3.夕闇






「セナも怒らなくっちゃ、駄目よ」

そう言った私の口調は、まだ怒気を含んでいて、自分でも戸惑った。
もう空には太陽の姿はなく、空には星が浮かんでいるけれど、まだ暗闇というわけでもなく、
西の空はまだ橙色さえ残している。
だいぶ気温も下がったものの、日中嫌というほど太陽に焼かれたアスファルトは
西日のにおいを足もとから立ち昇らせた。
いつもはモン太君と三人で帰る坂道。今日はセナと2人。
私が腹を立てているのはヒル魔に対してであって、セナではない。
だからセナにこんな言い方するの、良くない。わかってるんだけど。
私がヒル魔ともめたのは、セナをかばいたかったから。
なのにそれをセナに止められた事に、もしかすると苛立っているのかもしれない。
何で、怒らないのよ、セナ。
私間違ってないよね?普通は怒るところよね。でもセナはそれが出来ないから、私がセナの声だから。

「まもり姉ちゃん」
セナのあまりに頼りない声に
「何?セナ」
自然と声が優しくなる。
この子は不思議だ。
さっきまで、自分でもどうしようもなかった苛立ちが、この子の声色ひとつで、穏やかに撫で付けられるのがわかる。

「今日ありがと」
ごめんね。私でしゃばりすぎたかな。
素直にそんな気持ちが降臨する。
でも「うん」と曖昧な返事しかできなかった。言葉にしたら、なんか嘘っぽくなっちゃう気がして。
「僕ね」
セナが続ける。セナの横顔は暗くて良く見えない。
「本当に今まで気にした事なかったんだ。呼び方なんて」
この子がそう言うのなら、そうなんだろう。嘘はつけない子だから。
「でも、まもり姉ちゃんに言われて、僕の名前だけ避けてるのかなって。そしたら…」
これはこの子の中で重大な告白。誰にも言えない。一人で悩んで、それを今初めて人に明かす。
慎重で不安で、そんな声の響き。表情は薄暗くて見えないけれど、張りつめすぎてふるえる空気。
夕闇がセナの小さな身体に、重くのしかかってるみたいで、夕闇にすら怒りを感じた。

「僕、つらいんだ」
ずきりと、胸が痛む。
でしゃばりすぎよ。いつも私は。
セナの為に怒ったなんて、なんて自己中心的なんだろう。
「ごめん。セナ」
ごめん、なんて言葉、この子になんの救いにもならないって分かってるけど。
ずるいよね、ごめんなんて一言で帳消しにしようとしてる。
「ごめんね」
自分の為に謝ってる。謝ったら何か取り戻せるんじゃないかって。
ごめんと言った瞬間からセナは私を許さないわけにはいかなくなるのに。
「まもり姉ちゃんがあやまることないよ。ただ僕が」
そこでセナは言葉を切って、次の言葉を探しているようだった。自分の想いを言い表せる、最適な言葉を。
「僕が…」
まだセナは言葉の渾沌を彷徨ってる。私は待った。
「ただ僕が、欲深いんだ」
搾り出すように、余裕のない声でセナが言った。

欲深い。
宗教的な響きのある言葉に、私は少し驚いた。
ヒル魔がセナの名をちゃんとに呼ばない事。それに対してセナが心を痛めたこと。
それのどこに(欲深さ)があるのか見当がつかなかった。
「どうして?」
欲深いという言葉を探し当てるのに、あれだけ時間をかけたセナに、畳みかけるような疑問は酷だったかもしれない。
でも、いまいち私はセナの言いたい事が分からなかった。
セナにすれば一大決心の想いで語り出した気持ち。ここで曖昧に流すよりは正直だと思う。
私の疑問にセナは一瞬たじろいだ様だったけど、覚悟を決めたように話しだした。

「最初は…。怖い、逃げ出したいって思ったけど、いつのまにか、そうじゃなくって…」
自分で自分の言葉を確認するように、ゆっくりとセナが話す。
「もっと、近くに行きたい、もっと話したいってなって…」
セナの語尾が不安で、怖くて、小さくなる。
「うん。それで?」
私はありったけのやさしさで、相槌を打つ。
全肯定の相槌。
セナは立ち止まって、私を見た。
見たけれど、暗くて私たちの視線がかみ合っているのかも確認できない。
でも私はセナの瞳を見た。多分それは決心と迷いの混じった瞳。

「ヒル魔さんが、僕の事を考える時間が増えたらいいって。そんなの…僕バカだ…」

セナ。

なんだかそれって。

私知ってるわ。そんな気持ち。


中学の時、クラスの不良っぽい男の子に私は(そんな気持ち)を抱いた事がある。
いっつも私は小言ばかり言って、その子はほとんど言うこと聞いてくれなかったけど。
たまに見せるいたずらっぽい笑顔が、たまらなく私の心を掴んだ。
なんであんな奴にって思うのに、自分で自分の気持ちが止められなくって。余計小言が増えちゃったな。
結局なにも言えずに卒業しちゃったけど。
忘れかけてたあの時の私と、今突然出会ったような錯覚を覚えた。


セナ。

それじゃあまるで。


「セナ」
私はまっすぐ前を見たまま、呼んだ。
いままで沈みこんでたセナの気配が、私に向けられる。

「バカじゃないよ」

バカじゃない。セナに言ったのか、あの時の自分に言ったのか、わからない。
私の声は子供っぽく、相応しくなかった。

息を吸って、ゆっくりと吐いて、

「バカなんかじゃない」

さっきよりすこしましだったろうか。
もう一度そう言った時、私たちは泥門前駅の蛍光灯の、人工的な明かりに照らされていた。
あたりにたちこめて、絡みついていた夕闇は姿を消していた。
それでも、私はセナの表情を確認することが出来なかった。
まっすぐ前を見ていた。頼りになるまもり姉ちゃんの顔をしていたかった。
だってセナの気持ちの行き先が、不安で、心配で、あまりにも案外だった。
動揺してた。
かける言葉が何処にも、見つからなかった。







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