寺が部活動を禁じていたわけではなかった。
現に彼はいま、中学時代を取り戻すかのように部活動に熱中している。
アメリカンフットボールといったか、その競技はよほどに苛烈なものらしい。
ひ弱というわけではなかったが、今どきの少年らしい痩身は、
まるで本来はそうあるべきだったのだというように、日に日に筋肉を纏っていった。
「栄達さん、ただいま」
門をくぐって帰って来るたび、ひとまわり逞しくなってくるようだ。
肌は灼け、どちらかといえば優等生だった面立ちは、あっという間にスポーツマンに変身した。
悪くない。私は親…ではないが、親馬鹿だ。
「おかえり」
神龍寺に入学して以来、陽のあるうちには帰ってこなかったが、陽の方が延びたのだろう。
雲水はかすかな西日を背負っていた。
はっとした。
聞いた事を疑ったわけではないが、いまひとつ実感というものが沸かなかった。
雲水の向こうにその姿を認めるまでは。
「阿含」
なぜか、確認するように呟いてしまった。
彼がここへ帰って来るのは中学一年の秋以来だから、2年半ぶりということになるか。
雲水は、私に阿含の姿を見せようとしてか、阿含に私の姿を見せようとしてか、
阿含を振り返るように身体の向きを変えた。
白か?黄か?
阿含のぼさぼさとした水分の少ない髪は、弱い西日を完全に透過している。
「おかえり」
お帰り、という実感のないまま、私はそう言っていた。
嬉しいとか、良かったとか、安堵だとか、はたまた怒りだとか。
本当はまだ、そんなありふれた感情でさえも浮かばず、
ただただ、家出息子の突然の帰宅に面食らっていた。
阿含は、こういうと年寄りくさいが、若者っぽい虫の複眼のようなサングラスの眼で、
ちらりと私の鼻か口あたりを見やったようだったが、すぐにふいと顔を逸らした。
その仕草は生意気で礼儀知らずにも取れるが、
少なくともその人生を生まれた頃から16年間見ていた私にとっては、
気難しく甘ったれの阿含の面影と重なった。
「栄達さん、布団出してもらえますか」
そんな阿含を見た雲水の(困ったな)という表情も、彼の定番の表情だった。
けれどもその定番の表情は、隣に阿含がいてこそ成立するものだったのだ。
ああ出しとくよと返事をしてやると、雲水はお願いしますと言って阿含をともない、
私の前を通りすぎて玄関へ向かった。
おとなしく雲水についていく阿含の背中や肩は、
服の上からでも2年半何をして過ごしていたのだろうと思うくらいに逞しい。
雲水がもし高校でアメフトを始めなかったら、雲水の方がちいさく見えたかもしれない。
しかし今は、こうなる事が当然だったかのように、
彼らの背格好は、本当によく似ていた。
俺はこいつにこんなに気を使っていただろうか。
「どのくらいかかる、渋谷まで」
40ヤード走を終え、私服にアメフトシューズという中途半端な服装の阿含は、
仙洞田監督のはからいでそのまま練習に参加した。
最初は何者だと訝しんでいたアメフト部員達も、
彼がシューズを脱ぐころになると、明日も来るかと詰め寄っていた。
「は?」
阿含は部室のベンチに座って、履いてきたブーツの靴紐を締め上げながら、顔を上げた。
慣れない環境というやつだろうか、顔にはすこし疲労の色がみえる。
「渋谷から来てるんだろ」
一休の話では、阿含に決まった住み家は無いだろうとの事だ。
しいて言えば"渋谷に住んでる"という表現が一番正しいと、
阿含の2年半を知る彼は言っていた。
「さあ」
阿含は興味がないから知らないといった風情で、はぐらかした。
髪が金になり、声が変り、ずいぶんと立派な身体になってはいるが、
みえみえで、小ずるいところはあきれるくらい変ってない。
「うちは20分だぞ」
気付かない振りで優しい声を出す俺も、変ってない、か。
俺は弟を家に連れて帰るのに、なぜこんなに遠回しに気を使っているのだろう。
べつに帰って来てもらわなくたって構わないのだ。
今までそうして、なにも支障などなかったのだから。
「近けーな」
そうだったっけ、そんな近くにあったっけ、と、
意外なほど素直な驚きの表情で、阿含は手を止めた。
それからすこしの間、阿含は黙々とブーツの靴紐を結い上げ、
俺も黙って汗を拭き道着に着替えた。
部員がお疲れさまでしたと部室を出て行くたびに、お疲れっしたと返事をかえす。
当然のように私服の阿含の準備は、ユニフォームを着ていた俺より早く、
ブーツを履いた阿含はベンチから腰を上げずに、ぼんやりと部室を眺めていた。
どうやら家へ、金剛寺へ帰る事にしたらしい。
気のない振りをしているが、立ち上がらないのは俺を待っているからだろう。
「行くか」
着替え終えた俺はそのつもりで声をかけると、
阿含はよっこらせ、と言わんばかりに腰を上げた。
そのいかにもああ面倒くせえというポーズは、
こいつも俺に対して少なからず、気を張っている証拠なのかもしれない。
俺達はあまり喋ったことのないクラスメートとの会話のような、
ぎこちない雰囲気のまま、約20分の道のりをこなした。
ひとつ、わかった事がある。
俺の隣に阿含がいると、すれちがう人の目線というか注目度が格段にあがるのだ。
最初は阿含の派手なサングラスや髪の色のせいかと思っていたが、
やがてそうではないと気付いた。
俺達はあたりまえの事ながら、とてもよく似ているのだ。
遺伝子レベルでは似ているのではなく"同じ"なのだから、間違いないだろう。
昔はなんとも思わなかったが、2年半離れて暮らしてみると、
やはり双子というのは不思議なものなのだと、俺は他人事のように思った。
「なんか無理ある」
6畳間に二つ並んで敷かれた布団を見て、阿含がそうつぶやいた。
確かに。
布団を敷いた俺が納得してしまった。
阿含が出て行った中学のころと、部屋はたいして変わっていない。
高校に入って、筋トレ用の姿見とダンベルが増えはしたが、たいした量ではない。
それでも本棚や机があるのだから、二組の布団は6畳間にぎっちぎちに敷かざるをえなかった。
昔はこうして寝ていたはずだが、俺はこの部屋で一人で寝ることに慣れてきっていたし、
こんなに至近距離に布団を並べて眠るのは、弟とはいえ窮屈というか落ち着かないというか。
俺は阿含という別の生物を迎えてはじめて、自分のテリトリーというものをはっきりと感じた。
「まあ仕方ない」
ほかに部屋がないこともない。
ただ栄達さんは当然のようにこの部屋に布団を運び込んでいたし、
今から移動するのも少々面倒くさい。
なんだか近すぎて気まずいから、いちど敷いた布団を別の部屋に敷き直す、
というのもまた、気まずい。幸い、明日も早いのだ。
腹に入ればみんないっしょくた、ではないが眠ってしまえば何処でも一緒ではないか。
「消すぞ」
俺は問答無用で蛍光灯からたれ下がる紐に手をのばした。
「えー」
阿含は信じられないというように大げさな抗議の声を上げた。
俺の貸したハーフパンツのポケットから、携帯電話を出してディスプレイを確認する。
抗議の対象は布団のレイアウトではなく、就寝時間についてだったらしい。
「俺はもう寝る」
起床時間は6時なのだから、今寝ても睡眠時間は約7時間。
決して長くはないし、しかも俺は今、朝夕の練習の肉体疲労で倒れ込みそうなほど眠たい。
それにしても今更ながら、こいつは今までどんな生活をしていたんだろう。
渋谷に棲み、夜眠らず、筋肉を纏う。
「お前も6時に起きろ」
俺はカチカチカチと蛍光灯の紐を3度引き、捨て台詞のようにそう言った。
俺には俺の習慣と生活がある。
合わせてもらう必要はないが、おとなしく邪魔されてやる気もない。
部屋には窓がひとつあり、俺が物心ついたときにはすでに、
このやけに西洋風なカーテンがかかっていた。
長年の使用で生地はすりへり、満月の夜などは電気を消しても随分とあかるい。
今夜は月がでていないようだ。
真っ暗闇ではないが、本棚や机や阿含の姿は、
濃いグレーと、もっと濃いグレーの濃淡でしかない。
阿含は仕方なく布団に腰をおろしたものの、どうしたものかと考えているようだ。
居間に行ってテレビでもつけようか、いやしかし坊主どもがうるさく言うかもしれない。
それとも着替えて出て行ってしまおうか、それも少し面倒くさいな…そんな所だろうか。
やがて薄い闇の中に、ぽつりと長方形の青白い光が浮かんだ。
眩しいというほどでもなかったが、
俺は身体を反転させて携帯電話をいじる阿含に背を向けた。
「おやすみ」
俺がそう言うと、うん?ああ。とぎこちない返事が返って来た。
起きたらこいつは居ないかもな、と予感しながら、
俺の意識は眠気のなかに急激に沈んでいった。
まぶたの裏の闇が、白、黒、白、黒とけたたましく切り替わるのを感じ、
俺はぼんやりと覚醒した。
夢か。
薄く開けたまぶたの向こうは、相変わらずの黒ともいえないモノトーンの世界だった。
まだ、暗い。起きるのには早いだろう。
俺のまぶたは眠気でなかば強制的に閉じる。
…ああ、雨が降っている。雨音がきこえる。
明日まで続くようなら、グラウンドは使えない、
そんな思考もだんだんと薄まっていくその過程で、
突如、この古びた木造の壁と、磨りガラスの窓がはじけるように震え、
間延びした闇が緊張でひきつるほど、大きな雷鳴が轟いた。
いや、それが雷鳴だと気付くまですこし時間がかかった。それほどに強烈な音だった。
普段、その存在を疑うことさえない家という存在が、
一瞬でこなごなに潰れてしまうような衝撃音。同時に自分の矮小。
まどろんでいた俺の心臓は跳ね上がった。ずいぶんと近い。
俺が上半身を起こしたところで、雷が落ちないわけではないが、
俺はむくりと起き上がっていた。雨粒が力強く窓を叩く。
ふと、何かの気配に気付く。
不覚にも、驚いてしまった。そうか、阿含がいたのか。
阿含は俺と同じように俺に背をむけた格好で、暑いのだろう、掛け布団をはだけ、
灰色の肩のラインをゆっくりと上下させている。眠っているようだ。
雨のせいだろうか、確かに蒸し暑い。
しっかり布団をかけて寝ていた俺のTシャツは、ずいぶんと湿っている。
水でも飲むか、立ち上がろうと腰を上げた瞬間、
稲光が信じられないくらいの光量で瞬いた。
安物のカーテンや黄ばんだ磨りガラスなどではとうてい対抗できない、強烈な光。
合図なしの、天のストロボ。
俺はその一瞬の光のさなかに、阿含の背中にとり憑く何かを見た。
まくれ上がったTシャツのすそから覗く、黒い尾のようなものだった。
俺は左手をついてかがみ込み、むきだしになった阿含の腰を凝視した。
わからない。
稲光が消え、暗いせいだろうか、それとも気のせいだったのだろうか。
何かあるといえばぼんやりと黒いような気がするが、影といえば影かもしれない。
やがてドン、という衝撃音に続いてばりばりと張り裂けるような雷鳴が、
部屋を、寺を、この当たり一帯の街を支配した。
その常軌を逸しているといっていい程大きな音の中で、
ほんの一瞬だけ、俺は俺を見失った。
何か強い力につき動かされるように、指先で黒い尾の見えた肌に触れていた。
正直にいえば、大音量に乗じた感がある。俺は衝動的に触れたのだ。
それは得にざらざらしているとか、つるつるしているというわけではなく、
ただ汗ばんでいた。
雷はいまだ寺の頭上に居座っている。
その存在を示すように、巨大ストロボの稲光がとても静かに光った。
目が。俺を見ていた。
横たわる身体のまとう俺の衣服が、そうさせたのかもしれない。
俺の触れてる背中が、俺の背中に見えた。
肩の筋肉も、鼻のかたちも、なにもかもが、俺だった。
布団をはだけて横になり、こちらを見る男は俺だった。
俺のとなりに、俺が寝ていた。
「なに」
横になった方の俺が発した、寝ぼけたような声で、
幻覚とも魔法ともいえない何かがパチンと醒めた。
途端、俺は狼狽して声が出ず、身体は膠着したように動かなかった。
一体なんだよというように、弟が顔を向こうに戻す。
遅れた雷鳴が瓦を叩く。その音はさっきよりも少し、力を失ったように思える。
「これ」
言ってみて、この声は誰の声だと疑うほどに、俺の声は妙だった。
人差し指と中指の腹で、黒い霧のような尾をなぞる。
俺の指も、彼の腰も、黒い尾も、汗が滲んでいた。
「痛く、ないのか」
できるだけ常識的な事を、と瞬時に頭をかすめて、出た言葉がこれだった。
なぜ、常識を装う。俺はまたすこし動揺する。
間が、あった。
相変わらず闇はどっちつかずのグレーで、雷は精彩を欠いた。
なんど光ったのか、時間にしてどのくらいの間だったのか、見当がつかない。
「…痛てーよ」
やがて曖昧な闇をかきわけ、かすれた声がとどいた。
「痛てえに決まってんじゃん」
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