サンダル






阿含と雲水が神龍寺に入学した年。
その年の夏は冷夏で、8月の盛りだというのに雲水は秋物の黒いニットのカーディガンを着ていた。
右手には水桶を、左手には白菊の束を新聞紙でくるんだものを持っていた。
山の木陰は昼でも薄暗く、雲水の黒いニットは急角度の山道に同化している。
人がやっとすれ違えるくらいの細い道は、昨夜の雨で大分ぬかるんでいたが、
誰かの好意で据えられた粗末な丸太の階段のおかげで歩けなくもない。

「おわっ!」
雲水のすぐ後で阿含が短い声を上げた。
その山道は山を細く長くくりぬいたようなもので、道の両脇は低い土の斜面が続いている。
阿含はその斜面から天へ突き抜けるように成長した、青竹へ捕まり転倒しそうな己の身体を支えた。
ほんの少しのささくれもなく、みずみずしい青竹は阿含の身体の負荷がかかった為ゆるく大きくしなり、
はるか頭上で笹の葉の擦れ合う音をたてた。
ここで転倒してはこのぬかるんだ急な坂道を、背中から大分ころがり落ちる事になる。

「そんなもん履いて来るからだ」
雲水は特に阿含に手を貸してやる必要もなかろうと、舞い散る笹の葉越しに阿含を眺めて言った。
阿含はこの肌寒いのに安物のビーチサンダルを履いており、
濡れた泥に被われた丸太の階段に、足を滑らせたらしい。
「ウルセ」
阿含はささやかに悪態をつき、木の根を掴む手に力をこめ立ち上がるしぐさをした。
「おい、線香を折るなよ」
雲水の度々の細かい指摘に、阿含は(来るんじゃなかった)そう表情に出し、勢いよく体勢を直した。


山の中は蝉が鳴いている。
毎年アブラゼミの暑苦しさには辟易するが、冷夏である今年の蝉は愛おしい。
木々で鬱蒼とした山中の墓場に、雲水と阿含はいた。
墓場といっても都会の霊園のように整備されてはおらず、
大小新旧さまざまの墓石が雑然と、しかし何かの規則に従って並んでいる。
真新しい御影石の墓、風雨により崩れかかって丸みを帯びた墓。
墓場は入り組んでおり、決してひらけてはいない。
相変わらず暗く、かすかな線香の香りがただようものの人気は無い。墓場の空気は澄みきっていた。
雲水はぬかるんだ土に差し込まれた、竹のふしをくりぬいただけの簡素な花生けの前にしゃがみ、
朽ちた花の残がいを抜き、手桶で新鮮な水を注ぎ、持参した菊を生けた。
生けたといっても特にバランスにこだわるわけでもなく、ただ数日花が咲いている為の水に茎を押し込んだまでである。
「あっチクショ、刺しやがった」
肌を張る音と一瞬遅れて阿含がつぶやいた。
「スゲー蚊だよ。早く線香焚けよ」
阿含は蚊に刺されたらしく首筋をボリボリ掻きながら、雲水に言った。
辺りをあらためて見回すと、薄暗い景色のなかに大量の蚊が飛行している。
彼らの身体は半透明で、一匹も見当たらないと思った瞬間、背筋が寒くなるほどの大軍が見えたりする。
雲水は頷くと立ち上がり阿含に手のひらを見せた。

「ん」
雲水が催促を口にする。
雲水に催促され、阿含は自分が線香を持たされていた事を思い出した。
ハーフパンツのポケットを探ると、腰に付けられた鍵の束がこすれあう金属音が響く。
その鍵のひとつひとつが何処の鍵であるかなど、雲水は知らない。
阿含が折れてはいなかった線香の一束を雲水に手渡すと、
「火」
雲水が言った。
家を出る際阿含にマッチを渡そうとした雲水に、持ってる。と答えたのは阿含であった。
阿含は線香が入っていたのと逆のポケットに手を突っ込み、ジッポーを取りだす。
親指でカキンと蓋を弾き、手慣れた動作で着火した。
そこに雲水が束をほどき、扇状に広げた線香をかざす。
濃緑の扇のふちを炎が舐めると薄く煙が上がり、白檀の香りが立ちこめた。
雲水は煙の立ち昇る線香を二束に分け、一束を阿含に差し出した。
阿含は差し出された線香を一度見つめ、それからまた視線を外すことで(必要無い)という意志を伝えた。
雲水は仕方なく阿含と雲水二人分の計四本の線香を、例年によって小さな墓から順に回って供え、
最後に本家のひときわ大きな墓石に残った全てを供えた。
そして手を合わせ、瞑目した。
雲水が盆の墓参りに来たのは単なる義務感であり、
遠く昔に生きていた祖先や、近くに死んだ祖父に対する感慨が特にあったわけではない。
やがて雲水が目を開くと隣には阿含が立っていた。
雲水はぼんやりと目の前の一番大きな真新しい本家の墓石に映る自分と、阿含を眺めた。
線香の香りと新鮮な菊が添えられ、盆の数日間以外は完全に忘れ去られていた高価な石の塊は、
やっと墓らしさを取り戻した。

久しぶりだな。
阿含と、こうして兄弟二人きりになるのは。

雲水は線香の煙がかすかに揺らぐのを見るともなく見、思った。
阿含が自宅に帰ってきたのも実に2ヶ月振りであったし、
帰ってきてもすぐにまたいなくなるのが常だったので、顔を見ない事も多かった。
隣で退屈そうに首筋を掻いている弟も今、自分と同じ事を考えている気がする。
雲水はそう感じた。それにしても。
「あまり引っ掻くな」
雲水は阿含の首筋でせわしなく動く指先を見て言った。
「かいーんだよ」
阿含は線香の煙にか、雲水の小言にか、煙たそうに顔を歪め言い返した。

一瞬、阿含と雲水の目が合う。

ふと阿含は掻くのをやめた。
小さな頃から阿含には雲水の考えている事が解る事がある。
双子のテレパシーとか、そんな大げさなものではなく(今自分と同じ事を考ている)そう感じる事があるのだ。
しかもそれは間違いないと言い切れるほどの確信を持って。
今までそれを確認しあった事は無かったが。
雲水と目が合った瞬間、阿含はこの確信を感じた。
言葉で言い表せるような簡単なものでは無かったが、視線のかちあった一瞬だけ感じた雰囲気に近いもの。
自宅へ帰ってきたのも、雲水の律義な墓参りに付きあったのも、ただの気まぐれだった。
阿含は気まぐれついでに今さっきほんの一瞬だけ感じた(確信)を確認してみる事にした。

蚊に刺されによる皮膚のかゆみを和らげるために使っていた左手を、そっと雲水の同じ場所にあててみる。
ただし爪をたてて皮膚を引っ掻くのではなく、指の腹に少しだけ力をこめる。
とても太い血管がちかい。
雲水の皮膚の下、その管を血液が流れる振動を指先に感じる。
そして、まるで小さな子供が内緒話でもするように、
阿含は雲水に口づけた。
雲水が緩やかに睫毛を伏せるのを確認して、
阿含は自分の確信が間違っていなかった事の了解を、雲水から受け取った。
阿含は顔の角度を変え、雲水の唇の先を、上唇を、下唇を、その合わせ目を、
何度も確認するように自分の唇にはさみ直した。
やがて雲水の右手は拒んで押しのけようとしているのか、促しているのか、阿含のわき腹に添えらた。
阿含は執拗に確認を続けた。
すると雲水から思わぬ返答が返ってきた。
雲水の熱い舌先が阿含の唇をするりと通り抜けて侵入し、阿含の舌先に触れた。
あっという間に阿含は舌を捉えられ、啄ばむような動きを封じられた。
阿含の雲水の首筋にあてられた指先に熱が篭る。
ポケットにしまっていた右手をもどかしげに抜き、
雲水の腰を粗雑に引き寄せる、と同時に雲水の胸と腹に自分の身体を押し付けた。
結果押され気味になった雲水は若干バランスを崩し、
すぐ側の小さな古い墓石に手を突いて、阿含の体重のかかった自分の身体を支えた。
阿含は絡み合った舌先の主導権を奪うべく、バランスを崩し一瞬動きの止った雲水の舌に、
一層強く自分の舌細胞をこすりつけた。
祖先の墓に手を突き、体重をかけてよりかかっているという罪悪感が雲水の頭をかすめたが、
阿含との間の強烈な感覚の前に、雲水は為す術がなかった。夢中で阿含を求めた。
雲水の腰に回された阿含の手が、雲水のカーディガンを揉むように這い回り、
ニットの奥の素肌を、その奥の熱を求める。
雲水は自分の腰を這い回る阿含の指先の感覚と、自分の舌を征服しつつある阿含の舌の動きに、
眉をきつくよせ、身体の熱をすこしでも逃がす為に身体の奥からため息のような声を漏らした。
その音を合図に、どちらからともなく複雑に絡んだ舌はほつれ、ゆっくりと唇を離した。
雲水は正真正銘のため息をひとつつき、動かせば触れ合う唇の距離で目を伏せて言った。



「ばちあたりが」



阿含は雲水の首筋と腰にからませた腕をほどいた。


「お前が舌入れてきたんだろ」


そう言って雲水の伏せた睫毛を睨みつけた。

雲水は自分の身体と頭の芯が、どんよりと痺れていると感じ、阿含も多分同じ状態なのだと思った。
阿含は伏せられた雲水の瞼が、赤く染まっているのを見て自分の瞼も同じ色なのだと知った。

雲水は自分が先祖の墓石に手を突き、腰掛けるように体重を預けていた事に再び気付いたが、
腰を上げる気に慣れず、ふと阿含の足先が目についた。
彼のサンダルを履いた、むき出しの指先はぬかるんだ墓場の泥に汚れており、
双子の天才児にあまりに似合わず、雲水にとってその光景はなんとも言い難い困惑と満足感の記憶と共に、
今も瞼に焼き付いている。



ふたりの秘密の記憶。








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