雨だ。
何千メートルという上空から、鳥や、飛行機や、木の枝をすりぬけ、落下し、
薄汚れた磨りガラスに打ち付けられ、はじけ、その生涯を終えた。
こんな時間に眠れるわけがねえ。
携帯の液晶を見るのも、もううんざりだ。
俺はずっと布団にうずくまって、穏やかな寝息に苛立ちながら、俺を連れ出す何かを待ってた。
それなのに、雨と来たか。
ここは他人の家だ。布団も、畳も、いやな臭いがする。
線香、老人、生活。この辛気くさい家のなかで俺は異物だ。
あー煙草が吸いたい。眠らなくていいどこかへ行きたい。思考がとめどない。
眠れない
眠れない
眠れない
眠らない生き物になりたい
嘘だ、それはあまりに長すぎる
眠りたい
眠れない
仰向けに寝ても、胸や顔が出てしまうくらいの浅さの、眠りともいえないような夢をみた。
「阿含」
呼ばれて振り返ると、見た事もない外人が立っていた。
くせのある金髪が貧乏くさい、痩せた白人の女だ。
歳は若く目はうすいグレーで、女は何の違和感もない日本語で親しげに俺に話かけた。
俺はどういうわけだか、そいつを姉だと思っていて、そいつも俺を弟としてあつかっていた。
日本語をしゃべる白人の姉か。夢の中の出来事としてはイマイチ陳腐。B級だ。
けれど金髪女、いや姉貴と俺は相当仲がいいらしい。
俺は夢中でしゃべり、姉貴は声をあげて笑った。
音を認識する前に、体が勝手に目覚めた。
雷か。
強い雨音は、雷鳴の一瞬のあいだ完全に姿を消し、やがて当たり前のように戻っている。
俺はどのくらい眠ったんだろう、2分とか5分くらいにしか思えないが、
もしかしたら一時間くらいは経っているのかもしれない。
雲水が、起きている。
ボロくさい瓦を連打する雨音にくらべれば、
背中でしずかに起き上がる物音なんか無いにひとしい。
けれど人間が動くと、例えば目を開けただけでも、まつげやまぶたに押し上げられて、
この部屋にぎゅうぎゅうに詰まってる闇の粒子がギシリと動く。
体を起こせば、なお大きく流動する。
その濃厚な闇も稲光のつよすぎる光にかかれば、一瞬で滅菌されてしまう。
俺の頭は幸いまだまどろんでいて、このまますぐに意識が落ちれば、
あのガイジンの姉貴にまた会えるかもしれないなんて思ってた。
…また闇が動いた。
今度はうごきが明確な意思をもってる。俺は雲水に背をむけているが、気配でわかる。
何をしてるんだ?静かだ、息を詰めているように感じる。
ドン、最初の雷鳴がおおきく鼓を打った瞬間。
音が、このチンケな町に覆いかぶさる巨大な暗雲から一直線に俺に落ちた。
落ちた、と感じた。息もとまるような瞬間だった。
雷が人間に落ちると、血液が沸騰するらしい。まさにそんな錯覚をした。
俺の身体になにが起きている?
首をひねるようにして、この部屋で唯一の人間の方を向いた。
はかったような稲光が、彼の容貌を俺にさらけだして見せた。
「なに」
俺はまだ状況が掴めていないまま、一声を発した。
わかった事は、あきらかに雲水が暗闇の中で俺をみていたことだ。
稲光が光る前から、俺を見ていた。その表情は硬い。
「これ」
雲水のその声はやけに現実的で、俺の中で「姉」の姿が霧散していくのがわかった。
麻痺しきっていた皮膚が、背中に人間の感覚があることをやっと知らせて来た。
手、か?雲水の?
それ以外に人間がいないのだからそれしか考えられないが、にわかには信じられない。
雲水という、かつて兄だった人間がなぜ俺の肌に触れるのかわからない。
どうして今、俺たちの距離がそんなに縮まっているのかわからない。
「痛く、ないのか」
背中の中途半端な墨を、自分自身で見る事はまずない。
施術の数十分間は完璧に俺を支配してはいるが、あとは大人しいもんだ。
気配すら感じない。忘れてしまうほどに。
指の動きに教えられて、ああ、そこにあるのかと認識するくらいのものだ。
「…痛てーよ」
俺はありったけの不機嫌をこめていった。お前のせいで起こされたといわんばかりの。
うまいぐあいに声がかすれた。
「痛てえに決まってんじゃん」
間違いなく我が身に起こってる、または起こってしまった事を、
なかったことにする事は可能だろうか。またはもみ消すことは。
念を押すように繰り返したのは"なかったことに"しようと足掻いただけにすぎない。
ほんの一瞬でもいいから声という音を出してまぎらわしたかった。打ち消したかった。
背中にふれる指先が、俺におよぼした影響を。
墨を入れたいと言い出したとき、奴はいつもと同じ顔をしていた。
ただ、お前がやればタダなんだろう、という台詞がどこか言い訳じみていて、
少しひっかかったのを覚えている。
俺は寝床である店の休憩室のソファの上で毛布にくるまり、暴れる携帯電話のおかげで目をさました。
…しまった。電源を切るのを忘れてた。
俺の友人はだいたいが無神経で、夜中に電話などかけて、
明日の仕事に響いたら申し訳ないなどと思う人間は、ただのひとりもいない。
朝までぐっすり眠りたいのであれば、自己防衛、すなわち電源を切るしかないのだ。
俺は携帯に手をのばした。一応誰からの着信かだけ確認して放っておこう、
明日起きたらかけ直せばいい。どうせたいした用じゃない。
バイブで震える携帯を充電器から引っこ抜き、
サブディスプレイの眩しさに目を細めて覗き込むと、そこには意外な文字が浮き上がっていた。
公衆電話
俺は反射的に通話ボタンを押していた。
小学生でさえ携帯電話をもっているこの時代で、公衆電話、という文字にはそういう力がある。
耳に当てるとかすかなブザーのような音が聞こえた。
「もしもし」
俺は言いながら、枕元にはずしてあったデジタルの腕時計を確認する。午前4時27分。
「……」
夜中の、それも公衆電話からの沈黙。気分がいいはずはない。
受話器のむこうからはざらついた音だけが聞こえる。
その音を聞いて、俺は店の外でも雨が降っていることに気付いた。
陰鬱とした沈黙と雨音は、意外な声色で破壊された。
「俺だよ、おれおれー」
そのもはや死語となった挨拶を、笑いもせず言う姿が容易に目に浮かんだ。
公衆電話だからだろうか、声は多少遠くかんじる。
「なんだよ」
俺はすこし落胆したような声で言った。
携帯を落としでもしたか、公衆電話からの着信は阿含だった。
いまどき、携帯を落とすと自分の彼女にさえ電話できない。
彼女の電話番号を覚えてるのは俺じゃなく、携帯電話のメモリーだからだ。
こいつなら、そのメモリがまるごと頭に入っていてもおかしくないと、俺は勝手に納得した。
「電車動いてねーんだよ、迎えにきて」
俺は奴隷だ。
それはこんなささいな瞬間に自覚する。
「…どこだよ」
もちろん、断ることだって可能だ。
確かにいちど痛い目にあわされてはいるが、恐怖で支配されているというわけでもない。
俺は多分、この天才児に心酔してるのだ。畏敬といってもいい。
もったいつけてはいるが、じつのところ嬉々として言いなりになっている。
「金剛寺」
公衆電話のむこうの主人はぶっきらぼうにそう言った。
金剛寺は、俺たちの実家の最寄り駅の名前で、
いわずもがな名前の由来は彼の生家である大きな寺の名だ。
実家に帰ったのか。
それならばなぜこんな夜中とも早朝ともいえない時間に、わざわざ家を出たりしたのか。
とはいえ理由など聞いたところでしおらしく話す人間ではないし、俺も興味はない。
「そこで待った方が早い」
俺はたずねるかわりに、起こしていた上半身をふたたびソファに預けてそう言った。
どうやらこの土砂降りの中、バイクを出さなくてもすみそうだ。
「あと1時間で始発が来る」
今から渋谷を出た所で、電車に先をこされる上に、バイクじゃ2人ともびしょ濡れだ。
おとなしく無人駅の待合室で始発を待ったほうがお互い幸せというものだろう。
阿含も俺の意見に異論を唱えはしなかった。
佐藤祐太が公衆電話からの着信で目覚める、一時間ほど前。
金剛阿含は、兄から借りた綿の白いTシャツとジャージのハーフパンツという、
普段の彼であったら絶対に出歩かないであろう格好で、雨にうたれていた。
彼が逃げ出すように実家をころがり出て、さほど時間はたってはいなかったが、
ひどい土砂降りだったおかげで彼の身体はすみずみまで鳥肌が立ち、冷えきっていた。
幸いそこは田舎で、それも午前4時かそこらの雷雨。
彼の姿が人に目撃される確率はほぼゼロだった。
月のない暗闇と強い雨にかすむ街灯。
金に抜いた髪をみすぼらしく濡らしながら、彼はときどき野良犬のように吠えた。
それは言葉のかたちをなさない、ただの叫びであったけれど、
もし言葉になるのなら、(なぜだ)きっとそんな意味の言葉になっていただろう。
彼は豪雨のなかで、つぎつぎと雨粒の激突する自らの手を眺めた。手のひら、そして手の甲。
間接の造形が、爪の色が、全体の大きさが、中に流れる血が。
同じだ。
理屈ではなく実感として、彼は思った。
じっと見ているとそれは自分の手ではなく、彼の手に見えてくるのだ。
俺と同じ手が彼にもはえている。
その俺と同じ指が、彼と同じ俺の背中に触れ、
俺の身体は俺になんの許可もとらず、唐突に勃起していた。
意思も、好みも、ましてや常識もあったものではない。
問答無用の生理反応。それは事故や災害にちかいものだった。
双子の兄に触れられた彼の身体は、彼を無視して勝手に欲情したのだ。
阿含の身体は、阿含をまるで置いてけぼりにした。
そういう苦悩はたびたび彼を襲ってはいたが、こればかりはあんまりだと彼は思った。
あまりに悪趣味だと、なにかを呪った。
その人間は、女でもなく、他人ですらない。
阿含はその雨に濡れた指で、背中の墨にそっと触れてみた。
雨を吸ったTシャツの中に指を入れてなぞる。
見えないのだから、墨をほどこした部分に正確に触れているかどうかはわからないが、
とにかく兄が触れたあたりを探った。
そしてこの行為がおそろしく自虐的であったことを、彼は瞬時に悟った。
完璧な再現によって、熱が生々しくよみがえり吐いた息は火照っていた。
その熱さに気付き、このしぐさは自慰行為なのだと知った。
とっさに手をひっこめ、手を再び凝視した。
ここにも、墨を入れなくてはならない。
自分の意志や希望でそう思ったのではない。
それが自分の宿命であるかのように、阿含は両手を見つめた。
入れたいのではない、入れなくてはならないのだ。
何色でもいい。どんな形でもいい。
とにかくこの、彼と同じものを彼と違うものにしなくてはならない。
背中の墨も早く完成させなくてはならない。いっそ全身を墨色に染めたい。
出来なんかどうだっていい。今すぐ、とにかく早く。
彼の思考はあぶないほどに加速し、彫師のもとへ一秒でも早く駆けつけなければならなくなった。
行き場のない嘆きよりも、多少狂っているにしろ向かうべき目標を得た彼は、
神を見つけたように、土砂降りの夜を夢中で駆けた。
ところが午前4時に電車は動いていない。
阿含は無人駅の時刻表の前で、先端という先端からしずくをしたたらせながら立ち尽くしていた。
タクシーはおろか、人間の気配さえない、そんな土地で阿含は身動きが取れなくなった。
それでも彼は急ぎたかった。焦がれていた。強烈に、妄信的に、現状の変化を願った。
彼は家を出る際、洗濯かごから自分のシャツを拾ってきて着替えるという余裕はなかったが、
側にあった財布を掴むくらいの分別はあった。
もちろん、そこには携帯電話もあったが、彼はあえてそれを置いてきた。
それは偶然であったのだけれど、彼の携帯電話と兄の携帯電話は色違いのおなじ機種だった。
彼は瞬時にそれを掴む気になれなかった。
こちらから電話をかけるぶんには、公衆電話と小銭があれば、何の支障もない。
阿含は服のまま泳いできたようななりで、水の溜まったブーツをひきずりながら、
汚らしい待合室の、下品な落書きをその身に受けることだけが価値であるかのような、
湿気でべたついた公衆電話の受話器をとった。
結局、どこへ行く事もできなかった。
よりにもよって双子の兄貴相手に勃起して、とち狂って、安っぽく雨なんか降りやがって、
大恐慌のつもりが結果、家からたった何百メートルか移動しただけだ。滑稽にもほどがある。
だけど、雨が降ってて助かった。
死ぬほど体温が下がってよかった。
おかげで俺は止ることができた。
体中がだるくて指一本動かすのもしんどい。
始発に乗る為に集まって来た人間の気配ですら、こたえる。
だから今、ありがたいことに思考はほぼ停止している。
俺はいま無人駅のベンチで眠る、レッドウィングを履いた死にかけホームレスだ。
起きたらぜんぶ夢でした。できればそんなオチがいい。
「阿含」
名を呼ばれた犬のように、呼ばれるがまま重い瞼をこじあけた。
雨はやみ空は白んではいたが、朝というほどわかりやすい色でもない。
「やっぱり」
俺の目は声の主を探してさまよった。
俺を覗き込むように見下ろす人間の顔がそばにあるが、目がかすんでよく見えない。
「ね、どうしたの、大丈夫?」
やわらかい手のひらが肩をゆする。この感触は、女だ。まちがいない。
まともな頭ならばありえない事だが、俺はその手が夢に出てきた姉貴の手だと確信していた。
俺にぜんぜん似てない、ガイジンのねーちゃん。
姉貴の手をとると、ベンチに横になる自分の方へ引き寄せる。
思った通り、姉貴は非力であったかかった。
姉貴のちっさい身体は驚きでこわばっていて、温かかく、
とても同じ人間とは思えないほど柔らかい。
俺はまた、勃起した。
そのことに心から安堵した。
姉貴なんだから勃起してもいいじゃんか。
朦朧とした意識の中では、容易にそう納得できた。
ただそれは当然のことながら、いるはずのない姉貴ではなく、
存在すら忘れていた、従姉妹だった。
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