絶対、言えない






ALBERT_17
龍の目





「ああ、いた。今行く」

3年ちかく続けてきた金髪をやめた。
そのかわりに阿含はもっと手のかかる、ドレッドヘアにしていた。
携帯電話の通話を切ると、渋谷ハチ公口のひとごみをかきわけて進む。
ショウウィンドウの前に、紺色のポロシャツを着た坊主頭が立っていた。
初めて渋谷に来た彼は、金曜の夜の人の多さに圧倒されているようだ。
きょろきょろしてはいるがまだこちらを見つけることができずにいる。
阿含は少し離れた場所で立ち止まると、渋谷の風景の中に立つ兄の姿を眺めた。
その光景はなんとも違和感があり、少し照れくさいような気分だった。
雲水の目が阿含をとらえる。

「阿含!」

慣れない場所に興奮しているせいか、それとも違う場所で見るせいか、
雲水は意外なほど年相応なあっけらかんとした顔で笑った。

「すごい人だなー」

雲水は阿含のそばまで歩いてくると、はじめての渋谷に対するごく月並みな感想を述べた。

「こっち」

阿含はあごをしゃくって、目的地へ向かうべく雲水を誘導した。

実感がわかない。と雲水は思った。阿含はこの街で2年半を過したという。
自分にとってはひたすらに、慣れない都会の風景だ。それもそうか、とまた街を眺める。
雲水は街を観察しながら、阿含は自分の部屋のように、渋谷のひとごみを歩いた。
人もまばらになった頃、街灯の下のガードレールに腰掛けて、煙草を吸っている男がいた。
男は2人の姿を見ると、痩せた長身をすこしかがめて、暗さに目をこらすように2人を凝視した。
やがて確信したように立ち上がり、ずんずんと近づいて来て言った。

「よー変わってねーなあ!」

雲水はぎょっとしたが、阿含はその男の存在がなんでもないという風に言った。

「おめーが変わりすぎでわかんねーってよ」

阿含の言葉を聞いて、雲水ははっとしたように言った。

「ユータ?」

まるで毛髪のない頭皮の右半分を、黒いTシャツから出た両腕を、黒い墨がうねっていた。
長身でスキンヘッドの刺青男は、嬉しそうに両腕をひろげて笑った。
彼のその細長い手足は、まるで骸骨のキャラクターのようだ。

「面影、あんだろ?」

雲水は思わず笑ってしまった。
日焼けした丸顔に赤いユニフォームを着ていた、11歳のユータの姿とはまるで重ならないのに、
その笑顔はたしかに"ユータ"だったのだ。
あいさつもそこそこに、祐太に促されてすぐそばの地下へつづく階段をおりる。
アンティークのように黒ずんだ金の手すりがかすかに振動している。

「雲水はじめてなんだろこういうとこは」

先頭の祐太が言う。
階段の幅はやっとすれ違えることができるくらいの細さだ。

「ああ、どういうところなのかわからんが」

雲水がそう答えるうちに祐太は最後のステップを下りきり、
現れた赤い扉の黒い取っ手にすでに手をかけていた。

「まーちょっとうるせーけど」

開いた扉から溢れ出た暴力的なまでに巨大な音に、祐太のセリフの後半はのみこまれてしまった。
雲水はこの刺激が"音楽"なのだと一瞬、理解できなかったほどだ。
音楽というのはここまで大きくなるものなのか。

「入れって」

雲水の後にいた阿含が背中を押す。
祐太はまるでボーイのように扉を抑えて、雲水が中に入るのを待つ。
蒸し暑い外気が嘘のようにつめたく、人工的に暗く、煙っぽいその空間は、
まるで映画のセットのような内装だった。
欧米人のつくる「和」のイメージ。
光沢のある床やオリエンタル調の椅子やテーブルはほとんどが黒で統一され、
天井から下がった四角い中華風の行灯には赤い照明がはいっている。
現代風な和と中のいりまじった赤と黒と大音量の世界。
まあとりあえずあのへんで、音楽のすきまに祐太の声が聞こえた。
雲水は、踊ったりしゃべったり笑ったりしている人間をすりぬけ進む、祐太の背中を追う。
駅ばりポスターよりもずっと大きな龍の水墨画があらわれ、
絵の前におかれている黒い革のソファに、
祐太は腰を下ろした。
ソファの左右には窓もないのに黒いベルベットのカーテンがまとめられている。
座れよ、祐太がそう言ってソファを叩いた。
そんな音が聞こえたことで、入口よりもいちばん奥まっているこの場所は、
これでも音量がだいぶ小さめなのだと雲水は気付いた。

「ああ」

とはいえ、声を張り上げなくてはならない事にはかわりない。
いつのまにか阿含はいなくなっており、祐太いわく飲み物でも取りにいったのだろうとの事だった。
赤黒い空間には人々がうごめいている。
雲水は初めて体験する、この現実離れしたばかばかしいような世界にただ圧倒されていた。
やがて祐太が昔とかわらない口調で言った。

「俺ずっと言おうと思ってたんだけどさ」

「なんか、悪かったな」

不安げに雲水へ向けた目は、サッカー少年だった頃よりも幼くみえた。
雲水はただ祐太の揺れる黒目を見、続きを待った。

「阿含さ、俺が引っ張ったんだ」

こっちへ。
祐太は雲水から目をそらし再びフロアへ戻した。

「お前が、サッカー来てた事。俺が阿含にチクったんだよ」

したらあいつ。
祐太は顔をまっすぐすえたまま睫毛を伏せた。
ショックだったんだよ多分。
お前に裏切られたような気分になったんじゃねーかな。
いや、わかんねーよ。
俺にはあいつの事なんかわかんねえんだけどさ、なんとなく。俺はそう思ってた。
ごめんな、雲水。

自分で自分の考えを整理していくように祐太は語った。
そして最後にこれで俺の話しは終わりだと言うように、雲水の表情を窺った。
佐藤祐太が三年近く腹に溜めていた告白を聞いたにしては、
雲水は実感のなさそうな表情をしていた。どこか遠くの事のような。
それは無理もない。
彼は弟が家を出たことと、自分を結びつけて考えて事などただの一度もなかったのだ。

黙って練習にでていた事を阿含が知り、そして阿含は家を出た。

それは無いだろうという理性と同時に、心臓がすこしずつスピードを上げていくのがわかった。
雲水が言葉を探すうち、ふと祐太が顔を上げた。
つられてその視線の先を追うと、いつのまにか一人の女が立っていた。

「ほんとだ」

女は不躾な目で雲水を見て、言った。
黒い光沢のある素材の小さなキャミソールと、同じ素材のミニスカートの間から、
白い腹とへそがのぞいている。
いや、へそをのぞかせるために計算されたデザインなのだろう。
まるでこのクラブの制服のように、その服は彼女とこの世界にぴったりだった。

「お前、いっつもいんなあ、ここに」

女に向かって祐太がすこしあきれたように言った。

「学校いけよ女子高校生」

祐太にたたみかけられて、女はうんざりだという顔でちゃんと行ってます、と答えた。

「あれ?雲水イトコだろ?」

祐太は言った。
イトコ?雲水は驚いてもう一度女を見上げた。
女は視線に気付くと、濡れたような薄い唇を笑うように曲げて見せた。
あの睫毛は本物なのだろうか。雲水は黒く長過ぎる睫毛を見た。

「千秋」

そう呼ばれて千秋は振り返った。
ビールのグラスを2つ持ったドレッドヘアの男が、
意地悪く口の端だけで笑って立っている。

「くやしい」

千秋は拗ねたように阿含に答えた。

「グラスは人数分な」

阿含はそう言うと、千秋に早くいけよと顎で追っ払うしぐさをした。
千秋はむっとした顔で細いヒールを打ち鳴らすように、阿含の来た方向へ歩いて行った。

「あれ、俺のねーの」

阿含が2つ持ったカールスバーグのビアグラスのひとつを雲水に渡し、
もう一つに口をつけるのを見て、祐太が言った。
阿含は千秋にやったのと同じように、もういちど顎をしゃくった。
今度は「自分で行け」という意味だろう。

「浮いてんなあ」

阿含は立ったまま、クラブのソファに座る雲水をしげしげと眺めて言った。
ラルフローレンの赤いロゴマークがぽつりと浮いただけの紺のポロシャツに、リーバイスの501。
この大げさなセットみたいな空間の中で、雲水はあまりに無難で現実的すぎた。

「お前はぴったりだな」

現実的すぎる男は、非現実的な男を眺めて言った。
学校や地元であれほど浮いているドレッドヘアは、この世界の為にあったのだと雲水は納得した。
阿含は雲水の隣へ腰をおろすと、ドレッドに合わせて買った、
茶のグラデーションのサングラスを外して雲水にさしだした。

「かけてみ」

ソファにはテーブルがついていないため、雲水は足のついたビアグラスを足下におくと、
慣れない手つきでサングラスかけて阿含の方を向いた。
阿含はすこしのけぞるようにして、サングラスのかかっていない顔で雲水の顔をながめた。

「結構、似合いますね」

大音量のため、靴音というのは殆ど聞こえない。
だから2人は一休がすぐ側まで来ていた事に気付かなかった。

「2人並ぶといい感じっすよ」

坊主頭にサングラスをかけた雲水と、鋭い眼光とドレッドヘアの阿含。
背格好も顔も同じで、それでいて色が違う、その二人の姿は絵になると一休は素直に思った。

「オマエ案外、悪そうだな」

阿含もふたたび雲水を見、先ほど出しそびれたコメントを述べた。
サングラスのおかげで表情がつかみにくく、高い鷲鼻と薄い唇のおかげで、
まじめ一貫の坊主頭がすっかりクラブ仕様に見える。

「トイレどこだ」

その無表情なサングラスの向こうで雲水は言った。
トイレの鏡で自分の姿をチェックしたいというわけではないだろう。
見た目がどうであれ、雲水は雲水だ。あまり空気は読まないらしい。

「あすこ」

阿含が奥の黒いモダンな格子のついたてを示すと、
雲水は立ち上がって振り返り、ソファの後にある龍の水墨画をサングラス越しに確認した。
このクラブは広くソファもいくつもある。
同じ黒でもデザインの違うソファが壁際にならび、対になるように違う絵がかかっている。
隣は虎、向こうの角には牡丹。
龍だな、とつぶやいて雲水は手洗いへ向かった。

「意外っすね」

人ごみに消える後すがたを見守りながら、雲水の立った場所に一休が腰をおろした。
雲水をここへ呼び出した阿含も正直そう思っていたのだ。

どうせキンシンチューでヒマなんだろ?出てこいよ。

それはただ単に、暴力沙汰の理由を聞くためだけに実家へ帰るのは気が進まず、
だからといって知らぬ振りをするにはセンセーショナルすぎる出来事だったので、
ダメもとで雲水をこっちへ呼んでみたのだ。
雲水は、意外なほどあっさりと阿含の誘いに乗り、
土曜休みのユータにあわせて金曜の夕方、渋谷へ出て来たのだった。

「で、聞きました?」

そして平日の授業と部活を済ませて来た一休が、午後9時30分に到着というわけである。

「いや」

暴力沙汰といっても雲水が手を出したのはただ一度。
けれどその一発のストレートが強烈で、相手の鼻の骨は砕けたという。
しかしなぜそうなったのか、動機が誰にもわからないのだ。
本人はともかくとして、鼻すじを曲げられた3年生も、
その時の状況や会話内容については完全に口をつぐんでいるという。

「……」
「……」

重低音に身を預け、高音の黒人女性ボーカルにまぎれながら、
一休と阿含は別々の思いをめぐらせていた。が、ふいに阿含が言った。

「それじゃねーよ」

まだ何も言ってはいないけど、と言いたげな顔で一休は阿含を見た。

「ホモうんぬんじゃヘコまない」

それでも続いた阿含の言葉は、一休の考えに的中していた。

「って、あいつが言ってた」

リング状の泡のあとが3つ連なった空のグラスを持ったまま指した先には、
磨かれたワイングラスを右に3つ、左に2つ持った千秋がいた。
栗色に巻いた髪が赤のライトに染まっている。

「おまたせ」

不機嫌そうに千秋は言った。

「雲水、便所前でナンパされてたぜ」

千秋の後でクロームのワインクーラーを抱えた祐太が、
ここにはいない本人をひやかすように笑った。

「ほっとけ」

阿含は千秋からワイングラスを受け取ると、
そのガラスの器に赤い酒がつがれるのを待った。

「ハイドーゾ」

千秋は赤いしずくが跳ね上がるほど乱暴に、
阿含のグラスにワインを、それはなみなみと注いだ。
このワインのフルボトルの代金は、千秋が阿含との賭けに負けた為、
彼女一人の財布から支払われている。
賭けの内容は、雲水が変った千秋を見て気付くか気付かないか。
結果は見ての通り。千秋の完敗だ。
とくに乾杯するでもなく、雲水を待つでもなく、
それぞれが勝手に飲んでいるうちに雲水がもどり、一休が席を立ち座らせた。

ソファに阿含と雲水、それをかこむように3人が立っているのだが、
この大音量の世界というのは不思議なもので、例えば祐太と一休が会話をし、
千秋が常連の女と笑い合うと、一緒にいるにもかかわらず、
彼らはそこらへんの見ず知らずの客とかわらない「背景」になってしまう。
彼らからすれば、ソファに座った2人もすでに背景と化しているのだろう。
そしてソファに座っている2人の間にも、まるで別の思考と時間が流れていた。

それでなくとも赤暗いフロアが、阿含のサングラスのせいで余計に暗い。
アルコールのせいか、思考する事をゆるさない大音量のせいか。
3年まえどころか、むし暑い昼間の天気のことでさえ前世の記憶のように遠い。

(まさか)

雲水の体にはずっとこの3文字が駆け巡っていた。
瞼の裏に、市営グラウンドの風景がちらつく。
首を振って打ち消すように思い直す。

(阿含は家を出る前から田舎が嫌だと言っていただろう)

障子ごしの、幼くたよりない阿含の声。
雲水は目を閉じた。

(まさかな)

堂々巡りをたちきるように雲水は目を開いた。
開いたといってもそこには、あいかわらず暗く曖昧な色彩の、
阿含の世界が広がっている。

「はじめて殴った」

吹っ切るように雲水が言った。
右半身をソファの肘にあずけていた阿含は、隣に座る兄を見た。
雲水は足下に半分ほどになったワイングラスを置き、
身をかがめて両肘を膝にのせて指をくむように座っていた。顔はまっすぐ。
自分のサングラスが、まったくの別物に見えると阿含は思った。

「イテーだろ、手が」

あの雷雨の夜は、阿含にとって革命的な夜だった。

(逃げられない)

生まれ育った街が、土砂降りの雨が、みずからの体が、そして実の兄が。
阿含にそう教えた。

(そうか、俺は逃げられなかったのか)

どこへでも行けると思ってた。
電車にのるか祐太を呼べば、ここの街を出た日のようにどこへでも行けるし、
この街をでれば雲水の事など思い出さずにすむ。王様にだってなれた。
どこへでも行ける。
そう、思い込んでいた。
けれどもあの夜、阿含はどこへもいけなかった。

(なんだ、逃げれないのか)

諦めにも決意にも似た気分が沸き上がる。

(それなら)

阿含はそっと目を閉じる。

(ここに、いよう)


「そうだな」

雲水は右手を確かめるように開きそして握った。
こいつが後先考えず、人を殴り倒した理由が知りたい。
何を想ったのか知りたい。どんな顔をしていたのか知りたい。
けれど、阿含は迷った。
そばにいると決めはしたが、それでもがっつくのは執着がむきだしのようで、
自分が自分でなくなりそうで恐ろしい。
興味のないような顔をした自分を手放すことはまだできない。

「なんで」

そう考えたそばから、阿含は口にしていた。
思いと行動のバランスがおかしい。流れる音楽の隙間で舌打ちする。
雲水がソファに背を預ける。ぎっときしむ。千秋の笑い声。

「……」

一休の話通り、雲水は沈黙した。
酒を飲む動作に紛れて、雲水の横顔を盗み見る。
サングラスをかけている
せいで目の色はわからないが、口元と頬は堅い。
雲水の第一声を、阿含は待った。

「事実だけいえば」

雲水はそう言って重い口をあけ、やけにてきぱきとした口調で続けた。

「先輩に、お前に部活に来ないよう伝えろと言われて、俺はそれを断った…いや駄目だ」

やっぱりだめだ。
話しの途中で雲水はかぶりを振った。

「口で説明できるとは思えない」

きっぱりと言い放つ。
起こった事実だけを説明すればいいかと思ったが、
あの事件を説明するには、自分にとって阿含が何者であるのかを説明する必要がある。
自分ですら整理しきれない膨大な存在を、あらわす言葉が地球上に存在するのだろうか。
少なくとも、俺はしらない。
だからきっとこんな言葉で済ませなければならなくなるだろう。
"お前をバカにされて腹がたったんだ"
足りないなんていうものじゃない、全く別物だ。
その言葉を本人を目の前にして吐くことを想像しただけでぞっとする。
雲水はサングラスをはずし、少しクリアになった世界でその弟の持ち物を眺めた。

「ああ、そうだ阿含さん」

分厚い透明な壁を抜けて来たように、すぐそばにいる一休の声が届いた。

「来週、試合なんで。一応」

雲水不在の今、一休が阿含への連絡係を任命されたようだったが、
一休はそれだけ言うと、すぐにもとの壁のむこうの世界へ戻って行った。

「阿含なんか飲むか」

今度は一休のとなりにいた祐太が、空きそうな阿含のグラスを見て言った。

「いや」

千秋はあいかわらず常連の女と喋っていた。
そして彼らは再び背景になった。

「お前はなんでこっちに帰って来たんだ」

雲水の口調に責めるだとか、わざと話柄を変えようだとか、
そういった他意は感じられなかった。
阿含が殴った理由を聞いたのと同じ、シンプルで当たり前の疑問だった。

「それこそ、口で言えねーよ」

阿含の声には失笑が混じってはいたが、
それでも口で言えないという事を正直に言っただけ、阿含のガードは普段より緩んでいた。
あの夜の事を説明するのは、自分の人生を言葉で説明するのに等しい。
自分の人生を説明するのは、隣に座っている兄に、自分の中の兄を説明するのに等しい。
酒のおかわりについて答えた口で、それを伝えるなんて不可能だ。
阿含は雲水を見た。
視線を敏感に感じ取り、雲水も阿含を見た。

(俺の事だ)

雲水の目を見て、瞬時に阿含は悟った。

(何か俺の事で、こいつは3年を殴ったんだ)

阿含の心は不思議なほど落ち着いていた。その無風の中でそう確信した。
サングラスを外した雲水の目はアルコールのせいか瞼が少し赤く、
いつも奥にしまってあるような感情が、無防備にむきだしになっていた。
見たこともないような傷付きやすそうで、正直すぎる色だった。
その目が自分だけ
を、見ている。

目を持っているのは、もちろん雲水だけではない。
雲水の目をみる阿含の目もまた、本人の意に介さず色を浮かべてしまう。

(そうか、俺だったのか)

雲水はすんなりと納得できた。
祐太の言うとおり、俺の幼稚な裏切りに傷つき、阿含は家を出たんだろう。
そしてなぜか、阿含はもう知っているようだった。
言葉で説明してもいないのに、それよりもずっと上手く阿含は俺の中の阿含を知っている。
知っていると、その目が言っている。
そして今、阿含は幼いころと同じ、必死で熱い目をして自分の前にいる。
雲水は視線を阿含に固定したまま、右手をソファについて体重をかけた。
つられるように阿含はソファの肘から身体をおこす。
言葉に出来ないものを、どうすればいいのかはもうわかっていた。

(こうすればいいんだ)

祐太と一休の気配がある。千秋がわらっている。
物を右から左へうつすような自然な動作で、
二人は唇を重ねた。


アルバート最終話「雲水と阿含の世界」へつづく