ちらほらとあった飲み屋も、姿を見せなくなった。 街灯と呼べるものも、なくなりつつあった。 手の中の液晶画面だけが、ぽつんと光っている。 一休は阿含に折られた携帯電話をポケットに入れたまま持って来ていたらしい。 さきほどそれに気づき、試しにいじくってみたら半壊しているにも関わらず、 携帯電話は生きていた。 とはいえその画面は昔のテレビゲームソフトがバグったような状態であり、 ちゃんとに機能しているのか怪しいところだ。 「オマエ、いつからいたんだよ」 地下のクラブを後にして程なく、阿含は言った。 「いましたよ。ずっと」 阿含においていかれないよう、早足で歩きながら一休が言った。 先程、一休が発言したことにより、ようやく阿含は一休の存在に気づいたようだ。 「失せろ」 阿含は振り返りもせず言った。 「・・・・・・」 嫌です。そう言う勇気もないが、ここで帰るつもりもない。一休は黙って阿含を追った。 早足で歩いていた阿含がぴたり、と歩を止め一休を振り返った。 暗いのでよく見えないが、一休を睨みつけているに違いない。 「俺だって居ないよか、マシだと思う・・・んっすけど」 恐怖を感じはしたが、背に腹はかえられない。一休は言った。 「・・・・・・」 阿含は何人いようが負ける気はしなかったが、 一休が先程のクラブで、オザキの名前の訂正をしたという事実もある。 一休がいなければ、雲水の居所さえ掴めなかったのは事実だ。 「でしゃばりやがって」 阿含はそれだけ言うと、足下に転がった小石を足で蹴り上げ、左手ですばやく握った。 そしてまた、早足で歩き出した。 Club Doctor その古ぼけた煉瓦造りの壁には、スプレーのようなものでそう描かれていた。 4人ほどの人影が、その壁の前にたむろしている。 やはりここも腹に響くような重低音が道路にまで盛大に音漏れしているが、 さっきのクラブとは違いドアは鉄製の粗末なもので、高級感とはほど遠い。 ドアに手をかけようとした阿含の前に、たむろしていた男が3人。立ちふさがった。 4人いたと思ったが、どうやら一人はドアの奥に姿を消したらしい。 「待ってたぜ。阿含。今日の主役だもんな」 くるくるの短いパーマをかけた太った男がにやにやと欠けた歯を見せて言った。 「ワンドリンク付き、1500エン」 白いバンダナを、はちまきのように前でむすんだ坊主頭が手のひらを見せる。 「そこのボクも」 側にしゃがんだままのモヒカンの痩せた男が、 笑いをかみ殺しながら吸っていた煙草を投げ捨てて言った。 どうやら3人とも阿含の事を知っているようだ。 しかし先程のクラブにいた人間達とは何か違う。 まず、なんだか悪そうだ、という以外この3人の接点はなさそうに見えた。 そしてもう一つは、見せる笑顔や台詞に悪意を感じる。 阿含は、三人の顔を軽く見渡すと、何も言わずドアに手を伸ばした。 白いバンダナの、言うなればヒップホップ風な男が素早く動いた。 阿含の後頭部のドレッドを掴み、そのままの力で鉄製のドアに阿含の頭を打ち付けた。 ガォン! 一休は心臓が止まるかと思った。 鉄のドアがへこんだのではないかという程の音と、いとも簡単に一発もらった阿含に。 「ショボ!」 モヒカンの男が笑った。 「え、終わり?阿含、これで終わり?」 太ったパーマがはやしたてる。 阿含は立ったままドアにもたれかかり動かない。人は立ったまま気絶できるのだろうか。 俺が、行くしかない。 一休は腹を括った。握りしめた拳がじっとりと汗ばみ、ぬるついている。 「オ?やんのかチビ」 ヒップホップ風の男がその殺気に感づき、一休に言った。 この男がっちりと体格が良く、身長も180センチはゆうにあろう。 一休に向き直ったその姿で、阿含の姿が見えなくなる程だ。 その時。 がっ にぶい音とともに男の目が見開いた。 男の膝は折れ、前のめりに頭から倒れた。完全に意識を失った倒れ方だ。 顔面を派手にアスファルトにこすりつけて崩れた。 男が倒れ、露わになったドアは開いていた。阿含の姿は、すでにそこになかった。 「あ!」 一休と残された二人の声はほぼ同時だった。 しかし反射神経でそこらの人間に負けるわけがない。一番にドアに飛び込んだのは一休だった。 飛び込んだそこは薄暗く埃っぽく、唯一の照明は赤いうえに、白い煙でぼんやりとしていた。 大きすぎる音楽が、頭がい骨を振動させる。 左手にはちいさなバーのようなものがあり、広くはない部屋の正面にまたひとつドアがある。 雲水の姿はない。ドアの向こうにいるのかもしれない。 一休は両手以上の相手がいたら、いくら阿含でも敵わないかもしれない。寮を出る前にそう思った。 その空間にいた人間の数は、一休の両手両足、それと阿含のそれを足しても、足りなかった。 喧嘩は殺陣ではない。そうも思った。 だが目の前に繰り広げられている光景は、殺陣でもなければ喧嘩でもなかった。 阿含の大量殺戮。そう表現するにふさわしい。 見物客の方が多かった事もあるが、阿含の立ち回りは凶悪に素晴らしかった。 正面の人間を左、右、それぞれ一発づつの拳で二人を床に沈め、次の瞬間には背後に回し蹴りを出す。 回し蹴りを出した右足が床に戻ったか戻らないかのうちに、今度は肘で鼻先を潰す。 その肘を今度は床に延ばし、片手を突き、ふわり。阿含の筋肉質な重い下半身が重力に逆らって反転する。 右足、次いで左足が宙を掻くと、ほぼ同時に4人が崩れ落ちた。 まるでダンスの決められた振り付けのような、阿含の流れるような一連の動き。 一休の足下に、なにかが転がってきて靴に当たった。 白くて、小さい。赤い液体がどろりとまとわりついている。 ・・・・歯だ。 前言撤回。ダンスなんて生やさしいものじゃない。 味方であるはずの阿含に一休が戦慄した瞬間。 パァン! 琥珀色に輝く光が一休の視界を、上から下へ降りそそいだ。追って冷たい感触。 「ワンドリンク制だっつったろ」 振り返ると先程のモヒカンが立っていた。 手にはおそらくビール瓶。もはや首の部分しか残ってはいなかったが。 アルコールの臭いが立ちこめる。額に暖かい液体と冷たいビールが同時につたった。 おそらくそのビール瓶で、一休の頭は割られたのだ。暖かいのは出血のためだろう。 はたからみれば、一休は阿含の味方に間違いない。 阿含が暴れれば暴れるほど、一休もただでは済まされないのだ。 やるしか、ない。 一休は右手を伸ばし、モヒカン男の皮ジャケットの襟を捕らえた。 掴んだと同時に前方より下、床に向かって強く押し、 すばやく右足を出して男の足首にひっかけた。 ダァン!! 一休自身が驚いた程、その「投げ」は見事に決まった。神龍寺伝統の教育。柔道だ。 体育とは別に「武道」という科目があるほどに、神龍寺では柔道、剣道、合気道といった武道も重んじる。 普通の高校とは異なる学科としては他に「写経」「座禅」などがある。 モヒカン男を投げ、一息ついたところで後方から、わあっという歓声が上がった。 阿含の周りにはもの凄い人だかりが出来ており、彼の姿は人垣のせいで見る事ができない。 その人だかりがまたも沸いた。 雰囲気からいって阿含が劣勢になっているに違いない。 一休は人の薄そうな場所から身体を押し込んだ。 その人だかりは直径5メートルほどの輪になっており、 その中心に5,6人の男がいる。そのうちの一人は阿含だ。 阿含は相変わらずの動きをしているが、どうもキレがない。 そして一人の男が手にしているもの。 どっしりとした透明なガラスで出来ており、男達の足下には吸い殻や灰がちらばっている。 おそらく灰皿だろう。その灰皿には、黒っぽい液体がこびりついていた。 一人の男が阿含の背中に飛びかかった。 阿含は左足を後ろへ引き、顔の高さで握りしめた拳を上半身ごとひねり、素早く繰り出した。 阿含の小石を握った裏拳が男の顔面に見事当たったが、 先程とは違い男は倒れはしなかった。 それどころか逆に阿含の足がふらついた。 ふらついた足下の床に黒い液体が数滴落ちた。 血だ。 阿含の横顔には額からサングラスを通り越して顎まで、その黒い液体がいくすじもてらてらと流れて、 顎の先から滴りおちていた。 どうやらあの灰皿で額を割られたらしい。 衝撃と大量の出血で意識と足どりがおぼつかない。 バックハンドを食らった男が、顔面を片手で押さえながらも、阿含の襟首を掴んだ。 すばやく他の男が阿含の背中にまわり、後ろから阿含を羽交い締めにした。 灰皿を手にした男が緩慢な動作で近づく。 手にした灰皿をギャラリーに見せるように頭上にかかげた。 光を通した灰皿に付着した阿含の血液が、赤く透き通って見えた。 阿含は身体を揺すったが、羽交い締めから逃れる事はできない。 殴られる! 観客達は沸き上がり、声をそろえて叫んだ。 「せぇーーーーの!!」 重いガラスの塊が阿含の頭上に振り落とされた。 「阿含さん!」 一休は飛び出した。ギャラリーの円の中心、絶体絶命の阿含のもとへ。 阿含を助けたかったわけじゃない。 けれどもここで阿含がやられたら、おそらく一休ひとりの力ではこの危機を脱する事はできない。 「おっと」 それに気づいたひとりが、一休の前に立ちはだかったと同時に、片膝を上げた。 「ぐ」 なにひとつ力など必要なかっただろう。 一休の飛び出したスピードがそのまま膝蹴りの威力となった。 膝蹴りは一休のちょうど胃のあたりに直撃した。 喉もとまで胃袋がせり上がってきたような感覚に、一休の意識は遠のいた。 ごっ ワァァアアァァァ!!!! 一休の遠ざかる意識が現実に戻る事ができたのは、 その何ともいえない低い音と大歓声の為だった。 羽交い締めにされた阿含は、がっくりと首をうなだれて、鼻筋からぼたぼたと液体をしたたらせている。 彼の着ている黒いTシャツは襟元までが濡れて光っている。 阿含の唇がわずかに動いたように見えた。 う ん す い Vol.4 “Jenny”