鍵
「ほんと、オマエって」
一休の同室の少年は、つま先から額のほくろまでまじまじと一休を見つめて言った。
この少年は入浴すべく先程部屋を出たばかりだが、すぐにこの部屋へ戻ってきた。
風呂場は金剛兄弟の、もとい金剛阿含先輩の貸し切りだったからだ。
彼のとった行動は神龍寺の生徒としてはごく一般的なもので、
金剛兄弟がいると知っていてわざわざその風呂場へ行くなど余程の、
「モノズキだな」
というわけである。
気が知れない。少年は心からそう思った。
「そうかな」
同室の少年の多少険のある一言に、一休はいくらか気分を害し、
タオルと着替えを持って自室を後にした。
「俺の勝手じゃんか」
にぎやかな寮の廊下をペタペタ歩きながら、一休はひとりつぶやいた。
あいつだって、スゲーオシャレで雑誌によく載る先輩の事、カッコイイとか言ってたじゃんか。
一休には(憧れの先輩)が2人いる。
ひとりは金剛雲水。
彼はひとつ上とは思えない程に精神的に大きく、そして優しい。
その優しさは同時に強靱さであると一休は思う。
縦の関係の厳しいこの学校で、一休は先輩である雲水と一緒にいる時が一番気分が良い。
気疲れしなくて、何でも話せてしまう。
真剣なアメフトの話から、映画や音楽の話、仲間から聞いた心理テスト、とにかく何でもである。
だからと言って(友達)のような関係ではない。
そこには威厳があり、尊敬がある。
雲水といるとそれだけで一休は誇り高い気持ちになる。
一休には姉がひとりいるが、彼女はただの暇つぶしで一休に干渉しすぎるし、
着飾る事とくだらない恋愛ドラマに熱中しすぎていて、まったく理解できない。
雲水さんが本当の俺の兄貴だったら。
雲水を兄に持っていたら、どれだけ良いだろう。一休はよくそう思う。
もうひとりは、金剛阿含。
言わずと知れた雲水の双子の弟だ。
雲水の時とは正反対で、一休は阿含と二人きりにでもなろうものなら、
息が詰まってしまう。落ち着かない。
それはひとえに阿含の性格の為せる技で、それでなくとも一休は阿含の後輩で、
落ち着かないのは当たり前だ。
そして阿含は極めて狂暴で冷酷である。
けれども阿含は天才児だ。
なにもしないのにアメフトをやらせたら、いやアメフト以外の事でもおそらく阿含の右に出る者はいない。
阿含の見ている世界は、凡人には決して見る事のできない世界であり、阿含はそこに生きている。
阿含の内面的なものがいくら破綻していようとも、
いやむしろ破綻しているほうが人を惹きつける何かがあるのかもしれない。
かくして一休の2人の憧れる先輩達は、たまたま兄弟であった。
廊下で、集会で、どちらかの姿を見かけると思わず目で追ってしまう。
それが2人セットだったりすると、それは気になる。会話の内容であるとか、こっちに気付かないだろうか、とか。
その二人が風呂にいると聞いて、一休は風呂場へ向かったわけだが。
一休が浴場へ到着した時、すでに二人の姿は無かった。
もう上がってしまった後らしい。他の寮生達が入浴していた。
一休は多少残念に思ったが、入浴を済ませてから二人の部屋へ行ってみようと決め、まだすいている風呂へ入った。
時刻は就寝時間の10時まで、40分はあった。
一休は早めに入浴を終え、二人の部屋へ向かう途中である。
寮は就寝時間いっぱいまで賑やかだ。
二年生は2人部屋ではあるが、友人同士部屋に集まったりして、あまりに早い就寝時間を惜しむように騒いでいる。
バカ笑い、怒鳴り声、大合唱。
一休は雲水と阿含の部屋の前へ到着した。
二人の部屋からはどの音も聞こえない。
他の部屋がうるさすぎるという事もあるだろうが、特に物音がしないのは確かだ。
もしかして娯楽室や売店に行ってにいるんだろうか。
いくらなんでもまだ寝てはいないだろうし。
もしかして阿含はどこか別の部屋へ行っていて、雲水だけ在室しているのかもしれない。
一休はノックすべく右手で軽くこぶしを作り、ドアの前へ振り上げた。
「・・・ってェな!」
突然阿含の声が聞こえた。
「お前が悪いんだろう」
今度は雲水の声だ。
どうやら二人とも在室しているらしい。
喧嘩だろうか?それでも(痛い)と言ったのが阿含であることに一休は安堵した。
この振り上げた右手をどうしようか、一休がそう思案しているとまた声が聞こえた。
「証拠は残すなと」
「・・いつも言ってるだろうが?」
慣れない人間が聞けば、それは一人の人間が言ったように聞こえるだろう。
けれどもこの声に聞きなれた一休は、前半が雲水、後半が阿含だと理解した。
言葉のニュアンスというかアクセントというか。そしてそれが正解であった。
「・・・・そうだ」
これも雲水。
それから部屋から二人の会話が聞こえる事はなかった。
どうやらたいした喧嘩ではなく、一休が心配するようなものではなかったようだが、
一休はそのこぶしを作った右手をドアにぶつける事が出来なくなっていた。
もし、その右手をノックに使うのではなく、不作法にドアを開く為に使うとしたら。
このドアには、鍵がかかっている。
一休の本能はそう感じた。
それを確認するためにはドアに手をかけるか、ノックして向こうがドアを開ける前に錠を開くかどうか。
それしか手段はないが、一休にはどちらも選べなかった。
証拠を残すなといつも言っているだろうが。
特筆すべきは、この薄い板を隔てた向こう側、距離にすればおそらく2メートル以内。
証拠を残してはならない何かが、
今、あるのだ。
できる事ならば中の二人に気付かれずに、このドアに耳をつけてその何かを知りたい。
一休は強い衝動に駆られたが、この部屋の前は2年の寮生がウロウロしている。
一年が金剛兄弟の部屋のドアに耳をつけて、目立たないはずは無い。
ノックの姿勢でこのドアの前にいられる時間でさえ、もう限界だ。
一休はごくりと喉を鳴らし、ドアの前にかざされた右手を一度強く握りしめ、
すべての思考をほんの一瞬だけ強引に静止させ、その部屋の前から走り去った。
翌朝、雲水は赤い白目と腫れぼったい瞼で登場した。
雲水は素直に寝不足を認めた。寝不足であったのは雲水だけでは無かった。
一休もなかなか寝つけなかったのだ。
あのドアの内側に、あの時存在した、もしかすると就寝時間をとうに過ぎた今も、
存在しているかも知れない(何か)。
それを思うと一休の疲労した身体は、そのだるさとは裏腹に、一休に睡眠を許さなかった。
一休は雲水に、昨日部屋の前まで行ったんすよ、何度そう言ってみようかと思ったか知れない。
結局一休は何も言えず、雲水はいつもの雲水でしかなかった。
放課後、あの凄まじい喝を繰り出すまでは。
あの凄まじい喝は、ドアに鍵がかかっていたのではないかという一休の直感を、ほぼ裏付けた。
だからって。
関係ないじゃないか。
雲水は雲水で何も変わらないし、阿含が神龍寺からいなくなるわけでもない。
兄弟なんだから、俺が知らない事なんかあって当然だ。
少なくとも、俺と先輩達の関係は何ひとつ変わりはしない。
あの二人が何を隠していようと、問題ない。
それは心がけだった。
阿含と雲水、ふたりと自分との距離が絶望的に離れている事への。
その距離を決して埋める事の出来ない自分自身への。
一休の殊勝な心がけ。
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