9.熱帯夜






午後7時40分。
肌を刺す陽射しは蒸し暑さにとってかわり、
シャワーを浴びたばかりの肌に、早くもシャツが張り付く。
今夜は熱帯夜だ。


来てる来てる。
人込みの中、携帯電話片手に落ち合うべき仲間を探してる。
俺は背後にそっと忍び寄り、手を伸ばした。
腕は奴の首を軽々と一周する。
「わ!!!」
突然くらったチョークスリーパーに奴は驚愕した。
「ヒヒヒヒル魔さん!」
読み通りの反応にニヤリとする。
「やめてくださいよ!もうー。みんな来なくて心配してたんですから!」
全員一度家に戻り、部活の汗を流し着替えてから集合する。
確かそういう計画だった。
「んじゃ、行くぞ」
俺は進行方向を親指で指し、移動を促した。
「え?みんな待たないんですか?」
「ああ。大丈夫だ」
そうなんですか、と歩き出した俺の後をついて来る。
「それにしてもヒル魔さん、来ないなんて言ってたのに場所確保してるなんて・・・わ、わ」
背後に聞こえていた声が聞こえなくなったので振り返ると、
反対方向へ向かう見物客達に押し流されて、もと来た道を戻されている奴の姿が見えた。
この湿度の高い気温の中、他人の肌に触れるのは気が進まないが、
奴を押し流している人間の壁に身体を押しこんだ。
腕を伸ばし奴の身体、衣服の一部でもいい、を手探りで探した。
必死の指先が俺の手を取った。
熱い体温を感じ、それが奴に違いないと何故か納得し、
思いきり引っ張ると、奴の身体は案外簡単に引っこ抜けた。
小さいってのも長所のひとつか。もしこれが栗田だったらこうはいかねえ。
まあ、あいつが押し流される事がまずないか。
「助かりました・・いや、人凄いですね」
「ああ」
確かにスゲェ人間の数だ。この小さな町に一体何処にこんなに潜んでやがったんだ?
いくら熱帯夜とはいえ、ここまで人間が密集していなかったら、風のひと吹きも感じる事だろう。
「オラ、行くぞ。もうすぐそこだ」
俺は背を向けて歩き出す。
「あのっ」
手・・・と聞こえたが、俺は聞こえない振りをして、奴の手を強く握ったまま人ごみを押し進んだ。
また押し流されない為にも、この方が好都合だと奴も勝手に納得するだろう。
クソスットロイ速度で進む人の群れを押し分けて、俺は一本横道に入った。
「ここだ」
「え?ええ??キャ、キャミッ娘クラブ・・?キック・・・ボクシングジム!?」

花火見物の場所を確保してある。
といえばまあ、せいぜい人でひしめき合った川沿いの土手に、
ケルベロスでもスタンバらせてあるんだろうとでも思っていたらしい奴は、まあ、驚いているはずだ。
「どっちにも用はねぇから安心しろ」
奴の言った通り、ジムやキャバクラの店舗の入った、辛気臭せぇビルだ。
薄汚ねぇが花火のある川に面している。高さも、位置もなかなかだ。
俺はコンクリにヒビの入った雑居ビルの、外付けの非常階段を登り始めた。
手を引っ張られ無理矢理といった感じだが、奴が階段に足をかけたカンという音が聞こえた。

カンカン。

そうだ、5階建てのビルの屋上に行くんだ。調子よく登れよ。
「みんなもここにいるんですか?」
「みんな?」
「まもり姉ちゃんとか」
俺の握っているこの手があの女だったら、こんな所登りやしねえ。
それこそ土手に腰でもおろしゃいい。
姉崎、か。
容姿、性格共に充実している。文句ねぇ。
だがそれも、今の俺には役立たずだ。

カンカン。

今俺はこのサビた非常階段を登っている。
おかしな話しだ。滑稽すぎて笑えねぇ。
名前を呼ぶ。か。
あの糞デブ気付いていやがったんだろうか。

カンカン。

屋上までまだ大分ある。少し駆け上がることになるかもしれない。
「ヒル魔さん?」
「・・黙って足動かせ。もうすぐ開始時間だ」

カンカン。

階段を登る運動で新たに汗が噴き出す。伸び気味の髪が首に張り付く。
チッ。
あの糞美容師見習い。勝ち誇りやがって。
大体、響きが気に食わねぇ。
恋って言葉の。
無味無臭で、パサパサしてて、簡潔すぎる。
そのうえひどく曖昧だ。輪郭がはっきりしない。
けれど世間に迎合されている言葉。
恋。

カンカン。

奴は無言で付いてくる。緩く握られた指先がずっと緊張している。


俺は。

この手を、この体温を、爪までもこいつを取り巻く全てから強奪したい。
この手を、地にこすりつけて押し倒したい。
その身体に覆いかぶさりたい。
やりたい。
所有したい。



カンカンカン。



この生臭せぇ欲望をなんと呼んだらいい?
もし、それを恋と呼ぶのなら。











俺は、恋してる。








____
next