「そうだ」
この間。
他人に言わせると、俺は色んな事をすぐ忘れるらしい。
大抵の人間は、俺がすっとばしたことをすっとばされたのがさも不愉快だという顔をする。
ほんとうに忘れたのか。ぐじゃぐじゃとしつこく確認をする。
だけどいま、雲水はしなかった。
俺が自分で言った事を、俺が忘れて、忘れた俺に雲水が教えた。
こういうリズムだったのか。俺達は。
雲水はリラックスした様子で、黒いTシャツの肩をゆったりと回しながら言った。
「阿含、いっしょに走らないか」
一緒に、走る?
ふと、俺は雲水が一礼をした方向へ目をやった。
アメフトのユニフォームを着た生徒達が、短距離のタイムを計りながら、
こっちの様子をうかがっている。雲水を待ってるらしい。
「走るって」
俺は雲水に視線を戻した。
そして、はっとした。
「タイム取るんだ。40ヤード」
雲水は、立っていた。
さっきとかわらず俺の前に。
力んでいるわけでもなく、緊張しているでもなく、立っていた。
ただ、俺とおなじ高さにある瞳だけが、煌々とかがやいていた。
その瞳に炎のようにゆらめいているもの。
2年半前にはなかったいろ。
"挑戦"だ。
俺の本能のようなものが言った。
おい、阿含。
こいつ誰だ?
俺は思わずつばをのんだ。
そこに立っていたのはまぎれもない、
"オス"だった。
「一緒にタイム取ろう」
そう言って、雄の顔した雲水は、うすく白い歯をのぞかせた。
俺は、ああ、いいぜ、おれが言い出したんだしなと言って、
2人であのスタートラインに立つ。
なんだこいつらって顔した部員達に雲水はアタマを下げる。俺は目を合わさないだろう。
雲水はしゃがんでかわいた土に両手をつくと、腰を上げる。そしてまっすぐ前を見る。
俺は立ったまま、前に出した左膝に左の手のひらをおいて、そこに体重をかけて前を見る。
やがて俺達はスタートする。
40ヤードとやらが何メートルにあたるのかわからないが、スタートの合図をした奴は遠くない。
きっと50メートルより短いんだろう。
俺は、こういうきっちりとしたコースを走るのは久々だな、と思うだろう。
まだ日のあるうちに、学校なんかで、兄弟そろって走ってる。
俺はなにやってんだ、とも思うかもしれない。
俺は気をとられる、左耳に聞こえていた足音がどんどん小さくなっていく。
多分、全力の足音が。
俺は、全力か?
いや、多分、違うだろう。
だけどもう、足音が聞こえない。カチリ、刻印のようにストップウォッチが押される。
俺は、振り返らない。かわりに、あーだりーと言ってみる。
背中に一定のリズムの足音が近づいてきて、やがてブレーキがかかってとまる。
はあ、はあ。
俺はその音さえも背中で聞くんだ。
そうだろ?
まちがいないだろ?
なのに。
雲水の眼に、卑屈さや悔しさや躍起や過去が、まるでない。
ありえない。
それを消せた奴なんか、俺は見たことない。
けれど雲水の表情にあるのは、ただ。
(久々に、勝負しようじゃないか、どっちが速いか。)
背中に、腕に、首筋に、髪の生えてる頭皮に、眼球にまでも、
俺の表面という表面すべてに、鳥肌が立った。
寒いような、火照るような。
立ってるような、浮いてるような。
激しいような、停止しているような。
「阿含?」
前を向いてるような、後を向いてるような。
「阿含、帰るのか?」
動けないような、
逃げ出したいような。
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