決して前から近づいてはいけない。
目の前を通り過ぎるまで、なるべく背景にとけこむように、
何食わぬ顔でポケットに手を突っ込み、ガードレールに腰掛けて煙草を吸う。
無事こちらになんら気を払うことなく通りすぎたら、
まだ新しいレッドウィングブーツの裏側で煙草をもみ消して、腰を上げる。
相手は女だ、ゆっくり歩いたってすぐにその後ろ姿に追いつけるだろう。
そしてこう言う。
「すいません」
すいません、これ落としましたよ。
すいません、ブンカムラってどこですか。
そう続きそうな「すいません」を心がける。
振り向けば、こっちのもんだ。
俺はサングラスをはずして、すこし困ったように眉をよせて笑う。
「ごめんね、ちょっといい?」
ゴールデンウィークは楽でいい。
地方から遊びにくる無知でかわいい女がたくさんいる。
おかげで狩りの手間と時間は大幅に短縮され、
そのぶん俺の膨大な時間がだぶついた。
それから4時間も後、阿含は再び渋谷の空の下を歩いていた。時刻は夜の9時すぎ。
悠々と車道を渡り、オルガン坂を登り、少し歩く。
人通りがまばらになってくるとその店は姿をあらわす。
自然のかたちを活かしています、というような素朴な板に、流木のような取手。
木の切れ端のような形をした"closed"のプレートがぶらさがっている。
まるで我が家のように、阿含は戸を引いた。
「ウィース」
入口の顔の印象そのままの、天然木の床と天井。
つのの生えた動物の頭蓋骨が白い壁にかけられている。
阿含は店内に入り、後ろ手でドアを閉めた。
茶色い革張りのソファとちいさな木のテーブル、アルミの灰皿と赤いマルボロ。
その奥のカラフルな民族調のカーテンが開き、見慣れた墨入りスキンヘッドが顔を出した。
「おせーぞ」
阿含はここ何週間か、彫師見習いである佐藤祐太のバイト先の、
このタトゥーショップへ通っている。それはきまって閉店後の夜8時すぎ。
阿含はぎしぎしと木の床をきしませて、祐太の待つカーテンの向こうへ向かった。
向かいながら、着ていたパーカを脱いでソファに放り、
着古したTシャツをまくり上げるとそのたくましい背中には黒い線画の龍が現れた。
「今日は見学者がいまーす」
カーテンの向こうから祐太の声と、消毒液を吹きかけるしゅっしゅっという音だけが聞こえる。
阿含はTシャツもソファに投げると、ざっくりとした素材の間仕切りカーテンをよけて中へ入った。
黒い合皮の施術台の手前に、こちらに背を向けて祐太が準備を進めていた。
その向こう側、施術台をはさむよう椅子に腰掛けた、
見覚えのある少年がタトゥーのカタログを手にニカリと笑った。
「どーもー」
佐藤祐太は彫師用のキャスター付き丸椅子を引きよせて、
腰掛けるとべつに楽しくもなさそうに淡々と言った。
「はい、君の同級生で同じアメフト部の細川一休くんです」
阿含は答えずサングラスをはずして、一歩下がって間仕切りから上半身をそらし、
パーカとTシャツのあるソファへサングラスを投げた。
「阿含さん、チョーあばれたらしいっすね」
一休はカタログのファイルをマガジンラックへ戻すと、靴を脱いで施術台にのぼる阿含に言った。
阿含が入学式に登場する数時間前のキングダムでの出来事を、
一休はついさきほど祐太から聞いたばかりだった。
阿含と会ったのは入学式前の数分だけで、その後グラウンドで姿を見かけはしたが、
それからひと月近く阿含は学校へは現れなかった。
「超なんてもんじゃねーよ」
祐太はうつぶせになった阿含の裸の背の、まだ皮膚のない龍を注意深く確かめながら言った。
阿含はもう二度と渋谷へは帰らないだろう、あの桜降る神龍寺で祐太は思った。
けれど阿含は何事もなかったように3日とあけず渋谷へ現れた。
「さっき見てきたけど、シートで覆われてたよ」
ウエンディーズのカップのストローをくわえて一休が言った。
キングダムは今、白い工事用のビニールシートに覆われて、
善良な若者向けのショップへ生まれ変わろうとしている。
事態は警察沙汰だった。
家出少年からの飲食代くらいで渋谷でクラブがやっていけるほど、東京はのんきじゃない。
けれど行き場と金のない少年少女を使って、大金が稼げることは誰でも知っているし、
半分以上は関わってもいた。彼らだって例外ではない。
キングダムの子供達は、病院、警察、強制送還、そのどれかに振り分けられていった。
「阿含さん、学校こないんすか」
一休はがっしりとした骨を覆う、凶暴な筋肉に舞う未完成の龍を見た。
その龍が、目をさましたようにぴくりと動く。
「つか、アメフトやりましょうよ」
阿含さんがアメフトやったら、おもしろくなりそうだし。
むっつりと目を閉じてうつぶせる阿含に一休はたたみかける。
「さて、始めっか」
祐太は阿含の背中に左手をおくと、マシンの電源を入れた。
彼の指の下で息づく黒い線画の龍は、彼ひとりの技による彫り物だ。
閉店後の時間を利用して、数週間かけてここまで来た。
「静かにしろよ」
祐太はちらりと視線で一休に釘を刺した。
阿含の背中の龍が、心なしか引き締まる。
静かにしろなどと言われなくても、一休はその作業の間、声ひとつ出なかった。
阿含は眉間に深い皺をつくり、目を閉じたままじっとその苦痛に耐えていた。
やがて額には玉の汗がいくつも浮かび、流れ落ちた。
苦痛に歪む阿含の表情というものを初めて見た一休は、
見てはいけないものをみたような、強烈な後ろめたさに襲われていた。
ぴんと張りつめた時間が続き、やがてフェードアウトするマシンのうなりと共に、
祐太が短く言った。
「休憩」
ふうーっ。
阿含が息を吐く。まるで作業がはじまったときから、
ずっと呼吸を止めていたのではないかと思うほどに。長く。
一休の身体も解放されたように力が抜けた。
祐太が席を立ち、アルミの灰皿とマルボロを持って戻って来る。
施術室には"NO SOMORKING"という小さなプラスチックのプレートが貼ってあるが、
オーナーはすでに帰宅している。
祐太はくわえた煙草に火をつけると、吸いたいなら吸えばいいといった風に、
阿含のうつぶせた合皮のシートにマルボロの箱を置いた。
「いったそ〜」
一休は赤い内出血にふちどられた、生まれたばかりの龍の皮膚をのぞきこむ。
阿含はしばらくぐったりと施術台に身体を預けたままだったが、
やがてのっそりと身体を起こした。
「痛くねーよ」
疲れた顔色と乾ききらない油汗が、強がりだと語っていた。
阿含はシートにあぐらをかいて、マルボロをくわえニコチンの煙を一息すいこむと、
煙を吐きながらぼそりと言った。
「おもしろくねーよ」
そんなもん、阿含は独り言のように言って、鼻筋を流れる汗もそのままに、
ひたすらに肺を煙で満たす事に専念しているようだった。
この世界に、自分が夢中になるようなものは何一つ無い。
アメフトだろうがサッカーだろうが、そんなもん、俺の暇つぶしには役不足だ。
一休には阿含がそう言っているように思えた。天才の厭世観。
「やったこと、あんすか」
汗のにじんだ阿含の背中に向かったその声は、いくらか挑発的だった。
元来、彼は気が強いのだ。
「ねーけど」
一緒だろ、なんでも。
阿含の背中の龍は挑発にはのらず、ただけだるくそう言った。
「もし阿含さんが、テニスとかF1とかボクシングで世界一になれても、アメフトでなるのは」
一休はそこまで一気に言った。
背を向けた阿含に向かって、いや、背に這う未完の龍に向かって。
祐太は何も言わず2人を眺め、マルボロを吸い、缶コーヒーをすすった。
「絶っっ対に、無理っす」
大きく息を吸い込んでから、少し顎をあげて、一休は力強く言い切った。
阿含は無言で、けれどアルミの灰皿がひっくり返るほどの勢いで煙草をもみ消した。
「アメフトはそういうスポーツっす」
一休は尚もつよく言った。
浅はかな喧嘩っ早さではないが、自負と誇りが傷つけられそうな時、
彼はその怒りをかくす事はしない。
そして相手が誰であろうと、平等に怒るのだ。
ひゅう。祐太がはやすように口笛を吹く。
こいつ、どうしてやろうか。なんだってつっかかってくる。
ここまであからさまに敵対されると、阿含は頭に血が上るのを止められない。
けれどもいつもは考える前に出す手を、術後の疲労のせいか出す気になれなかった。
「それとこれ」
一休はだしぬけにそう言い、床に置いておいた自分のショルダーバッグから、
書店のものらしい青いビニール袋を取り出した。
袋から中の本を取りだし、阿含の座った黒いシートにおく。
(アメリカンフットボール入門)
「もういらないからって、雲水さんが」
阿含はそれを見もしなかったが、かわりに祐太が興味深げに手を伸ばした。
「もういらねえの?」
その入門書は、雲水が何度も何度もくりかえしページをめくったのだろう。
表紙のインクはすりへり、ページとページのすきまにはふんわりと空気が入るほど、
くたくたになっていた。
「もういらないでしょ」
なかばあきれたように、一休は雲水の様子を軽く説明した。
入部して以来、なにかに憑かれたようにアメフトに没頭していること。
その成果あって元帰宅部とは思えないような上達ぶりだということ。
すでにチームにも馴染んで、近い将来フィールドに出る日も遠くはなさそうだという事。
それは名門神龍寺ナーガにとってきわめて異例だという事。
「へえ〜」
祐太は懐かしい同級生の活躍を、素直によろこんだ。
ただ、彼の中のその同級生はまだ12、3の少年姿のままであったのだが。
家が厳しくて、なかなか一緒に遊べなかった坊主頭の双子の兄弟。
ひとりはここに。もうひとりの持ち物がここに。
裕太はそのくたびれた入門書をめくった。
「おっ」
いたるところにオレンジとグリーンの蛍光ペンでアンダーラインが引かれ、
ボールペンでところせましと注釈が入っている。
「みろよ阿含、ん?」
祐太は入門書の間に、折りたたまれた紙きれが挟まっている事に気付いた。
施術台に入門書を置いて、その几帳面にたたまれたルーズリーフを広げしばらく眺めると、
祐太は無言で阿含に押しつけた。
依然むっとしつづけていた阿含だが、思わず祐太の差し出した紙切れを受け取ってしまった。
折り目のついたルーズリーフには、注釈の文字と同じ、
一字一字ゆっくりと丁寧に書いたであろう几帳面な文字で、表のようなものが書かれている。
線は当然のように定規でひかれ、日付と種目、タイム、負荷などの項目にわかれており、
ベンチプレス、40ヤード走をはじめ、それぞれの記録が毎日必ず計測されている。
4月のはじめから昨日までひと月近く一日ももらさず。
素人目にも、雲水が日に日に筋肉をつけ、タイムを縮め、
アメフトというスポーツに染まっていく様子が実感としてわかった。
「で、雲水は今日どうしてんの」
連れてくればよかったのに、祐太はあたらしいマルボロに火をつけて言った。
「それ、やってんでしょ」
一休はくい、と顎を上げて阿含のもつ紙切れを指した。
土日も祝日も一日とあけず綴られた数字が、雲水の行動を物語っていた。
これは。
阿含はひとめ見てわかっていた。
これは雲水が俺のために記録したんだ。いや、正確には俺に見せる為に。
すこしずつだが確実にあがっていくタイム。力をつけていく雲水。
(阿含、追い越すぞ)
雲水の声がきこえた気がした。あの眼差しが、みている気がした。
瞬間。
阿含の目に激しい音をたてて炎がともったのを、
まだ2人は気づいてはいなかった。
「履け」
阿含のレッドウィングの足下に、一足のアメフトシューズがどさりという音をたてて放られた。
その2つの靴は別々の方向へごろりと半回転して、情けなくグラウンドにとどまった。
若干の沈黙の後、阿含は大儀そうに立ったままブーツの紐をほどき、
アメフトシューズという機能だけが取り柄の靴に足を突っ込んだ。
当然のようにサイズはぴったりだった。
「かわっかよ、こんなもん」
この納得のいかないデザインの靴にいかほどの効果があるのかと、阿含は疑った。
それでも大人しく足を通したのは、雲水の足にも同じシューズが履かれていたからだ。
「じゃあすいません、お願いします」
雲水は阿含のぼやきには構わず、40ヤード向こうで待つ先輩部員に張りのある声でそう言った。
よく晴れた連休明けの朝だった。
素っ気なくふるまいつつも、雲水の胸は高鳴りを抑えられなかった。
阿含が約ひと月ぶりに姿をあらわし、そして彼の顔を見て、
自分のささやかな思惑が功を奏したのだとすぐに気づいた。
スタートラインに立ち、雲水は隣に並んだ弟の横顔を盗み見た。
どくんと、心臓が大きく膨張する。
仕方がないから、雲水がやるから、本当はやりたくないけど。
幼い頃、阿含の横顔にはりついていたそんな表情は、
スタート直前のその一瞬、消えていた。
まっすぐに、ゴールラインを直視する眼差しに、
体中の血が発火したように熱くなる。
これは弟か?
いや違う、これは一人の男だ。
しかも、そう簡単には巡り会えないような、奇跡のような人間だ。
ストップウォッチ係が右手をあげる。
用意
ああ、あんなに遠い。
身体に馴染んだはずの40ヤードのゴールラインが、
遥か天竺への道のりのように遠く感じる。舌が乾いて喉にはりつく。
ストップウォッチ係の手が弧をえがいて振り下ろされるその様が、
なぜかスローモーションのように、やけに鮮やかにみえた。
その瞬間、耳元で獣のような息づかいがきこえた気がした。
神経が興奮しているのか、感覚がものすごい鋭さで事象を察知していく。
筋肉の一本一本の収縮を、靴裏と堅い地面の間で砂のひと粒ひと粒が擦れあうのを、鮮明に感じる。
(負ける)
違う、混乱するな。
俺は勝とうなんて思ってはいない。
ただ、すべてを出し切りたいだけだ。
そうだろう。
なのになぜ、ゴールラインに引き寄せられて行くその背中に。
風をきる、伸びた金のえりあしに。
こんなにも、絶望するんだ。
身体が重い。話にならない。
2人でスタートラインを超えた以上、ストップウォッチは2度押される。
阿含は、二度目の音を背中で聴いた。
雲水の40ヤード自己新記録の、
うまれた音を。
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