同じならセーフ。違ったらアウト。
アウトはダメだ。
ガキだった俺は本能でそれを恐れていたし、数少ない経験で得た教訓でもあった。
「同じ」はセーフ。「違う」はアウト。
では、果たしてこれはセーフか、アウトか。
あの祭りの日、この6畳間で、
俺は核ボタンのスイッチを前にしたように、深刻に悩んでいた。
「おんなしだよ。色がちがうだけで」
雲水は言った。
確かに、俺のために用意されたその浴衣は、トンボ柄という点では雲水のものとまったく同じだ。
けれど色が違う。まるで違う。それが俺を悩ませた。
結局、雲水が「同じ」だとしたので、俺はその浴衣を着ることにしたんだ。
「阿含!なにいろにする?」
俺の言う事はいつだって決まっているのに、兄は必ず俺にそうたずねた。
雲水とおんなしの。
手渡されたりんご飴は、俺達2人のようにそっくりな青色だった。
セーフ。
けれども俺はこの後、つまらない事でしくじった。よく覚えてる。
夜店の金魚が欲しくなった。
ガキなんだから欲しいもののひとつやふたつあるだろう。それはいい。
俺がアウトに気付いたのは夜店の婆さんが、雲水に何か言った時だった。
見ると雲水の真鍮のうつわは空だったんだ。スコアは0。
対して自分のうつわは赤い魚でひしめいている。スコアは12。
しまった。やってしまった。
俺は血の気がひいた。アウトにはもちろんペナルティがつくからだ。
ルールを破った罰として、俺は雲水からほんの少し引き離される。
そっくりな俺達に、ほんの少し違いがうまれる。
ほんの少し、俺と雲水の間隔が広がる。歪む。
それはほんの少しだけれど、その少しを取り戻すことは二度とできない。
ひらいた距離は戻らない。ひらく事はあっても縮まる事はない。
そういう決まりなのだ。俺は知っていた。
だからこそ細心の注意で気を付けていたんだ。その罰をなによりも恐れていた。
途端に幸せそうに泳ぎ回る、赤く小さく無邪気な生き物が憎らしくてたまらなくなった。
なにしろ12匹もいやがるのだ。
「阿含…なにしてる」
翌日、この6畳間の畳の上に一列にならんだ12匹を見て雲水は言った。俺は答えた。
(あそぼうとおもったんだけど…)
もちろん、嘘だ。
殺してしまえばチャラになるんじゃないかと思ってやったんだ。
当然、ならなかったけどな。
一列にならんだ12匹の金魚の死体の列の長さが、取り返しのつかない距離の長さだった。
今思えば、兄が秘密でこっそりとサッカーの練習に出ていたその行為は、
裏切りというよりはむしろ俺との距離を縮めようとする行為だったのかもしれない。
けれど結局、俺はひとりで代表に選ばれ、選ばれた事でまたひらいた。
俺と雲水の間にある埋められない空白は、怪物のように成長しつづけ、
14年でお互いの姿がほとんど認識できなくなるほど、距離は圧倒的なものになった。
兄弟なんて普通そんなもん、何度か自分に言い聞かせてみた事もある。
けれど俺は、人生のあの場所を何度やり直せたとしても、
きっとあの苦しみだけは絶対に耐えられないだろうと今でも思う。
あのとき俺は、愛だとか、兄弟だとか、血の繋がりとか、双子のなんとかとか、
能力的に自分より劣る兄の一体どこがとか、
そんな深刻な事を、ただの一度も考えたことはなかったんだ。
だからといって、恋のように甘く想う事もなかった。
ただ、お前がいない事が俺には耐えられなかった。
酸素のなくなった世界を想像してぞっとする、そういう類いの恐怖だ。
14年。
俺は雲水と離れる事だけを恐れ、そうならない為に最善を尽くして生きてきた。
けれども、徐々に、そして確実に薄れていく空気。
取り返せない日々が、ユータというきっかけで決壊した。
もう二度と戻れないのならば、いっそお前の気配さえ感じなくなるくらい遠く離れてしまおう。
挫折したガキの考えそうな事だ。
俺はトランプの革命のように、ルールを真逆に書き換えた。
「同じ」をアウト、「違う」はセーフだ。
14の秋、俺は家を出た。
一休は空になった黒革のソファを呆然と眺めていた。
なにか言うべきだとは思ったが、適切な言葉が見つからず、
ただ音楽という騒音が、だらだらと一休と祐太の頭の上を流れて行く。
「あたし、帰る」
マネキン人形のように立ち尽くしていた千秋は、急にスイッチが入ったようにそう言うと、
サテンのスカートをひるがえしてソファに背を向けた。
出口へ向かう千秋の後ろ姿は、金曜の夜でにぎわうクラブの人間達にみるみる埋もれ、
ヒールの音は客の笑い声に消える。
それはいつもの場所だった。
祐太は無言で龍のとなり、虎のソファに腰を降ろした。
あいている龍のソファではなく、わざわざ隣のソファを選んだ祐太の心情を、
一休はなんとなく察している。
二人の座っていたその場所は、目の前にあるのに遠く、触れられないような気がした。
あれは何だったんだろう、と一休は思う。
ほんの数分前、このソファの前で立ち話をしていた一休と祐太は、
周囲の数人がちらちらと同じ方向を見るので、つられてその方向を見た。
そこには変らずチームメイトである双子の兄弟が居た。
才能の怪物のような弟と、怪物ではない兄。
一休の知る限り、その兄弟は仲が悪いというわけではないが、
兄弟らしくぶつかり合う事もなかった。
二人はそれぞれの微妙な距離を保ち、なんとか折り合いをつけて別々に生きている、
そんな風に見えた。
自分が声をかけた時には、二人は同じソファに座っていても、
今まで通り別々の世界に属していた。
それからほんの2、3分だったように思う。
赤いライトのなかに光景がなまなましく蘇る。
二人はその黒いソファに座って、唇を重ねていた。
舌をからませるそれはキスというよりは愛撫にちかく、目のふちを赤く滲ませた二人は、
一休という友人の立場の人間が、まず出会う事のない性的な姿だった。
一瞬、誰かわからなかったほどの豹変振りだった。
いくら双子で肉体の造形が同じだからといって、一休はふたりを見間違えた事など一度もない。
逆にいえばあの双子の場合、同じに見えるのはみかけだけなのだ。
それなのに一休は少しの間、ふたりの見分けがつかなかった。
唖然とする一休や祐太、凍りついていた千秋、盗み見するクラブの客。
それら周囲のなにものも彼らの世界には干渉できないように見えた。
この大音量でさえ、そこには無いように思えた。
熱い息を感じ取れそうな程、濡れた音が聞こえそうな程の生々しく情熱的なくちづけ。
そういう行為が、どういう経路で、どんな会話を経て、
この双子の兄弟に起こっているのか、一休には全く想像がつかなかった。
瞬間移動だとか、タイムスリップだとかそんな非現実感があった。
くちびるは、雲水から離した。
湿ったくちびるで雲水は阿含になにか短い言葉を言ったようだった。
阿含が首を縦にふると、雲水は何事もなかったように立ちあがって、
これまでずっとそうして来たように、迷うことなく弟の手を取り、
あっという間にこのクラブを出て行ってしまった。
雲水が同性愛者であるという噂は耳にしていたが、一休がそれを感じることは今までなかったし、
逆に阿含はまったくの女好きであり…いや。
一休は肩で小さなため息をつくと、意識的に考えることをやめた。
同時に気配を消していたはずの音楽が、一休の意識のなかに戻って来る。
龍の水墨画と黒い革のソファは赤い照明をにぶく映しこみ、空のまま冷たくそこにある。
一休は自分がいくら考えをめぐらせても、
あのふたりと同じ場所に到着することは決してない事に気付いていた。
「俺も帰るよ」
一休は虎の水墨画を背にしたソファの祐太に言った。
祐太は一休を見ずに、視線をフロア方面に投げたまま、かるく手を上げてそれに答えた。
彼もきっとしばらくしたら、いつものようにバイト先の休憩室へ帰り、
いつものように眠ることだろう。
一休が爆音から解放され、耳鳴りを感じながら蒸し暑い外気を吸い込む頃、
2人は電車に揺られていた。
すし詰めとは言わないものの、多少込み合う金曜の夜の下り電車で、
座席に座り文庫本を読んでいるOL風の女や、その隣の飲んだ帰りであろう中年男は、
目の前で結ばれた手とそのあるじ達を、落ち着かなげにちらちらと窺った。
彼らの顔と背丈、それから体格から皮膚。
それらはそっくりに同じにつくられていて、彼らが双生児である事は間違いなかった。
けれども仲睦まじく手をとりあって電車に乗るほど彼らは幼くなかったし、
彼らは言葉どころか視線さえかわさなかった。
無言で手をつないで電車に乗る、双子の兄弟の心情や状況を正確に理解できるものは、
この世のどこにもいないのだろう。
「帰ろう」
雲水は阿含の熱ののこる唇で言った。
その声はR&Bという名の巨大な音のなかで不思議としずかに阿含の耳に響いた。
阿含はほとんど反射的にうなずいていた。
雲水のいう帰る、とは金剛寺のことでありここから一時間以上はかかる。
それでも阿含には雲水の言うとおり、自分たちは金剛寺へ、
自分たちの家へ帰るのがいま一番正しい事であるように思った。
雲水は夢のようにさっとたちあがり、阿含の手をとり、
何度もそうした事があるようにやんわりと客をかきわけ、出口である赤い扉を押した。
そして繋いだ手をほどく事なく、かろうじて自分を保っている2人の姿が、
いま夜色の電車のガラスに映り込んでいる。
言葉を発してはいけないような気がしていた。
一言でもつまらない言葉を漏らせば何もかもがいっせいに逃げて行ってしまう、
そんな恐怖が2人の間に同じように在った。
列車の揺れと、通過する駅の数、そしてお互いの手のひらの熱を共有して、
2人はじっとその時間を耐えた。
毎年この季節に来る顔なじみのテキ屋と、毎年同じように繰り返す会話をしながら、
テキ屋は屋台の解体を、こちらは行灯や鳥居の後始末をしていた。
私が金剛寺の坊主であることには違いないが、この土地の組合員であることも確かだ。
地域の祭は坊主だろうと、神主だろうと、八百屋だろうと、
ほかのどこの地域とも同じように地域の人間で組み立て、そして地域の人間でしまう。
金剛寺の他の坊主達も手ぬぐいを坊主頭にまきつけて、蒸し暑い夜の中、
今日の祭の後片づけに忙しく働いている。
駅員の常駐しない金剛寺駅に、今日最後のディーゼル車が軋みながら到着すると、
少ない乗客の中に金剛寺の跡取り息子達がまじっていた。
思わず、金剛寺の跡取り息子、と思ってしまった。
自分の彼らへの思いは、しょせん父親気取りだったのだろうか。
16年を疑うようなそんな瞬間だった。
彼らは駅から金剛寺へ、わきめもふらず一直線に向かっていた。
道の両脇に並ぶくずしかけの屋台や、灯のきえた行灯はもちろん、
近所の人間の存在など目にも映らないといった感じで、
彼らは手をつないで歩いていった。
少し速足で、雲水が半歩前を歩いて。
歩いていった、というのは彼らはもうとっくに私の前を通りすぎてしまったからだ。
本当に目の前を通ったのに、彼らは私の存在に気付きもしなかったし、
私の声は絶対に届かないだろうという実感があった。
彼らが幼い時、色違いの揃いの浴衣を着て、
雲水が阿含の手を引いて歩くその姿をふと思い出す。
あの頃はいつも、あんな風に歩いていたっけ。
彼らはふたり一緒にいれば全く手のかからない子どもだった。
なんでも2人で始め2人で終わらせてしまう。
大人達が世話をやくタイミングも隙もほとんどなかったほどだ。
そうだ。
最初からそうだった。
阿含が姿を消していたから、なんとなくその世界が伸びて境目が曖昧になっていただけだ。
だから私は雲水の父親気分を味わっていられただけにすぎない。
そう、最初から彼らはああだったはずだ。
大人になった彼らの作り出すそれは、
他人どころか空気も水もいらないのではないかと思うほど、完ぺきな世界に思えた。
金剛寺の門が、彼らを迎え入れる。
玄関でつけた蛍光灯の光が気に障ったんだろう、
雲水は部屋の電気をつけなかった。
祭りの後片付けをしているせいで、磨りガラス窓の外は明るく、
本でも読むのでなければ困らない。
俺は繋がっていない右手で襖を閉め、部屋を密封した。
すとんという音がすると、雲水は磨りガラスを背にして振り返った。
まだ目が慣れないから逆光で表情がよく見えない。
雲水の指が俺の左手の中でかすかにもがく。
繋いでいた手を、今度は手のひらと手のひらがくっつくように組み替えた。
肘を曲げ、肩の高さで手のひらをぴったりと合わせ、指と指を貝のように組み合わせる。
雲水は薄暗い部屋のなかで白目にだけ、外のオレンジ色の光をうつして、
もうこれ以上ないほどに真っ直ぐに俺を見据えた。
何かを訴える、伝えようとする、という意図はいっさいない。
雲水という存在ががすべて目になってしまったように、
透明に、一直線にただ俺を"見た"。
この眼差しを直視して、自分を抑えられる人間は絶対にいない。
断言できる。
少なくとも俺はもう、その目に俺の何もかもをさらけだしたくてたまらなかった。
あの雷雨の日のように、俺の身体の中身は一瞬で沸点に達した。
俺は組んだ手をひきつつも、右手で雲水の腰を抱き寄せた。
抱き寄せる、という言い方は実際しっくりこない。
雲水は俺が片手で抱けるほど小さくはないからだ。しがみついた、に近いのかもしれない。
自分の嗅覚がぐっとするどくなったのがわかる。雲水の肌のにおいが、
生まれた頃から変わらない、実家の象徴のような線香のにおいと混じりあい、
肺を通過し、血液にのって一気に全身に廻る。
そのにおいは強烈に俺の胸を締め付け、
俺は水面で息継ぎをするように唇とその奥を求めた。
奥へいけば楽になる。
自分よりもいくらか低い温度の唇へ舌を押し込むと、俺は夢中になった。
自分の舌の細胞を相手の舌の細胞にこすりつけるという、
原始的で終わりのない行為に、俺はなりふり構わず必死になっていた。
濡れた音が耳を火照らす。
絡みあえば絡みあうほど、胸の苦しさと熱が比例するように沸き上がり、
苦しいのに逆らう事もできない。
まるで俺はバカのようだ。
気の利いたテクニックも何もなく、俺はただ夢中に貪った。
組んだ左手を砕けろとばかりに握りしめ、右手をポロシャツの中に滑り込ませる。
右手は触手だ。
指と手のひらの皮膚の感覚を総動員して、
雲水のまっさらな背中の体温、皮膚の感触、浮かんだ汗、
その奥の内臓の動作。熱。
すべてを吸収しようと全力で感覚を研ぎ澄まし、より触手を伸ばす。
ふと、雲水の舌が退散したかと思うと同時に、額に衝撃を感じた。
興奮しすぎている俺をいさめるように、雲水が頭突きをした。
俺は動物のように雲水の目をうかがう。
うすあかりの中で間近に見た雲水の顔は、唯一光を反射する白目も、唇も、
ぼかしたように濡れて熱をもっているように見えた。
俺は再びその唇を欲したが、胸をぐっと抑えつけられ、
あと少しというところで唇に触れられない。
雲水は眼差しで少し待てと俺を制し、その目線を俺の胸元へ移した。
不器用そうな雲水の指先が、俺のシャツの首に近いボタンをひとつつまんだ。
その利き手ではない方の兄の左手は、
まるで初めてボタンを外すようなたどたどしい動きで、
やっとのことでひとつ、俺のシャツのボタンをはずした。
そのぎこちなくもどかしい動作に、思わず咽が鳴った。
音に気付いて、兄が目を上げる。
俺はどんな顔をしていたんだろう。多分、余裕のない面だったんだろう。
少し照れくさそうに、雲水は笑った。
花のようにとは言わないが、普段の堅い何かがほつれるような自然な顔だった。
その顔を俺は知っていた。そう、こいつは確か、
お兄ちゃんだ。
俺の胸は言いようのない切なさで引き絞られたが、
すでに雲水は2つ目のボタンに取りかかっている。
どうせまた待てを食らうのだろうから、
俺は自分のシャツのボタンが外されるのをじっと待った。
2つ。
3つ。
4つ。
俺はたまらず息をつく。
子どもの着替えでも見ているような、もたついて時間のかかるその手つきに、
触れられてもいないのに、身体に籠った熱が一層温度を上げる。
5つ。
これで終わりだというようにシャツの合わせがだらりと力を抜いた。
最後のボタンから離れた左手が、こんどは俺の右肩に乗る。
力のこもった手のひらが座れと言っている。
俺達が生まれたときにはすでにこの6畳間に敷かれていた畳に、俺は膝をついた。
肩にのった手は、今度は前から後へ押すように俺を促す。
俺はもう完全に、逆らう気力をなくしていた。
好きにしてください、言葉にすればそんな感じだ。
そして、生まれて初めて俺は押し倒された。
組んだままの左手の甲が古畳におしつけられる。仰いだ天上に雲水の姿はすでにない。
雲水は俺に覆いかぶさって首筋に顔を埋め、
目を瞑っても思い出せるその唇を俺の肌に這わせた。
その湿った感触に、俺の身体は思わず波打った。
はだけたシャツから侵入していた雲水の左手が胸を這っている事に気付き、
いっそ殺してくれと思うほど俺の身体は昂ぶった。
俺がこの手でひとつひとつ丁寧にボタンを外し、
弟のシャツをはだけてやった。
もちろん病気の弟の着替えをさせてやるとか、
弟は手を怪我しているからとかそういう状況ではなく。
薄いシャツの生地の向こう側の、弟の汗ばんだ皮膚や筋肉や身体の線を見たかったからだ。
直接に触れて、撫で回したかったからだ。
舌を這わせたかったし、もっと汗をかかせてやりたかった。
俺が剥きだしにした弟の身体は、いったいいつの間にと思うほど、
逞しくがっしりと筋肉を纏っていた。
そのゆるぎない腹筋が爆発的に緊張したと思った瞬間、俺の世界は反転した。
どっという音と衝撃と同時に、俺の背中は今、畳に押し付けられている。
組んだ右の手の甲が駄目押しのように、すりきれるほど畳に押し付けられた。
まるで虫ピンを打たれたようだ。今度は俺が押し倒されたらしい。
誰がどうやっても敵わない阿含の筋力に、
いとも簡単に古畳にたたきつけられた自分に、
身体が興奮し、どっと汗をかいた。
目のまわりを赤く滲ませ、シャツを肩まではだけた阿含は、
遠慮なく俺に体重をかけた。
強烈に肺が圧迫される物理的な息苦しさにさえ、俺はたまらなく興奮した。
阿含の背中はシャツがあたたかく湿るほど熱を持ち、
俺の耳が阿含の吐いた息で濡れるほど、阿含の息が熱い。
俺に欲情しているのだと、全身で訴えている。
それほどの興奮状態にもかかわらず、阿含は利き手ではない右手で、
器用に俺のベルトの金具を外してみせた。
ああ、こいつはこいつの意思や本能に関わらず、
こう冷たく身体が動くのだと思うと、
甘いようなつらいようなものがぐっと込み上げる。
阿含はベルトを外した器用さとは別人のような焦った動作で、
俺のポロシャツを鎖骨までまくり上げると、何度も場所を変えながら、
唇で肌をきつく吸い上げた。吸い上げる頬が幼くすぼまる。
興奮状態で理性を失いかけている阿含のそれは愛撫というにはほど遠く、
甘いというよりも痛く、その痛みが強烈に甘い。
血液が皮膚越しに吸い上げられるたび、背骨が震えるような感覚は強力で、
俺は奥歯を噛み締めてその甘さに耐える事に全神経を集中した。
こんなにも俺達の乱れた息が狭い6畳間に充満しているのに、
天井から下がった蛍光灯の紐が、微動だにせずまっすぐ垂れているのが不思議だった。
古畳のにおいと阿含のにおいが混じりあって、眩暈がする。
「阿含、もう」
何時間ぶりに発した声は、かすれてほとんど言葉の形をなさなかった。
爬虫類のように俺の胸を這っていた阿含は、呼ばれた獣のように目を上げ、
返事のかわりにオスには不要のはずの胸の突起を俺に見せつけるように赤い舌でなめた。
「もう、早くしろ」
俺の身体は知っているのだ。
阿含がどれだけ欲情しても、疼かない場所が俺は疼く。
阿含は自分もたまらないのだと言うように俺の足に腰を押しつけ、
繋いでいないほうの右手を俺に向かって伸ばすと、
きっと俺とそっくりであろう節の目立つ指を、無遠慮に俺の口にねじ込んだ。
俺は待ち遠しかったというように舌をからませて、阿含の指を濡らす。
兄に興奮して腰をこすりつけてくる弟にも、
弟の指を夢中になってしゃぶる自分にも、
自分ではどうしようもなく昂ってしまう。
濡れた阿含の指先が俺の舌を離れ、疼きの中心にゆっくりと押し入ってくると、
俺はもう声と息を抑えきれなくなっていた。
阿含は欲望の熱の浮かんだ、それでいておそろしく真剣な目で俺をときどき窺った。
手を伸ばし、弟の髪と融合したごわごわとした偽物の髪を掴み、
耳を口元までひきよせた。
「もっと、奥だ」
俺が吐息と一緒にそう吐きだすと、阿含の右手の指は少し戸惑いながら、
いっそう奥へと侵入してきた。
ある地点で意識せず身体が勝手に波打ち、俺は無意識に阿含の髪を握りしめた。
阿含が切なげに息をつく。
俺は阿含の声を俺はどのくら聞いていないのだろう。
猫が餌をねだるように阿含が首筋に頬をすりよせる。
おそらく猫と言いたい事はあまり変らないだろう。
俺はうなずく。
阿含は身体を起こすと、俺の太股にたまっていたジーパンを引きずりおろし、
はだけたシャツはそのままに自分の軍物のパンツのジッパーを下げた。
そしてもう一度俺に口付けすると、膝を押し開け、間に身体を入れて腰を据えた。
「雲水」
久しぶりに聞いた阿含の声は別人のようで、
俺はその声の意外さにはっとして、足の間に身体を割込ませている弟を見た。
阿含はまぶたも目のふちも白目さえも、狂気じみた赤に染め、
そのどろりとした眼差しでじっと俺を見た。
ほんの数秒か十数秒だったのだろうが、ほんの一瞬冷静になるには充分な時間だった。
俺の両足の間に身体を割込ませているいる人間は、
かつて同じ浴衣を着て金魚すくいをし、
この部屋で布団を並べて育った、
弟の大きくなった姿なのだ。
うすく開いた唇から濡れた舌がのぞいたかと思うと、
阿含はぺろりと舌なめずりした。弟の記憶と男のにおいがまじりあった表情。
その後、唇を一週した舌が歯の奥へ戻る瞬間を俺は見ていない。
阿含は一気に腰を進めて俺を貫き、嵐のように俺を揺さぶった。
一瞬で意識が遠のきかけるほどの刺激が俺を襲い、
全くと言っていいほど自分を保てなくなった。
「だめだ、アッ…あごん!」
俺はとぎれてうわずった声で必死に訴えたが、阿含はちっとも耳を貸さなかった。
スピードはゆるまず、阿含の額から流れた汗が俺の胸にいくつも降った。
遠のく意識を許さないとでも言うように、
阿含は時々思い出したようにの舌や、耳、首筋を吸った。
「と、まれ…って」
このまま揺さぶられ続けたら、俺はきっと自分で自分の意識を手放してしまう。
それはみたことのないほどの快楽の予感でもあるし、
狂ってしまうのではないという恐怖でもあった。
阿含の打ち付ける勢いが、いとも簡単に恐怖の方を打ち消してしまう事がまた恐ろしい。
俺は絞り出すように懇願した。頼む阿含、俺に俺を保たせてくれ。
「やだよ」
そう言って一層深くに打ち込んだ阿含の笑みはおそろしく悪魔的で、
俺の意識と身体の芯のような部分が、無抵抗にどろっと溶けるのがわかった。
そうだ、俺を保つ必要なんかない。
このままお前がぜんぶ溶かせばいい。
俺は意識が途切れる間際になんとか声を搾り出した。
「阿含っも、っとだ」
「おい、こたつで寝るな」
泥沼のような意識のなかに響いたその清冽な声は、
朝日のようにさわやかで、世界一うっとおしい。
「阿含」
咽がからからに乾いてる。
俺は胸までこたつに埋まりながら、薄目をあけた。
全身の血がどろりと停滞している。
「起きろ」
たったいま外から帰って来たばかりだという事が、
赤い頬と肩にかけた鞄でわかる。
雲水は立ったまま俺を見下ろし、
俺が目を開けた事を確認すると、肩に下げていた鞄を下ろした。
土曜の今日、こいつが帰って来たという事は今は昼過ぎなのだろう。
なぜなら土曜日の練習は11時に終るからだ。
「まだ降ってんの」
俺は身体を起こして飲みかけのペットボトルの水を飲んだ。
雲水はああ、と返事をして鞄を漁ると一枚のコピー用紙を取り出し、俺に差し出した。
「なに」
4つに折り畳まれたそれは2月の冷たさだ。
心なしか堅く張りつめているようにさえ感じる。
「今日、発表だったんだ。春の代表」
雲水がそう言うと、暖房器具がこたつだけの部屋に白い息が漂った。
きれるような冷たさのA4用紙をひらくと、
ぶっきらぼうにポジションと氏名、学年だけがゴシック体で印刷されていた。
「…お前いねえじゃん」
その白い紙の上に金剛雲水の形をしたインクはなかった。
「まだ一週間、謹慎がのこってる」
雲水は謹慎前、準レギュラーの座を獲得してはいたが、
半年間の出場停止を喰らい、それは春のレギュラー選考まで響いていた。
しかし逆に言えば、結果さえ残していればそれでいいという部の性格。
一週間後、謹慎明けの雲水がレギュラー入りする事はおおいにあり得る、
というより雲水や部のメンバーは皆そのつもりでいる。
実力からいってそれは当然の事だ、と。
つまり自分の名がないのは形式上、一時的にというだけで、
実力でいえばレギュラーなのだと、こいつは言っているのだ。
俺が興味なさげにコピー用紙をたたもうとした瞬間、雲水はめざとく言った。
「上から4番目だ」
雲水はいやがらせのような丁寧さで、見るべき場所を指示した。
自分の名前だ。一瞬で目に入るに決まってる。
雲水はそれをわかっていて言っているのだ。
「俺も謹慎中なんですけど」
金剛阿含の形のインクを、極力視界にいれないように務めながら、俺は言った。
返ってくる台詞もだいたい予想できる。
"お前のは謹慎じゃない、ただのサボリだ"
雲水が謹慎になってから、俺は練習にも、もちろん試合にも出ていない。
ただの一度もだ。それなのに俺の名前はしっかりと代表に入っている。
俺は紙をこたつの上に放ると、兄を見た。
「悔しい?」
雲水は冷たい畳の上にしゃがんだまま、じっと俺を見た。
「…ちょっとな」
たいして悔しくもなさそうに言いながら雲水は再び立ち上がり、
さっき入ってきたばかりであろう居間のガラス戸を開けた。
廊下から予想以上の冷気が流れ込み、
自分の着ているパーカがひどく薄いものに感じる。
「走ってくる」
雲水は道着にマフラーを巻いたままの格好で、居間を出た。
よく見ると、道着の肩が濡れて色が一段低く沈んでいる。
「は?雪だろ外」
俺の言葉など聞こえていないかのように、
雲水はもう一度「走ってくる」と言ってガラス戸を閉め、
玄関に向かう足音を廊下に響かせた。
昨日の晩から降り続けているのだ。雪が。
降り積もる白い氷の結晶のつくりだす寒さは尋常ではなく、
俺は便所へ行くのさえも億劫だ。
雪の日の静けさのなかに聞き覚えのある、機械的な振動音が聞こえる。
鞄のポケットから半分はみ出ている雲水の携帯が、ちかちかと点滅している。
雲水はまだ家の中にいるだろう、呼んで知らせてやろうと思った瞬間、
がらがらと玄関の戸がひらき、がらがらと閉まるという、
幼い頃から聞き続けた音が聞こえた。
ほんの少し遅かったらしい。
俺は腹這いになって鞄へ手を伸ばし、唸りつづける雲水の携帯を引っ張りだした。
玄関でジョギング用の靴を履く時、
何か違和感を感じると思ったら、俺は制服の道着のままだった。
走るには不向きだが、今はトレーニングの為というよりはただ走り、
息を切らす事が重要な事だと感じたのでそのまま家を出た。
学校から帰って来た道は、雪そのものではなく、
ねずみ色のこごえた水溜まりだった。あの道を走るのはさすがに気が引ける。
俺は家の裏手の細い道の方向へ走り出した。
ほとんど人に踏まれていないふんわりとした雪を踏んで走るのは、
スピードを落としていても神経を使い、意外に疲れるものだった。
靴底に雪が溜まり、思いの外滑る。
吐く息はとてつもなく濃く、その煙のような息を吐いては追い越しながら俺は走る。
ちらちらと降る可憐な雪も、皮膚に触れればすぐに溶け、
冷たいしずくとなって額や拳を濡らしていく。
耳の先の感覚が痺れるように麻痺し、
スニーカーにまとわりつく雪はやがて靴下を濡らした。
…寒い。
まったく気が知れないとお前は悪態をつくんだろう。
本当は知っているくせに。
「まあな」
俺が雲水の携帯に出ると液晶に浮かんだ「細川一休」の文字は、
電話に出た人間を雲水だと疑いもせず、寝てました?と言った。
俺と雲水の声の区別がつかないのに、寝起きの声はわかるのかと思いながら、
俺は再びこたつにもぐりこんだ。
この部屋はいくら足下が温かくても室温が低すぎる。
「あー、さみ」
「…てか、阿含さんじゃないっすか?」
「おう」
「もー、先に言って下さいよ。あ、じゃあ雲水さんから聞きました?」
「何を」
「作戦っす」
その現実離れしたことばの響きに俺が答えずにいると、
一休はかまわずたたみかけた。
「雲水さんが考えて来たんすよ、俺と阿含さんと雲水さんでやろうって」
「作戦…ってなんだよ」
「…は?アメフトに決まってるじゃないすか」
電話の向こうの一休の声はじれったそうに苛立った。
アメフトでは「作戦」なんて冗談みたいな言葉を自然に使うものなのか。
俺はふうんと鼻をならして適当にこたえた。
「今いねーんだよ、走りに出てる」
「走る?いま雪、降ってますよ」
「らしーな」
俺は仰向けになって胸までこたつに入り、わざわざ雪道を走る心情を思った。
ガキの頃からこの辺で雪が降った記憶はあまりない。
朝、庭を眺めたくらいで、俺はこの街に雪が積もる様子を上手く想像できなかった。
室内でさえ白いこの息は、雪よりも白いのか?
ああ、白い。
いくら吐いてもこの息の濃さは少しも薄まらないらしい。
雪でどろどろになった足が、いつのまにか止っていた。
目の前に広がるその場所はどこまでも白く、広い。
俺は、突然登場した雪原が一瞬、どこかわからなかった。
雪の結晶でできているかのように白いゴールポストが見えなければ。
普段はどろだらけの少年たちでにぎわう市営グラウンドは、
誰にも踏まれない無垢の白が広がっている。誰もいない。
無意識にこの場所へ到着したことに何か因縁じみたものさえ感じた。
そうか。
俺はまた、代表に選ばれなかったんだな。
雪のせいかあたりに人の気配はなく、まるで異世界のような静けさで、
自分の吐く息の音と、早い鼓動だけがやけに大きく聞こえる。
まるで世界に自分ひとり、取り残されてしまったようだ。
「雲水が呼んでくれたら、行ってやんよ」
「なにを子供みたいな事を…
阿含さんがいれば、おもしろいことができるのに」
「うるっせえな。やりゃあいいだろ、じゃあ」
「はい?でもだって」
「雲水の作戦の中に、俺もいんだろ?」
そうだな。
俺はいつも、取り残されているのかもしれない。
白く広く、寒く、厳しい世界に。
「だから、行ってやるって言ってんだよ」
ここは阿含のいる世界だ。
「雲水がいる所ならな」
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