あの夜が、俺達ふたりを。
夜逃げ
数日おきに雨が降り、春がちかいのだと思った。
まだ気温は低いが、疲れ切った身体を暖かい布団に沈めて雨音を聞いていると、
よく眠れそうだと思った。
けれども頭は妙に冴えていて、日付が変わっても俺は眠れずに、布団を暑苦しいとさえ感じていた。
阿含の事を考えた。
阿含はまだ隣の布団には帰ってきてはおらず、冷たい雨の中まだ外をほっつき歩いているらしい。
はやく、帰ってこないだろうか。
そう思って笑ってしまった。世間では俺達兄弟仲を疑う者も少なくない。
天才の弟を嫉む兄。なるほど、わかりやすい。
けれど現実はそこまで単純ではない。
こんな眠れない夜に阿含が側にいたら、俺は眠れず苛つく事などきっとないだろう。
阿含、早く寝ろ。そして明日は俺と一緒に朝練に出ろ。
お前はいつだってそうだ、たまには人に迷惑をかけずに自分の事くらいできないのか。
この間だって、あの後、俺がどれだけ苦労したか。
そんな事を言っている間に、きっと俺は段々眠くなってくるのだ。
また隣の布団を見る。
阿含はいない。
布団は一切乱れておらず、とても冷たそうだ。
ぺた ぺた ぺた ぺた
がちゃ
「あれ、雲水起きてんの?」
お前にしては、タイミングがいいじゃないか、阿含。
「ああ」
俺は布団をのけて立ち上がり、部屋の電気をつけた。
「明日朝練ねぇの?」
蛍光灯に照らされた阿含を見て、俺はまだ明るさに慣れていない目を見開いた。
「お前、びしょ濡れじゃないか」
阿含の脱色された金の髪からはしずくが次々にしたたり落ち、
黒いダウンジャケットは水分をたっぷり含み、重そうに彼の身体にのしかかっていた。
箪笥からバスタオルを取りだし、阿含に頭から被せた。
「雨、超降ってる」
阿含は頭からバスタオルを被ったまま、ダウジャケットを脱ぎ俺に手渡す。
どっしりと重いジャケットをハンガーに掛け、つるす。
「風邪ひくぞ」
バスタオルでごしごしと髪を拭く阿含に、着替えを渡す。
「大丈夫っしょ」
阿含は濡れた軍物のズボンを脱ぐと、畳に放る。
俺の渡したTシャツとハーフパンツに着替える。
本当なら風呂に入れと言いたいが、寮の風呂の時間はとっくに終わっている。
こんな時間に帰ってきたのだから仕方がない。
「寒っ」
阿含はまだ髪が濡れているにもかかわらず、布団に飛び込む。
「阿含。それは俺の布団だ」
阿含がもぐり込んだのは、きれいに敷かれた彼の布団ではなく、
ついさっきまで俺が不眠と格闘していた布団だ。
「あったけぇじゃん。こっちのが」
勝手な奴だ。俺は仕方なく電気を消して、阿含の布団に腰を下ろした。
確かにひやりとして入ったら逆に身体が冷えそうだ。
ぐい、と腕を引っ張られる。
「雲水こっちだろ」
ぐいぐいと阿含が引っ張る。
「なんでだ」
予想はつくが、理由を訊ねる。
「あったけぇじゃん」
「・・・・・・・・」
高校一年にもになって男兄弟で一つの布団に入るのはどうかとも思うが、確かに暖かそうだと思った。
タイミングよく帰ってきた阿含に、ひとつくらい言うことを聞いてやってもいいか、という気持ちもあり、
俺は阿含の隣にもぐり込んだ。
「うわ、お前あったけ」
阿含の言う通り、凍えるような雨にさらされて冷えきった阿含の身体に比べると、俺の身体は熱いくらいだ。
「髪、まだ濡れてるぞ」
湿った阿含の髪から、雨のにおいがする。
「許せ!」
阿含はそう言うと、その濡れた髪ごと、冷えた額を俺の首筋にこすりつけてきた。
「・・!許さん」
心臓が凍るかと思うほどの冷たさに、阿含の頭を引き剥がす。
瞬間。目が合った。
暗い室内に浮き上がる、白い金髪越しの阿含の目と。
息がとまるほどの、強い視線のぶつかり合いだった。
去年の夏、墓参りで感じたあの感覚があった。
カチ カチ カチ カチ カチ
実家から持ってきた、目覚まし時計の秒針の音が静寂になり響く。
ゴクリ、阿含の喉が鳴った。
「!」
阿含の濡れた髪が触れたせいで、すこし湿った首筋に、阿含の唇が触れた。
俺は文字通り驚愕した。
冷たい髪と、冷たい肌からは想像もできないくらい熱い阿含の唇の感触に。
その感触を受けた俺の身体が、阿含の唇よりも熱く、沸き立った事に。
阿含の唇が、強烈に首筋に吸い付く。痛みを感じるほどに。
痛い。熱い。あまい。
「う・・・」
小さくはない俺の身体の、ほんの一部。
阿含が触れているのは体全体でほんの一部なのに、全身が、神経全てが支配されて、俺は呻いた。
引き剥がすとか、否定するとか、そんな考えは何も及ばず、
ただ単純に首筋にうめられた阿含の冷たい髪を握りしめた。
強く握ることで、どこかに押し流されそうな意識を、とどめたかったのかもしれない。
「あごん」
名を呼ぶと、もぞりと阿含が動いた。
布団をもちあげ、阿含の身体が上に乗った。
さっきまで雨に打たれて冷えきっていたのは夢だろうか?密着した阿含の身体は熱かった。
「うんすい」
俺達は16年も一緒に育った兄弟なのに、数えきれないくらいお互いの名を呼びあってきたのに。
「うんすい」
俺の名を呼ぶ阿含の声は、初めて聴いたものだった。
阿含の指先が、Tシャツを通り越して腹を這い回る。
「うんすい」
そのことよりも、俺を呼ぶ熱の篭りすぎたその声が、
「うん、すい」
俺を、沸騰させた。
雨音が、きこえない。
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