最終話




午後四時を回り、肌寒かったこの日の陽気は思い出したように蒸し暑さを帯び始めていた。
すでにグラウンドで部活を始めている生徒や、下校途中の生徒の中には、
朝は寒かったのになどと言って、長袖のシャツをまくる者もいる。
校舎の北側に面しているコピー室は未だひんやりと冷たく、
そこにいる彼らは外のたっぷり湿気を含んだ気温の事など、まだ知らない。








  
通り雨








長身のヒル魔は、長い両腕をゆったりとポケットに突っ込み、その身をかがめている。
そのお陰でコピー機を背にしたセナは、ヒル魔と唇が触れ合いそうな距離から抜け出す事ができない。
コピー室のドアは今は閉まっているが、もし何も知らない生徒がそのドアを開けてしまっても、
すぐにまた閉める事だろう。
その狭い密室には尋常ではない何かが漂い、しかも一人は悪名高い蛭魔妖一である。
身体も気も弱そうな1年生が、脅迫されていると思うかもしれない。
そんな部屋に入って行けるような生徒は、教師でさえもこの泥門高校には誰一人もいない。

「言えよ」
ヒル魔は今日何度目かの台詞を言った。
実際セナは蛇に睨まれた蛙であった。
自分がもう逃げる事ができない事を知っている利口な蛙。
先程うっかりヒル魔の目を見てしまったセナは、もう目をそらす事ができなくなっていた。
このままこの場をやりすごすことはできない。セナは一刻一刻思い知らされた。
自分のこの小さな身体では足りない、もっとずっと奥深くからもう喉もとまで、
言葉がせり上がっている。
今この瞬間、ただ意地だけでその言葉を押しとどめている。
つらく長かった一週間の意地。
しかしそれがそう長くは持たない事も知っている。
ヒル魔は片手をズボンのポケットから抜くと、
緩慢な動作でセナの頭のちょうど耳の上あたりの髪に、指を梳き入れた。
そしてその涼しい切れ長な目を細め、言った。

「ん?」

彼の発した言葉は、文字にすればひとふでで書けてしまうほど単純なものであったが、
セナはそのひとふでから、どうした言わねぇのか、なら話は終わりだ。
そんなにおいを嗅ぎ取った。
「・・・・です」
やっと発せられたあまりに小さいセナの声に、ヒル魔はもう一度「ん?」と言ってやる事はなかった。
ただ、待ち伏せた。
セナはもう大分長い間まばたきを忘れている。
その大きく晒された眼球を保護すべく、彼の涙腺はゆるみ薄い水の膜を瞳に張らせた。
セナの唇が、動く。

「キスして・・・・欲しいです」

遂に言葉となって現れた声も、水におおわれた目も、どこか惚けてセナは操られているようだった。
本人もまた、そう自覚した。
ヒル魔はセナの言葉を聞き、少し驚いたように目を見開いたが、
彼の特異ともいえる長い指をセナの後頭部へ回し、すこし力をこめた。
ほんの数センチの距離しかなかった二人の額はこつん、とぶつかり合う。

「バーカ。そうじゃねぇだろ」
そう言った彼の声はあきれていたが、その目もとは多少血の色が透けているように見える。


・・・・・・・・・。


「・・・・オイ」
ヒル魔が沈黙を破る。
「はい?」
セナはとぼけた声で応える。
ヒル魔はその赤い目もとをしかめ、言う。

「目ェ閉じろよ。今日は暗くねぇんだからよ」

そう言い終わったか終わらないか。セナが目を閉じたか閉じないかの内に、
ヒル魔はセナとの唇の距離を、
ゼロにした。







「んだよ、糞アチーな」
ヒル魔は部室に急ぐべく、昇降口を出た。
セナはその横に立っていた。
花火大会の後、いつもの日常が一瞬で反転してしまったように、セナの目に映る風景はまた一転していた。
一見ぼうっとして見えるが、今彼の頭の中は凄まじい思考の台風だった。
そのほとんどは戸惑いにまぎれた幸福感であったが、ひとつだけ実態のある不安があった。
「ヒル魔さん」
すでに部室へ向かい歩き始めているヒル魔の背中に向かって言った。
「何だ」
ヒル魔は足を止めずに応える。
「ヒル魔さんは、言ってくれないんですか」
セナは先程の告白に弾みがついたのか、あれにくらべれば大した事ではないと思ったのか、
素直に不満を口にした。
ヒル魔は背後で立ち尽くすセナを振り返り、足を止めた。
自分を見たヒル魔の表情に何の感情も浮かんでいない事に、セナは少し調子に乗った事を後悔した。
そんなセナの顔をヒル魔はしばらく眺めていたが、やがてまた進行方向へ向きを替え、歩き出した。
俯いていたセナはその気配に気付き、後を追おうと足を踏みだした時、

「あとで言ってやんよ」
ヒル魔が言った。
どうして(あとで)なんですか?
セナは多少不満に思ったが、その(あとで)の事を考え頬が火照るのを感じ、急いでヒル魔の後を追った。





「ア!しまった!もう6時だわ!!」
放課後の練習も後半、姉崎まもりが声をあげた。
「6時だと、何かあるんスか?」
震える膝頭を両手で支えたモン太が聞いた。セナも同じようなポーズで息を整えている。
ヒル魔が練習に持って来いだと思った気温は、今や重たいほどに水分を含みじっとりとしている。
太陽は出ていない曇り空だというのに、運動をしていないまもりでさえうすく汗をかいている程だ。
部員達は肌に髪を張り付かせ、次々に流れる汗を拭うのも面倒だとそのままにしている。
先程から吹き始めた風が多少のなぐさめになってはいるが、
その風もまた部員達の肌をべたつかせる。
「買いだし!テーピング買わなきゃいけなかったの。多田スポーツ6時で閉まっちゃう!」
「明日じゃだめなの?」
栗田がのんびりと尋ねる。
「明日は定休日なのよ〜」
まもりが即座に応える。
「僕、行ってくるよ」
さっきまで地面にへたりこまんばかりにだれていたセナが、すばやく姿勢を正して言った。
そのスポーツショップまでは歩いて15分かそこらの距離であるが、
時間はもうすでに6時まで5分をきっている。
自転車を取りに行っている暇はない。間に合いそうなのは自分の足だけである。
「本当?じゃあ240円のテーピング1ケース、お願い!」
まもりが口早に言うのを聞くやいなや、セナはわかった、とひとことだけ言って地面を蹴った。
部員達はこういう時、いつも錯覚のような妙な感覚に襲われる。
走り去るセナの背中があまりに常識を越えた早さで遠ざかるので、一瞬夢をみているような感覚におちいるのだ。
けれどもその小さな背中の頼もしさに、全員胸を撫で下ろした。
「あっ!」
再びまもりが声をあげた。
「セナ、お金持ってないじゃない・・・」
脱力した声で、まもりが言った。
いくら閉店時間に間に合ったからといって、代金を持ってないのでは意味がない。
セナの姿はもうすでに小さく、彼の脚ではもうすぐ校門をくぐってしまうだろう。

「セーナァーーー!!戻ってこーーーーーい!!!」
モン太が声を張り上げ呼んだ。
しかし野球部で鍛えた声も一層強くなった風に押し流され、かき消されてしまった。セナは止らない。
「セナーーー!!」
まもりもありったけの声で呼んだ。
「セナくーーーーん!!」
栗田も加勢するが、セナの姿は小さくなる一方だ。

キィン

耳を突き刺すようなその音に、3人は振り返った。
いつのまにかそこにはヒル魔が立っている。
手にはハンドスピーカーを持って。体育祭の練習なんかで教師が使う、いわゆる拡声器だ。
先程の音は、その拡声器のスイッチを入れた時特有のものだった。
ヒル魔はスピーカー部分を手で叩き、マイクテストをしている。ボンボンというかすれた音が拡張される。
どうやら正常に機能しているようだ。
その音量ならセナが少しくらい遠くに行こうとも、風が強かろうともおそらく届くであろう。
部員達は呼ぶのをやめた。
ヒル魔はスピーカーの調子に納得したらしく、そのラッパ状の拡声器を顔の前にかまえた。

・・・・・・・・・・・・。

なぜ沈黙する?
モン太などは身体の支えを外されたように、カクッと体勢を崩した。
全員がわからないといった表情で、ヒル魔を振り返った。
ヒル魔はハンドスピーカーを構え、片手は腰に当てられている。
主に左足に重心をかけた体勢で立ち、右足は地面に投げ出されている格好だ。
ヒル魔はスピーカーを構えた体勢を崩さず、3人の視線が集まるのを待っていたかのように、
目線だけを動かし三人の顔をゆっくりと一巡した。
そして視線をまた遥かセナの姿に戻し、大きく口の両端を釣り上げた。犬歯のような八重歯が見える。
笑ったのだ。
そしてスゥ、と息を吸い込みスピーカーに向けて言った。


「カネ忘れてんぞーーー!!戻ってきやがれーー!!!!」












「セナ!!!」








この日の部活を中断させるであろう通り雨の最初の一粒が、
立ち止まったセナの靴先に落ちた。









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end.


●通り雨のあと
 
番外編。オマケ。