2.蝉






「しかし昨日のヒル魔先輩、おかしかったよな。あの後帰って来なかったし」

近所のセナの家に寄って、一緒に朝練に行くのは今や当たり前の事になってる。
目覚ましが鳴ったら止める。それとおんなじくらい、自然な習慣だ。
今は夏の盛りだが、まだ7時を回ってないので、空気はまだよどんでいなくてサワヤカだ。
けれども空気とは裏腹に、すでに鳴いているアブラゼミが、今日も暑くなるぞと警告している。
朝の話題は主に部活の事、昨日学校であった事、テストの結果とか昨日のテレビの事なんかが多い。
俺とセナは週イチで深夜にやる、お笑い番組を楽しみにしているが、疲れちまって観れない事もある。
俺が観ててもセナが観てないと、やっぱつまんねえ。

それはそうと、今日の話題はやっぱ昨日の事件だろう。
「うん。どうしちゃったんだろう。ヒル魔さん・・・」
青い空とサワヤカな空気と対照的な色が、セナの顔に浮かぶ。

あ。
コイツヒル魔先輩が突然出て行ったのは、自分のせいかも、とか思ってんな。
毎日かなりの時間一緒にいるんだ。いくらニブイオレでもそのくらい気づく。
「お前、あん時なんか言ったか?」
今の俺は刑事だ。コイツの疑惑と事件を解決し、いつものコイツを取り戻す。
俺はセナのとなりに座っていたのだから、一部始終は把握していたが、一応念の為聞いてみる。

「名前で呼んでみて下さいって言っただけ」
そりゃ俺も聞いてる。
「ただヒル魔さんの顔が・・・」
「顔が?」
「・・・いやっ、何でもない!」
そう言ってうつむいちまった。
顔が何なのか気になるが、コイツがこうなっちまったらもう、どうにもならねえ。
気が弱そうに見えて、ヘンなとこでガンコなんだよな、コイツ。
これ以上の自白は望めねえ。刑事はやめだ。

「お前の名前呼ぶとなんか都合の悪い事でもあんのかな。例えば…」
言いかけた事には触れず、俺はできるだけ神妙な顔で話を進めた。
「例えば?」
やっと顔を上げたセナが興味ありげにこちらを見て促す。

「・・・ヒキガエルになっちまうとか」
ぷっとセナがふきだした。よし、成功。こうなりゃこっちのモンだ。
「悪い魔法使いに呪いをかけられててよ」俺は想像できる限りの、悪い魔法使いの顔を作って言った。
イメージとしてはディズニーアニメの魔女の顔だ。
「僕の名前を呼ぶとカエルになっちゃうんだ」笑いの混じった声でセナが言った。
多分今、俺らの頭の上にはマンガみたいなフキダシが浮かんでて、そこには目つきの悪いカエルがいるだろう。
「ぷっ」

「ぶわはははははは!」
こんな早朝から、これだけバカ笑いしてるのなんか、俺らくらいなもんだ。
アブラゼミだってもうちょっと控えめだ。
ひとしきり笑った後、目に涙を溜めたセナが言った。
「でもさ」
「ヒル魔さんはどちらかと言えば、魔法使いの方だよ」



部室につくと、例のヒル魔先輩が一人、着替えている最中だった。
俺らがどんなに早く来ても、栗田さんとヒル魔さんは先に来ている。
後輩のメンモクが潰れるから、もう少し遅くてもいいんだけど…。
家が近いんだろうか?そういえばこの人何処に住んでるとか聞いた事ないな。
「おはようございます」俺は先輩の背中に声をかけた。
裸の半身にユニフォームの袖を通しながら、こっちをちらっと見て、俺とセナの顔を確認して、また着替えを再開し、
「おう」とだけ言った。
この人は絶対「おはよう」とは言わない。なんでか知らないけど。だいたい「おう」とか「早えぇな」とか。
俺の後からセナがひかえめに、おはようございます。と言った。先輩は今度はこっちを見ずに、
「おう」ともう一度言った。

三人、黙々と着替える。アブラゼミがさっきより元気になった気がする。
俺は沈黙が苦手だ。なんとなく気まずい。
絶えられず
「先輩、昨日カゼひかなかったッスか?」あの場にいた人間ならごく当然の、質問をしてみた。
空気ってのは絶えず空間を動き続けてるモンだ。日なたに舞ってるほこりを見るとわかるように。
その空気がピタっと止った気がした。

「オメーら貧弱と一緒にすんな」先輩は着替えてる手を止めることなく言った。
オレはさっきの質問で、暗に「なぜあんなどしゃ降りの中、突然出て行ったのか?」
という事を含んだつもりだったんだけど、それに答える気はないらしい。
先輩はひと足先に着替えを終え、あとは何も言わず部室を出ていった。
まあ、あの人がそっけないのはいつもの事だ。気分屋なのも。
オレはしばらく先輩の出ていったドアを見ていたが、また着替えに取りかかった。
セナも少しボケッとしてたけど、突然我に返って、がむしゃらに着替え始めた。
頭に浮かんだ悪い事を、おっぱらうように。

その後の朝練は、あれから人数が増えた事もあってか、特に気まずい様な事はなかった。
ヒル魔先輩も普通だった。ただこれはオレの意見であって、セナは違ったかもしれない。
なんかぎこちなかった様に思う。でも、まあ、大したことない。
事件はその日の放課後の部活で起こったんだ。


日は沈みかけ、いつのまにかアブラゼミはヒグラシと交代し、そろそろ片づけを始めようかという頃、
何か用事を言いつけようとしたヒル魔先輩が、
「おい!糞チビ!!」
少し離れた場所にいたセナを大声で呼んだ。
「ちょっと!」
今度はまもりさんが怒鳴った。
「いい加減セナの事、糞チビって呼ぶのやめてくれない?セナにはちゃんと名前があるんだから!」
きっとまもりさんは昨日の事があってから、1日注意して見ていたんだろう。
「あんだよ糞マネ、関係ねぇだろ」
うんざりだという顔つきで、ヒル魔先輩はまもりさんを睨んだ。
「関係なくなんかないわ。仲間になってだいぶたつのに、未だに(糞チビ)なんて呼び方馬鹿にしてるじゃない」
西日の当たっているせいだとは思うけど、まもりさんの顔はダイダイ色に染まって、
余計ににまもりさんの怒りを大げさなものにしている。

オレは、まもりさんのこういう所が好きだ。
さっき自分も糞マネって呼ばれたのに、こうなったら自分の事なんか気にしてないんだ。
まあ、セナの事になると行き過ぎることもあるけど…。

「まもり姉ちゃん僕は別に…」
セナはまもりさんに訴えるように言ったが、まもりさんはヒル魔先輩をにらみ付けたままだ。

「・・・・・・」
まもりさんは唇をぎゅっと結んで、ヒル魔先輩が何か言うのを待っている。

「・・・・・・」
ヒル魔先輩はいつもだったら、その恐ろしい毒舌で応戦している頃なんだけど。

「・・・・・・」
先輩は眉間にかすかな皴を作っているけど、その他は全くの無表情に固定されているようだ。
人が黙るとセミはボリュームを上げるのか、ヒグラシのカナカナというのどかな声は、
この緊迫したムードと全然合ってなくて、逆にその場を気まずくさせた。

「今日は」
先輩はやっと唇だけを動かし、淡々とした口調で言った。
「解散だ。一年は片づけ、明後日も朝練は7時から始める」
それだけ言ってくるりと背を向け、スタスタと部室に戻ってしまった。
「ちょっと!」
ヒル魔先輩を追いかけようとしたまもりさんの手をセナが掴み、

「もういいよ。僕は気にしてないし。片づけ、しよう?」
笑顔を作ったであろうセナの顔は、なんかヘンな顔だった。





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