極楽鳥の尾のように長い、長いホイッスルだった。
「阿含!」
俺はそう叫ぶと、弟にむかって一目散に駆け出していた。
阿含のヘルメットの下、サングラスの向こうの目は、驚いているように見える。
与えられた5分で、絶望的な試合をひっくり返せた事にではなく、
逆転勝利の興奮で柄にもなく自分にむかって駆けてくる兄、そう俺に。
阿含はどういう顔をしたらいいのか、少し戸惑ったようだが、
やがて眩しそうに目を細めて言った。
「なんだよ」
俺たち2人はずっとそうして生きてきたみたいに、抱きあった。
フィールドの上で俺達は、兄弟だった。
16年かそこらの人生を「人生」と呼んでいいものかわからないが、
間違いなく俺の人生の「喜び」の瞬間。
それは阿含と共にあった。
「今日は来るんですかね」
ホームルームが終わり、荷物をまとめれば、
同じクラスで同じ場所へ向かう俺と一休は、自然と合流して部室へ向かう。
「どうだかな」
ほぼ毎日同じ会話をし、同じ順路で、同じ飛び石をふむ。
神龍寺の敷地内の建物にわざわざ「和風」という言葉を使うのは、
すこしおかしな気もするが、部室群は近年建て直されたばかりで、
いかにも「和風」といった真新しさなのだ。
すべりの軽すぎるアルミサッシの引き戸や、大量生産の瓦、
窓にはめられた盗難防止用の格子、その他もろもろが近代じみているせいだ。
「でもほんと、気まぐれっつーか」
一休は放課後一番乗りの部室にどさりと鞄を降ろすと、すぐに窓へ向かった。
部室の空気は汗のすえた臭いでどんよりと澱んでいる。気温の高いこの季節は特にだ。
俺も一休とは反対側の窓を開ける。
男子校なのだから、盗難のおそれはあっても着替えを隠す必要はない。
「アメフトなんか面白いわけねーって言ってたくせに」
一休は鞄から緑茶のペットボトルを出して一口飲むと、あとを続ける。
「試合にまで出ちゃうんだもんなー」
阿含の話だ。
阿含は俺にアメフトをやろうと言い、
一休にアメフトなど面白いわけがないと言った。
しかしあの雷雨の夜を境に、阿含はなぜか学校や練習に顔を出すようになり、
最後の5分間だけだが、俺と一緒に試合にも出た。
「まったくだ」
ただの気まぐれと片づけてしまえるほど、単純なものでもないだろうが、
なにもいま阿含の深層心理を解明しようというわけではない。俺はさからわず同意した。
「俺が雲水さんだったらたまんねーな」
一休は自分のロッカーを開き、ポケットから携帯電話と財布を出してロッカーの中に置いた。
着替えを始めるのだろう。
「よく同じスポーツなんかやる気になりましたよね」
そう言って一休は笑うように口角を上げ、しかし醒めたまなざしで俺を見た。
俺の40ヤードのタイムを聞いた時、
俺の自主トレに出くわした時、
俺が阿含と同じ才能をもってはいないのだと知った時。
一休のまなざしが、もうやめればいいのにと忠告する。
一休だけじゃない。誰だってそう言う。
誰もが俺を止めようとする。
何もみずから進んで打ちのめされに行かなくてもいいじゃないか。
弟のいない場所で、弟と違うことで、一番になればいいじゃないか。
最初の記憶は多分、縁日の夜。
(やめときな)
そう言った金魚釣り屋の夜行性のトリのような目が、
あのとき俺の人生のあらすじを決定してしまったんじゃないかと、今でも時々思う。
自宅の6畳間で、姿見の前に立ち、ダンベルを持ち、
筋肉の動きを鏡で確認しながら慎重に、丁寧に筋トレをこなしている時にふと、
俺は筋肉ではなく姿を見てしまう。
鏡に映っている人間は、間違いなく俺だと実感する。
どんなにそっくりに見えても、阿含が鏡の前に立ったとき、
そこに映るのは新しい髪型であり、墨色の龍であり、手首にまきつく銀の鎖だ。
ダンベルも、汗も、妬みも、ましてや不屈の精神など、映るはずがない。
それが俺の「絶望」だ。
「そだ、雲水さん、噂に聞いたんすけど」
年中無休の道着を脱ぎ、Tシャツから頭を抜くと、
思い出したように一休は言った。
「雲水さんて、ホモなんすか?」
その質問にまったく驚かなかったと言えば嘘になるが、
一休の口調はあまりにあっけらかんとして、
「昨日の夕飯なんでした?」と言うのとすこしも違わなかった。
たいして興味があるわけではないけれど、話のネタにうわさ話をふってみた、
そんな感じだ。
「けっこー、聞くんすよね」
一休は流れるような動作でてきぱきと着替えを進めていく。
同じ中学からこの学校へ入学したのは俺と阿含だけではないし、
噂がすでに転移していても不思議ではない。
おそらく一休は、俺にたいして"阿含の兄弟"という以外の、
いっさいの感情をもちあわせてはいない。
以下でもないが以上でもない。つけたすならばチームメイトでクラスメイトだ。
だからこそ、血液型でもたずねるように何気ないのだろう。
もっと簡単にいえば、俺の事などどうでもいいのだ。
「まあ、そうかもな」
この暑さでは、今日は阿含は来ないかもな。そんな事を思いながら俺は答えた。
正直俺も、どうでもいいのだ。
「ポジションはどうするんだ?」
阿含が顔を出して3度目の練習日に、山伏先輩は言った。
特性もなにもない、阿含を飼いならす事など決してできないという事は、
3度の練習で部員全員が理解しているのだ。
そんなものがあるかどうかわからないが、
とりあえず本人の希望を聞いてみる事にしたのだろう。
次期部長の先輩は代表して言ったにすぎない。
阿含はどうでもいいと言いかけて、ふとアゴしゃくるように上げて俺を指し、
こう言った。
「あいつは何なの」
山伏先輩は何を言い出すのかと俺を一瞥し、しかし素直に俺のポジションを答えた。
「クォーターバックだ」
阿含はたいして考えもせず、間髪おかずにこう言った。
「じゃあ俺もそれ」
「え?」
いわゆるただの"気まぐれ"なのか、
それともクォーターバックが必ずしも一人ではないという事を知っていたのか。
阿含は、ただ、それだけ言って話をきりあげてしまった。
俺の魂は、鷲掴みにされている。
その気になればいつでも潰せる、そう耳元でささやかれたような気がして、
立ったまま身体が動かなくなってしまった。まばたきの仕方すら忘れるほどに。
俺の「恐怖」は、いつだって阿含の形をしているのだ。
「オレはよくわかんねーけどさ」
この季節、夕方6時をまわっても陽の勢力はまだ衰えない。
阿含のいない放課後練も後半に、ゴクウが言った。
「雲水、良くなってるよな」
ゴクウは一見、短気で攻撃的だが、意外に繊細な気配り屋だったりする。
もう一度よくわかんねーけどと照れ隠しに前置きして、彼は続けた。
「なんつーか、最近。上達っつーか?お前がいれば安心とか思うし」
俺から目をそらしたまま、怒ったような早口でゴクウはそう言った。
どうやら褒めてくれているようだ。
ゴクウのアメフト歴は、一休と同じくらい長い。
中学生の時に大会で一休のチームとあたった事があるとかないとか。
神龍寺への入学も、当然の事ながらアメフト部が目的だ。
「阿含がいるからな」
俺がそう言うと、ゴクウはすこし迷いながら曖昧に頷いた。
どうとでも取れる俺の答えに、戸惑っているようだ。
「あんなに良い手本はないだろ」
俺と同じく未経験で、同じ体格、同じポジション。それでいてレベルは段違い。
スポーツには、イメージトレーニングというものがある。
プロのビデオを観た翌日は、その洗練された動作が脳裏に焼き付き、
まるで自分がNFL選手になったような気がする、そんな日は調子が格段に違うのだ。
「あー、まあ、そうだな」
ゴクウはそれでも気を使っているのか、困ったように頭を掻いた。
例え阿含が練習にこなくても、俺の瞼の裏に阿含の姿が見えない日はない。
40ヤード走で自己新記録を更新するとき、俺は必ず阿含の背中を見て走っていた。
俺は多分一生追い続けるんだろう。
阿含は俺の「目標」なのだ。
「お前の弟ってさ」
つい10分ほど前、練習の片付けを終えた俺と同じ一年生の、
さいごの一人が部室を出たばかりだ。
正確に言うと最後のひとりは俺だったんだが、
帰ったと思った3年生に呼び止められ、また部室へ逆戻りというわけだ。
呼び出し、そんな古臭い言葉が頭をよぎった。
「アメフトやる気あんの?」
そんな事は、本人に聞いてもらわなくてはわからない。
ただ、彼が何を言いたいのかは少しわかる。
春大会、最後のたった5分だけとはいえ、俺達2人が試合に出たという事は、
逆に下がった選手が2人いるという事だ。
彼はそのうちの一人、80名の部員の中でレギュラーを勝ちとった、その一人だ。
「つーかお前はさ、むかつかねえの」
俺が答えに窮していると、先輩は話柄をかえて俺に話をふってきた。
「双子のくせに、ショボいとか思われてんだぜ。お前は」
まったく、その通りだ。
阿含と比べて俺は劣る。弟と比べて兄は大した事がない、真実だ。
それに対して何とも思わない、というわけには流石にいかない。
いかないが、15年ばかり足掻いた結果、事実は頑として動かなかったのだ。
「アメフトが好きでしょうがねーってならともかくよ」
たいして練習に来ねーじゃん、彼はため息と共に吐き出すように言った。
関東最強と謳われる神龍寺ナーガに、阿含のような「天才」はひとりもいない。
一休しかり、ゴクウしかり、山伏先輩しかり、
ひょいと顔を出してレギュラーになったわけではないのだ。
経験も長く、短くともそれを補うだけの、膨大な時間と労力を目一杯あててきたのだ。
きっと、この先輩もそうに違いない。
全く、あいつはまるで鳶みたいだな。
常に上空をぐるぐると飛びながら、何かを探している。
めぼしいものに狙いをつけたら急降下し、攫い、手の届かない所へ持っていってしまう。
それが油揚げでも、アメフトのポジションでも。
しかし攫ったはいいが、近くで見てみれば思ったほどのものじゃない。
とはいえわざわざ持ち主に返してやる義理も無いから、
遠いところにうちやってしまう。そして、忘れてしまう。
「アメフトなんか別にどうでもいいなら、来るなって言ってくんねえかな」
はるか上空を旋回する鳥にむかって、要らないのなら返して欲しいと彼は懇願している。
お前も声を合わせて言ってくれ、と俺に要求している。
お前もあいつに酷くやられた仲間じゃないかと。
一呼吸おいて、俺は言った。
「阿含が来なくなったら」
俺は阿含になにかを獲られただろうか。
「神龍寺ナーガの戦力は落ちますよ」
先輩は俺の言葉を聞いて、ぐっと咽でも押さえつけられたような顔をした。
怯えるような、疑うような強張った顔色。
「俺はチームが強い方がいいと思います」
勝利も、羨望も、歓喜も、常に阿含とともにあって、
絶望も、嫉妬も、俺の感情すべてが阿含に向かった。
お前ほど凄いと思った人間はこの世にいないし、
お前ほど憎んだ人間もこの世にいない。
俺は阿含になにひとつ奪われてはいない。
俺のすべてが、阿含にあるのだ。
この広い世界のなかで、何十億の人間のなかで、
ひとつも分散せず、阿含ひとりに集約している。
「阿含はチームに必要です」
阿含は俺の世界を構成するすべてなのだと、阿含がいなくなったあの秋に気付いた。
次の年の春に「金剛」と呼ばれたあの虚しさは、今も気が沈む。
極端なことを言えば、阿含以外の人間は俺にとってまるで影響力がないし、必要もない。
阿含さえいれば、俺さえ必要ないだろう。
ひとはそういう存在を、一体なんと呼ぶのだろう。
「先輩よりも、俺よりも必要です」
俺は、鳶に狙われるようなものは、最初から何一つ持っていなかったのだ。
いつのまにか先輩の道着の肩が、震えていた。
「あのクソ野郎より俺が劣るっていうのか」
先輩は屈辱のにじんだ目で、俺を睨んだ。
今さら何を言うのか、ついさっき自分からそう言だしたようなものじゃないか。
俺の胸になにかが走り、気が付くと俺はこれ見よがしにため息をついていた。
「お前…」
先輩は絶句した。
まさか俺にこんな態度をとられるとは思わなかった、という顔だ。
顎がわななく。胸がむかつく。
ああ、そうか。これが「怒る」ということか。
俺のこの「怒り」もまた、阿含がいなければ成立しなかった。
「阿含がクソなら、お前は何なんだよ」
俺の唇は勝手に動いていた。動かしてもいないのに、しゃべっていた。
まるでコントロールの外にあるようで、自分で自分がこんなにも遠く感じたのは初めてだった。
そもそも俺は、こんな口調でしゃべる事ができたのか。
先輩の顔が一瞬で驚愕に染まる。
俺は一歩、歩み寄る。
息を止めたい。こいつの吐いた息を吸いたくない。本能が思った。
左手を伸ばす。
俺の左手は、先輩の胸の皮膚ごと引き剥がすにくらいに荒々しく、
Tシャツの襟を鷲掴み、引き上げた。
右手の拳を肩の高さで握りしめる。この拳が、鉄でできていればいいのに。
肺いっぱいに空気を吸い込む。
「クソ以下が、」
阿含を、冒涜するな。
「ちょっと面白い事ありましたよ、聞きたいすか?」
いつもより、ふざけた口調で携帯の向こうの一休が言う。
背中の墨がようやく完成して、一服している所だった。
あれから、俺がいくら急かしてもユータは絶対に彫るペースを速めなかったし、
新しい墨も決して彫ろうとはしなかった。意外に石頭だったらしい。
それにしても一休だ。やたらテンションが高くてうんざりする。
「聞きたくねーっす」
そう言って通話を切ろうとした俺の姿が見えているのか、
一休は手のひらの中でちょっとまってくださいと叫んだ。
「短気なんだから…雲水さんのことっすよ」
近年稀にみるお堅い高校生の雲水と、おもしろい事はあまりイコールにならない。
俺は少し興味が沸いた。
「んだよ」
「なんと雲水さんは今日から一週間の停学。半年間の出場停止です。」
一瞬、頭が理解しなかった。
停学、出場停止?一体何をしたらそんな事態になれるのか、さっぱりわからない。
面白いこと以上に、雲水に結びつかないものだらけだ。
「阿含さん、驚いてます?」
その後の一休の説明を、俺はほとんど聞いていなかった。
耳に残った言葉は、
雲水が、暴力沙汰。
アメフト部の3年。
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