緊張というものは疲労を倍増させる。 いつもの練習にくらべれば、なんてことはない距離にもセナの息は上がっていた。 息を整えつつも、セナは大理石を模した安っぽい石で造られたアーチ状の小さな入り口から、 時折頭を出して外を窺った。 セナは今、駅構内の公衆便所の中に壁に背をぴったりとつけるようにして立っていた。 まるで映画の主人公の様だ。薄汚いトイレでさえなかったら、もう少し様になるだろうか。 このトイレは改札の中にあり、セナはまだ改札を出てはいなかった。 なんとか電車内から逃れる事は出来たが、あの若者達はこの駅で降りたのだろうか? できれば降りずに電車と一緒に行ってしまってくれると有り難い。 このまま走って逃げても良かったが、セナは多少疲労していた。 もしあの若者達が電車を降りることが出来たとしても、このトイレに隠れてやりすごせばいい。 すぐに出ては見つかるかもしれない。20分か、30分かこうしていよう。 もういちど電車にのるのは恐ろしいので、あとは歩いて行けばいい。 待ちあわせ場所まではたったのひと駅だ。 待ち合わせにすこし遅れることになるかもしれないが、今のうちにメールを打っておけばいいだろう。 セナはトイレの影から階段口を見守りつつ、背中に回したウェストバッグをぐるりと前に回し、 手探りでジッパーを開けた。 プルルルルルル・・・・ 電車の発車音だ。 若者達は今のところ姿を現してはいない。 このベルの後に姿を現さなければ、車内でもたついたまま、発車してしまったと考えていいだろう。 彼らはきっと悠長に階段を登ったりはしない。必ず走ってくるはずだ。 セナはバッグを探る手を止め、階段口を見守った。 そしてすぐに頭をひっこめた。 階段口に金髪の若者の姿を認めたからだ。 まさか用を足しに来るとは思えないが、セナの心臓はまたスピードを速めはじめた。 ダッダッダッダッダ・・・・ おそらく若者のものであろう豪快な足音は、 セナのいるトイレになどわき目も振らず通り過ぎていった。 セナはおおきく、ため息をついた。 助かった。 なんとかまく事が出来たようだ。 セナは安堵の余韻にしばらく浸ると、今度はバッグの中を見ながら携帯電話を探した。 「そういえば」 セナはふと、車内でニットキャップの若者の言った言葉を思い出した。 「カネを渡せとかなんとか・・・」 金?なんのことだろう? 「カツアゲかな」 たかがカツアゲにあれほど必死こいて追ってくる人間はいないだろうが、 セナには他に何も思い浮かばなかった。 セナのウエストバッグの中の財布には、千円札が4枚が良いところである。 バッグの中には4千円ばかりが入ったサイフ、それと金融会社のポケットティッシュだけだ。 「僕、お金持ってるように見えるのかな・・・」 セナはそうつぶやいて、はっとした。 バッグの中には、財布とティッシュだけ。 セナはすばやく両手でパーカのポケットを触り、ジーパンのポケットに手を突っ込んだ。 ジーパンのポケットからは定期券が発見された。 その他ポケットには何も入っていない。(カネ)はおろか、ないのだ。今探している物が、ない。 「携帯、忘れた・・・」 「ケンジ?俺ら池尻で降りたとこ、今どこ?」 セナと(ケンジ)の電車に遅れること9分。 スタート地点の駅で電車に乗り遅れた二人は後続の電車に乗り込み、池尻大箸駅で下車していた。 「見失った?マジかよ・・・」 彼らの電話の相手はセナを追って池尻大箸駅を飛び出した(ケンジ)である。 (ケンジ)は足の速いセナに追いつくべく走っていたが、実際はセナを追い越しており、 当然ながらセナの姿が見つけられず路頭に迷っていた。 「多分逆戻りはしねぇだろ。渋谷方面に向かってろよ。俺らも探しながら追う」 彼らがセナを見つけたのは上り電車の来るホームであったので、 また元の駅方面に戻ることは考えにくい。 池尻大箸の次の停車駅、渋谷まではたったひと駅であり、充分歩いて行ける距離である。 少年は徒歩で移動するものと、カーキ色の軍物ジャケットを着たこの若者は読んだ。 「じゃな。ぜってぇ捕まえろよ」 若者はそう言って電話を切り、軍ジャケットの胸ポケットに携帯電話をねじ込んだ。 「ケンジ、見失ったわけ?」 (ケンジ)との会話をそばで聴いていた若者が訊ねる。 「らしい。けどココで降りたのは確かだ。探すしかねえな」 軍ジャケットの若者はそう言って改札への階段を上りはじめた。 「クッソ。ねこばばされてたまっかよ。100万だぜ!あのガキなにもんなんだよ!」 ツイストパーマの若者が軍ジャケットに向かって苛立ったように言った。 「知らねえよ。ただあのガキ、アレじゃ(カネ)が丸見えだ。先にサツに捕まったらやべえ」 駄目だ。やっぱりない。 余裕を持って家を出た時に限って忘れ物をするなんて。セナは自分を恨んだ。 しかし携帯電話がないとわかった以上、ここでのんびりするわけにもいかない。 本来の目的であった待ち合わせに間に合わなくなる。 なぜ自分が追われていたのかは未だ謎ではあるが、事故みたいなものだと思って忘れよう。 上手くまく事ができたのだから。 セナはウエストバッグを再び背中に回すと、一度おおきく深呼吸をして、 便所の入り口から見える改札をにらんだ。 異常はない。 皆誰かを探している様子もないし、改札に吸い込まれ、または改札を通ってホームへ向かっている。 「よし」 セナは自分に言い聞かせるようにセナは便所のトイレから踏みだした。 ゆっくり、いつもの歩調で、改札へ向かう。 大丈夫。 変わりない。 誰も追ってこない。不穏な足音も怒鳴り声も聞こえない。 セナは握りしめた定期券を改札へ入れた。 前方から定期券が顔を出す。 定期券を取り、出口へ向かう。 大丈夫。 あの金髪はもういない。 「あの、すいません!落としましたよ!」 後方から声が聞こえた。 脳裏に家に忘れてきたはずの携帯電話が浮かんだ。 セナは振り返る。 「そう、君、君」 ひとりの若者が改札を抜けながら、セナを指さした。 もしかして自分は携帯電話を忘れたのではなく、落としていたのだろうか。 セナはその若者が改札を抜けるのを待った。 若者は小走りでセナの前まで来ると、手を出した。 「・・・え?」 彼の差し出した手のひらには、何も乗っていないのだ。 セナは不思議に思い若者の顔を見上げた。 「はい。返して。100万」 若者は先程とすこしも変わらない笑顔でそう言った。 「ひゃくまん?」 セナは眉をしかめた。そして次の瞬間、理解した。 にこにこと微笑む若者の横には、もう一人同じくらいの歳の若者が立っていたのだ。 彼は決して笑ってはおらず、にこにこと微笑む若者を苛ついた顔で睨むと、次にセナを睨みつけた。 そしてポケットに突っ込んでいた手をすばやく抜きかけた。 「!」 セナは反射的に後にとびすさった。 まさか。 顔色を変えてとびすさったセナを見て、カーキ色のジャケットの若者から一瞬ほほ笑みが消え、 隣の若者を睨みつけた。 やっぱり! セナは2歩ばかり後ずさると、二人に背を向けて駆け出した。 あの金髪の仲間だったのだ。 もしかすると駅で乗り遅れた2人かもしれない。 セナは肩から斜めにかけたウエストバッグのストラップを握りしめ、 振り返りもせず出口への階段を駆け登った。 「・・チッ!」 あのまま行けば捕まえられたかもしれないのに、軍ジャケットの若者は舌打ちした。 (ケンジ)の話によるとあの少年は相当足が速いらしい。 仲間に足を引っ張られた悔しさは否めないが、追うしかない。 「早く追え!バカッ!!」 軍ジャケットが怒鳴ると、ツイストパーマは弾かれたように駆け出した。 「クソッ」 軍ジャケットも走り出した。 走りながら胸ポケットから携帯電話を取りだし、ボタンを探ると耳にあてた。 「ケンジ!奴まだ駅にいやがった!」 ひと足先に階段を登りきり、地上に出たツイストパーマが叫んだ。 「渋谷だ!」 やはり少年は渋谷方面へ向かったらしい。 「ケンジ!奴、渋谷に向かってる!渋谷に入られたら終わりだ!」 軍ジャケットはそう喋りながらも階段を登りきり、地上に出た。排気ガスでむせ返りそうだ。 池尻大箸の駅は246号線に面しており、多少の回り道、近道があるにしろ、 渋谷へ行くには車とバイクのひしめき合う、この246を行くしかない。 (ケンジ)はがむしゃらに走り、すでに渋谷近くにいる。 つまり(ケンジ)がこちらに向かえば、はさみ撃ちにできるというわけだ。 この地点から渋谷へは一本道の上り坂。 すでに少年の姿はちいさくなりつつあり、追っている仲間との距離は開いてはいるが、 この一本道なら見失うことはないだろう。 ただし、渋谷までこの追いかけっこが突入した場合、 ひとごみに紛れて捕まえるどころか、姿を見つける事さえ不可能になってしう。 警察に駆け込まれるかもしれない。 走行音に負けぬよう、軍ジャケットは電話の向こうへ叫んだ。 「246で捕まえろ!!!」 GO!>>>>Vol.5“last spurt”