ビルとビルの間は谷間のように深く、
その谷の底には川のようにアスファルトの道路が走っている。
コンクリート、鉄とガラス、それとほんの少しの緑で形成された街。
その谷底の道路を、ひとりの少年が走っていた。
午前11時すこし前。
すでに人とガスと煙に、朝の空気は消えはじめていたが、秋晴れが心地よい。
少年の足取りは軽く、時折うしろを振り返りながらも、
どこかへ向かっているように見えた。




Go! SENA Go!
Vol.1“starting line




「あら、日曜なのにずいぶん早いじゃない」
彼女はすこし驚いたように息子を眺めた。
「うん。ちょっと約束があるんだ。牛乳ある?」
午前8時45分。
セナはすでに着替えを済ませ、台所にいる母親の前に姿を見せた。
「部活は?」
そう言ってセナの母美生は、息子の前にグラス一杯の牛乳を置いた。
「休み」
セナは牛乳の入ったグラスに口をつけたまま答えた。
「珍しいわね。食べる?」
美生はたった今卵を落としたばかりのフライパンを、セナに持ち上げて見せた。
「ううん。いいや。もうすぐ出るから」
セナはそう言って牛乳を飲み干すと、歯磨きをすませ、
小さなウエストバッグを肩からななめに掛けると、母親に夕飯には帰ると伝えて玄関を出た。

「うわあ、いい天気だなあ」

セナは誰に言うでもなく、そう言った。
空気はひやりとしていて、陽射しはあたたかい。
庭の金木犀が香り、それだけでセナは嬉しくてたまらなかった。
平日も休日もアメフトだらけだった。
不満はないし、とても充実している。
けれど休みは休みで嬉しい。私服で外に出かけるのも随分と久しぶりだ。
買い物に行く暇もなかったから、去年着ていた濃紺のパーカを今朝ひっぱりだした。
パーカのポケットに両手を突っ込んで、セナは歩き出した。

まだ時刻は午前9時過ぎだ。
どの店も開店していないし、家を出るには早すぎる。
いくら電車に乗るとはいえ、約束の時間の4、50分前に到着してしまうだろう。
それでも良かった。
久しぶりの休みにセナは外に出たくてたまらなかった。
早すぎるならぶらぶらしながら行けばいい。幸い天気は良いし、朝の空気は気持ちがいい。

休日なら混みあう駅前も、開店前とあってはまだまだ人はいなかった。
駅前の駐輪場を横切ろうとしたセナの耳に、もの凄い音が突然飛び込んできた。
驚いて駐輪場を覗くと、きっと無断駐輪や放置自転車もたくさんああるのだろう、
すき間なく並んでいるはずの何十台という自転車が、全て倒れていた。しかも同じ方向に。
自分の自転車を引きだすか、駐輪場を通り抜けようとしてぶつかったかで、
ドミノ倒しに倒れたのだろう。
この駐輪場は駅への近道になる。
セナも朝練に遅刻しそうな時に、たびたび活用している。
ただし、両脇に自転車がひしめきあっているものだから、
うっかりするとこの様に自転車を総倒ししてしまうので、ダッシュはできない。
その為本当に時間の節約になっているかどうかは謎だが、気持ちの問題だろう。
どうやら今自転車を総倒しにした主は、走って通り抜けようとして失敗したようだ。
足を引っかけでもしたのだろう。うつ伏せに転んでいる。
普通この何十台もの自転車を倒すと、うんざりと全て起こすか、
知らぬ振りで逃げるかのどちらかなのだが。

起き上がらない。ぴくりともしないのだ。
見たところ自分と同じか、すこし年上くらいの少年に見える。
長めの茶色い髪に、大きめのスウェット。
セナは足をとめ、しばらく様子を見ていたが、倒れた若者は起き上がる気配を見せなかった。
もしかしたら病気で倒れたのかも。
セナはモーゼの十戒よろしく両脇にみごとに倒れた自転車の道に入り、若者の側へ近づいた。

「あ、あの、大丈夫ですか?」

「・・・・・・」

応答はない。

「具合、悪いんですか?」

「・・・・・・」

セナの声が聞こえている様には見えない。
うつ伏せになっているので表情はわからないが、もし一刻を争う病気だったら大変だ。
「もしもし」
セナは若者の背に手を伸ばし、軽く揺すって呼びかけた。

がばぁっ

セナに身体を揺すられ、弾かれた様に若者は上半身を起こした。

「うっわ!!」
驚いたのはセナだ。
突然若者がよみがえったからだけではない。その若者の顔は。

「ち、ち、血がっ」
血だらけだったのだ。さらには右目には漫画の様な青あざがあり、白目は充血している。
若者は飛び起きようとしたが、他にも怪我をしているらしく、ちいさく呻いた。
病人じゃない。喧嘩の怪我だ。
セナはとんだ人に声を掛けてしまったと後悔した。
こんな早い時間に血だらけで喧嘩するような人種に、セナは良い目にあったためしがない。
若者はすばやく左右を確認し、腫れた顔でセナの顔を見た。
やはり、若い。
けれども殴られたらしい右目はどんよりとして焦点が合ってないように見えた。
「悪りぃ。肩かしてくんねえか」
若者は一人では立ち上がれないらしく、セナにそう言った。
「は、はい」
セナは恐怖を覚えはしたが相手は怪我人であり、とりあえず自分には害はなさそうだ。
自分の肩に若者の腕をまわし、よろけながらもなんとか立ち上がらせた。
「だ、大丈夫ですか?」
若者は立ち上がるだけで息が上がっていた。怪我は随分ひどいらしい。

「いたぞ!!」

駐輪場の駅側から声が聞こえた。
「ヤッベ」
若者はちいさくつぶやくと、セナの肩から自立し、セナに向き直り怒鳴った。
「逃げろ!はやく!!」
セナは返事が出来なかった。
7、8人?いや10人はいるだろうか?(いかにもワルイ)といった感じの若者が、
こちらへ血相変えて走ってくる。
とはいえ、何十台もの自転車の倒れた通路は狭く、もたつきながらほぼ一列になって来るため、
たいした速さではないが。

「はやく行けって!」
こちらの退路も、倒れた自転車がひしめいているのだ。
セナがボサっと突っ立っていたのでは、若者も逃げる事ができない。セナの背をどん、と押した。
追ってくる集団は口々になにか汚い言葉を叫んで向かって来ているが、やはり自転車にもたついている。
セナはきびすを返すと、倒れた自転車を器用に避けて走り、
もと来た駅前通りへ出て駅方面へ走りだした。
驚きと緊張で、セナの心臓は暴れていた。

あの若者はどうやら追われていたらしい。
あの身体であの集団から逃げ切れるのだろうか?
けれどもそれは彼の問題でセナには関係のない事だ。関係があると思われたら厄介なのだ。
セナはただ、通りすがっただけなのだから。
駅前をすこしぶらつくつもりでいたが、すぐに電車へ乗ってしまおう。
出来るだけ離れるに越した事はない。
セナは駅前のアーケードのある商店街を、後を振り返りもせずに走った。

セナに助けられた若者は、なんとか駐輪場を出る事ができた。
自分を助けたひよわそうな少年が、信じられない動きで駐輪場を出たのには驚いた。
少年がすでに駅前商店街の彼方まで遠ざかった事を確認し、
若者は腫れた顔で、安心したようにニっと笑った。
そして足をひきずりながら、セナの走り去った駅方面とは逆方向に走り出した。

今の自分では奴等から逃げ切れないかもしれない。

でも、あの少年なら奴等に捕まることはないだろう。

たぶん大して顔は見られていないし、予想以上に足が速いのが幸いだ。
若者は走りながらジーパンの尻ポケットから携帯電話を取りだし、
発信履歴をさぐって通話ボタンを押した。2コール足らずで相手は出た。
「ケンジ?オレ捕まっかも。カネは大丈夫。今ドコ?
写真屋・・・駅前か?」
走れる状態ではない身体で走り、なおかつ電話をしているため、
彼の息は激しく上がり、走るスピードは歩くようなものだった。

「こっちだ!」

駐輪場を出た集団はすぐに彼の姿を見つけ、セナの走り去った方向には目もくれず追ってきた。
今度は障害物などない直線だ。
若者は集団の姿を認めると、通話の相手に矢継ぎ早に用件を告げた。

「写真屋の前で張ってろ!多分すぐ通る、

紺のパーカーで肩から黄色いウエストバッグ背負ってるチビだ!

そいつにカネはもたせてあっから、ゼッテェ捕まえろ!」


商店街のおわり、あの写真屋の角を曲がれば、もう駅が見える。
電車に乗ってしまえば、安心だろう。
ここでセナはいちど振り返った。まだ開店前の商店街は閑散としており、
駅へ向かう人影がポツポツとあるだけで、強面の集団の姿など見当たらない。
セナは脚を止める気はなかったが、ひとまず安心だと胸を撫で下ろした。



セナは気付いていなかった。
セナには何の関係もない物。
得体のしれない大金。
一万円札が白い帯でまとめられている事から、おそらく百万だろう。



その金が、今どこにあるのかを。








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