冷えた肌のうえを、冷えた指がすべる。







その眼差しの先






もう抵抗などとっくにやめていた。
手も脚もだらりと床に投げ出し、埃にまみれるのに任せていた。
剥き出しにされた肌の上の、冷たい指の感覚を、
追いもせず、払いもせず、放っておいた。
ただ、まっすぐに天井をみつめていた。

「殺せば、いいじゃないですか」

指がぴくりとたちどまる。

「何?」
牙を剥き出し、阿含が睨む。
心なしか冷たかった指先に一瞬の熱を感じた。
一休はすこし笑う。
「こんな遠回しな事しなくても、消しちゃえばいいじゃないっすか」
阿含さんならできるでしょう、と一休は続けた。
声は落ち着いて、静かに天井の闇に吸い込まれる。
「俺が、邪魔なんでしょ」
そこで一休は目玉の角度を変え、その表面に阿含の姿を映した。
「殺さなくても、お前なんか消せる」
そう言った阿含の目は、彼の兄とそっくりだと一休は思った。
雲水は、試合前にはいつもこういう目をする。
真摯で、透明で、遠く彼方をじっと見据える。
けれど双子の兄とはちがい、弟の、阿含の目は、一休をど真ん中に捕らえていた。
この男ににつかわしくない、決意のまなざし。
「じゃあ、早くやったらいいじゃないですか」
阿含のまなざしを受けながら、一休は阿含の決意に挑戦する。
一休の上で、すう、と息を吸い込む音が聞こえる。

はあ。

阿含は大きく息を吐き、のらりくらりと一休から降りた。
かび臭い埃にまみれた床に、脱力したようにドカリと腰を下ろす。
「・・・・・勃たねえよ」
お前のせいだと言わんばかりの口調で、阿含がため息まじりにつぶやく。
一休は着衣のみだれを直すでもなく、起き上がるでもなく、冷たい床に仰向けになったまま言った。

「そうっすか」



「そうっすよ」

阿含が投げやりに答える。

「・・・・阿含さん、片思いなんすね」
巨大な阿弥陀像を仰ぎながら、一休が言う。
「・・・・知るかよ」
阿含はボリボリと頭をかきむしった。
「俺のせいっすか?」
一休はすこしの身じろぎもせず、淡々と問うた。
「あいつはテメェなんか見てねえよ」
やけくそ気味に阿含が言い捨てる。
「・・・そうっすね」
納得したように、一休がため息をつく。
「じゃあ・・・」


「なに見てんっすかね」


阿含が声のほうに視線を移すと、一休は両肘をついて上半身だけを起こしていた。
道着ははだけ、Tシャツは胸まで上げられている。
けれどそれを気にする様子はなかった。
ただ、阿含をじっと見ていた。

雲水は誰を見てる?

一休の目は、その答えを知っていた。
そして雄弁に語っていた。

(阿含さん、本当はわかっているんでしょう?)

阿含は、一休の目を食い入るように見つめた。
言葉なんか、みちばたの紙くずのように無視する事ができるのに、
一休の瞳から阿含は目を逸らす事ができなかった。

(雲水は)

一休はなにひとつ明言してはいない。
ただ、阿含を見ているにすぎない。
それなのに、一休の目から阿含は雲水をみつけた。
いままで必死に見ようとして、決して見ようとしなかった。雲水。
雲水は。






(誰も見ていない)






なんの音だろうか。

かちかちかち、ちいさくて細かい音が聞こえる。
ちいさいのに、やけに近くで聞こえる。
どこで鳴ってる?何が鳴ってる?
「阿含さん」
なんだ、その顔は。
どうしてそんな目で、一休が俺を見てる?
阿含はそのまなざしの理由と音の出所を必死に探した。

かちかちかちかちかち

わかった。
阿含は、やっと自分の顎がふるえている事に気付いた。
まるで漫画のしゃれこうべのように、自分の歯と歯がかちかちとぶつかりあっている。
なんで、俺の顎は勝手に震えてんだ。
阿含は不愉快に思い、手で顎を押さえつけた。
けれどもうまく押さえられない。耳障りな音が鳴り止まない。
顎を押さえようとする手も、震えているのだ。


なぜだ。

なぜ震えが止まらない。

かちかちかちかちかちかち

手が震えて、音が止められない。

なぜだ。

俺だけ、お前を見てるのか?

わからない。不公平だ。

なぜだ。

お前は俺を見ていないのか?

なぜだ。


「阿含さん」
力の入らない手で、必死に顎を押さえつけている阿含の手首を、一休はそっと掴んだ。
阿含は一休に触れられていることも、一休の声も、感じていないし聞き取ることも出来なかった。

「阿含さん」

一休は自分の声が阿含に聞こえていない事を知っていて、もう一度名を呼んだ。
阿含のふるえる顎に、濃い影が重なる。
一休はかすかに、うすく、息をついた。


そして、そっと、

そっと、

くちづけた。


ふたりの影は、ひとつになり、
阿弥陀仏の、つめたく無機質な金の肌に、
その影をうつした。
一休はくちびる越しに小刻みにぶつかりあう、阿含の歯の音を聴いた。
阿含のくちびるは、
思った通り渇いていて、
思ったより、あたたかかった。

一休はくちづけた時と同じように、そっと唇を離すと手のひらで阿含の頬を拭った。
頬を拭った手のひらは、あたたかくさらさらとした、
阿含の涙で濡れていた。

ヴヴヴヴヴヴヴヴヴ・・・

携帯が鳴っている。
一休はあたりを見回した。
自分たちのいる廊下の随分離れたところで、四角く青い光が震えている。
阿含に押し倒された時にふっとばされたのだろう。
取りに行くべきかすこし悩んでから、一休は腰を上げた。
廊下を歩き手を伸ばしかけたところで、青い光は振動音とともに消えてしまった。
それでもともかく携帯を掴み拾い上げると、再び手の中のちいさな機械は震えだした。
「阿含さん」
一休は阿含のそばまで戻り、震え続けている携帯電話を差し出した。
「雲水さんです」
青いディスプレイの「金剛雲水」の文字を、阿含はじっと見つめた。
一休が催促するように、もう一度差しすと、阿含はおそるおそる手を伸ばした。
ふるえる指で、ぎこちなくボタンを押す。

ピッ

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

阿含は、言葉を知らないひとの様だった。
くちびるが薄くひらいてはいるが、声が出る気配はない。
見かねた一休が、阿含の手から携帯電話を奪う。
「雲水さん。俺っす、一休っす。
申し訳ないんすけど、九体仏堂まで来てもらえませんか。阿含さんもここに居ます」
雲水は何も聞かず、そこへ行くとだけ言った。
「雲水さん、きます」
一休は電話を切ると、阿含に言った。
阿含はまだすこしぼんやりとした様子ではあったが、
やがてゆっくりと顎をしゃくった。
頷きの動きではない。指示の動きだ。
一休が顎のしゃくられた方を見ると、そこには彼のサングラスがころがっていた。
取れ、と言っているのだ。
「ああ、はい」
一休はサングラスを掴むと、阿含に手渡した。
阿含は何も言わずに受けとり、開いてかけた。
涙は、見る影もなく、霞のように消えていた。

「阿含さん」

一休はその様子を見ながら言った。

「・・・・・・」

返事はない。
「誰にも言いませんから」
一休が言い終わるか終わらないかのうちに、
阿含は座ったまま獣のような身のこなしで蹴りを放った。
「・・・チッ」
阿含は舌打ちした。一休がよけたからだ。
阿含は立ち上がり、すでに消えそうなほどのちいさな蝋燭の火を吹き消した。
ドス ドス ドス ドス
阿含は暗闇の廊下を、一休のそばを通りすぎ歩いて行った。

からからから

戸を引く音がする。
もういちどその音が聞こえると、一休は暗闇の堂にひとり残った。

もうすぐ雲水が来るだろう。

つめたい夜風のなか。

月明かりを頼りに。

もしかすると雲水の吐く息はもう白いのかもしれない。

雲水がもうすぐここへ来る。


多分、自分を迎えに。







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