目撃






学生が絶対に忘れてはならないもの。
弁当、それと宿題。
教科書や筆記用具ならば借りる事で1日を凌ぐことが出来るが、この二つはどうにもならない。
電車で何駅も離れた自宅に忘れてきたのならばあきらめもつくが、
1.5キロかそこらの寮にあるのならばあきらめがつかない。
宿題と体力に自信のあるものならばなおさらだ。


「じゃ、俺行って来ます!お先に失礼っす!!」
朝練の後片づけを終えるやいなや、着替えもせず一休は寮へ向かった。
アメフト以外の事には比較的ルーズな神龍寺ナーガの面々は、呆れ顔で一休を見送った。
彼は朝練と1時限目の間に学校と寮を往復するつもりなのだ。たかだか宿題のプリントの為に。
「一休!バック走で行けよ!そっちのが早えぇだろう!!」
ゴクウがそう叫ぶと部員の面々は笑い、それぞれに一休の背中に弥次を飛ばした。
アメフト部2年は事あるごとに後輩の一休をからかい、おちょくるが実際一休は彼らに可愛がられていた。
才能あふれる下級生などという存在は試合の中でこそ重宝がられるが、
上級生にとってあまり面白い存在ではないはずだ。
けれども一休を目の前にするとあまりに素直なその人柄に、
誰もがつまらない意地などいつの間にか忘れてしまう。
そして神龍寺ナーガはその強さゆえに神聖視されがちだが、なんの事はない。彼らは全員が努力の虫なのだ。
一人を除いて全員が全員の事を認めるほど、彼らの努力は凄まじい。
(負けず嫌い)などと言われてはいるが、細川一休の努力を皆認めている。
それでもなお嫌みなく笑う一休をもしかすると尊敬をもしているのかもしれない。


一休は寮へ着いた。
課題のプリントは自室の机の上にあった。
こんなにも堂々と置かれているにもかかわらず、
すっかり見落とした朝の自分を恨めしく思いながらプリントを掴んだ。
当たり前の事だが始業ベルまであと僅かである時刻の寮は、閑散としている。
寮で雇っている掃除人などの姿がたまにあるくらいで、
寮生のいない寮は一休の知らないどこかの建物のように感じられた。
ここで一休は寮玄関まで行き、靴を履き替え学校へと急いで戻らねばならないはずであった。
あったはずだが、一休は自室のある三階から一階の玄関まで階段を降りず、
二階廊下へ続く踊り場で立ち止まった。
廊下に掛けられた時計を窺い、少し考え込むとそのまま二階廊下へ足を運んだ。
決して時間に余裕があったから寄り道を思いついた訳ではない。
時間は相当差し迫っており、一休の足でも予鈴に間に合うか怪しいところだ。

だが、
一休は勝てなかったのだ。
遅刻の罰を頭から追いやってしまうほどに強烈な好奇心に。
一休はある場所で立ち止まった。
ここまで歩いてきた彼の歩く速度は決して速くはなく、むしろじっくりと廊下を踏みしめて歩いてきた。
二階の廊下。
それはすなわち二年の寮生の部屋の並ぶ廊下だ。
一休がたちどまった場所。
それは金剛雲水と金剛阿含の部屋の前だ。
ドアが開けっ放しの部屋が随分とある中で、彼らの部屋はきっちりと閉められていた。
内鍵はついているが、外鍵はついていない。寮内でときおり盗難騒動がおこるのもこの為だ。
あの夜と同じ姿でドアは一休の前に現れた。
けれども今この部屋に鍵はかかっていない。
かたく閉ざされてはいるが、目の前のドアを隔てた空間は無防備に侵入者を許すだろう。
そして何事もなかった様に脱出する事が可能だろう。部屋は何も言わない。
古ぼけた銀色のドアノブをほんの少しひねるだけで、
もしかしたら手を触れる事ができるかもしれない。

彼らの秘密に。

一休が彼ら2人の会話を聞いてから数日が経過しており、
一休自身にとってその出来事は薄れつつあるものとなっていた。
推測通り、雲水にも阿含にも何の変化も見られなかったし、
なぜあの時(2人に秘密がある)という事実が耐えられなかったのか訝るくらい、一休は平常を取り戻していた。
平常を取り戻したと思ってはいたが、どうやらそれは消えた訳ではなかったようだ。
普通に生活していては決して知ることのできない秘密のヒントが、
ただドアノブを回してほんのすこし踏み込むだけで、
手に入るかも知れない。
忙しい日々に塗りこめられたかに思われた一休の欲望は、ドアと共に再び復活を遂げた。
欲望のままに行動することは浅ましい。
けれども一休はこの欲望が、こうしてまた自分の中に現れる事を知っていた気がした。
一休は今から、先輩の部屋へ誰にも見られず誰にも知られず、忍び込む。

ほんの少しだけ。
何も触らないし、もし何かを見てしまったとしても口外しない。
自分の立っている廊下と、このドアの向こう側。
薄っぺらい木の板があるだけで大して違わないじゃないか。

一休は自分にそう言い訳した。
その薄っぺらい木の板の向こう側と今立っている廊下では、距離にすれば一歩分だが、
その隔てる距離の大きさに一番気付いているのは一休だった。
一休は横断歩道を渡る前の子供のように、左右を見、目撃者がいない事を確認すると、
あの夜のように右手をドアへかざした。

コンコン

そのちいさなノックがなんの意味ももたない事を一休は知っている。
目撃者がいない事は明白なのだから、あとあとの言い訳に使う訳でもない。
強いて言えば、自分とこの部屋の持ち主への言い訳。
ノックをしたからには、素早く遂行しなければいけない。
ここで後戻りをすることなどいくらでも出来るはずだが、一休にはそうは思えなかった。
意を決してドアノブを回し、ドアを押した。
一休の決意に反してドアの開く感触はあまりに軽く、拍子抜けをした。
部屋の窓はカーテンが開かれており、一休の想像よりもずっと明るかった。
6帖の和室はきちんと片づけられており、2組の布団は三つ折りに畳まれ部屋の隅へ寄せられていた。

一休は後悔した。
驚愕の真実がそこに転がっていた訳ではない。倫理に反する行動をした自分にでもない。
その部屋はあまりに見覚えのあるものだったからだ。
それまで一休の頭を巡っていた、金剛兄弟の(秘密)の空想。
それはとりとめもなく、時には漫画や映画のようなインチキ臭いものではあったが、
彼の想像できる限りの秘密は姿を消した。
一休はたびたびこの部屋を訪れていたし、長居することもある。
その部屋とこの部屋の印象はあまりに一致するものであり、
一休の思っていたような(秘密)が隠されているようには思えなかった。
ならばわざわざこっそりと忍び込むなどという罪を犯さなくてもよかったじゃないか。
一休は激しく自己嫌悪に陥った。
それでも一休は目撃者を避けるため、急いで部屋へ入りドアを閉めた。
外界から遮断された空間となった部屋で、一休は初めて自分の心臓が壊れそうなくらいに暴れている事を知った。
その無音の部屋にひとつだけ運動するものがある。
目覚まし時計。
静まりかえったこの他人の部屋でその秒針の音はやけに大きく響いた。
その秒針と速さを競うかのような、激しい自分の心音。
一休は少しでも鼓動の速さを和らげるため、大きく息を吐いた。
そして部屋を見回した。
自分の部屋とはまるで違う部屋。
広さから言えば6人部屋である一休の部屋の方が広いはずだが、この部屋には圧倒的に物が少ない。
いつまでも畳を占拠し続ける古雑誌や、たまった洗濯物の影はない。
ちりひとつない机と、つくりつけの箪笥。きちんと積まれた布団。
あとは朝の光を目一杯うけた畳の目地が広がっている。
ここは金剛兄弟の、というよりは金剛雲水のテリトリーである。
さっきまで自分を攻め立てるかのように聞こえた秒針の音は、次第に心地良いものとなった。
そして再び見た目覚まし時計の長針に、一休は自分の立場を思い出した。
学校へ戻らなければいけない。
ドアを開ける前の期待、部屋に入ってからの罪悪感、
そのどれでもない親しみのような感情が、一休にこの部屋を去る事を名残惜しい、と思わせた。
できればここで、この部屋で、昼寝でもしてみたい。そう思った。
けれどもここで昼寝をするわけにはいかない。当たり前の事だが。
一休はそっとドアを開け、やっと廊下が見渡せるくらい頭を出し、そこに人の気配が無い事を確認した。
そして素早く廊下へ出て、静かにゆっくりとドアを閉めた。
ドアさえ閉めてしまえば任務は完了したも同然だ。
もう誰に目撃されたとしても怪しまれる事はない。
けれども廊下に出ると共に再び現れた罪悪感から、一休はそのドアの前からできるだけ速く遠ざかりたいと思った。
ドアの前をスタート地点として学校まで一休は立ち止まる事なく走った。
魔がさしたとはいえ、あまりにくだらなくて姑息な行動に出た自分を責めながら、
けれども誰にも見られる事なく脱出できた事への安堵感で一休の身体は軽かった。




けれども一休は知っていただろうか?



無遅刻無欠席の兄があずかり知らない彼の行動を。
夜通し遊んで帰ってきた彼が、仮眠を取る為に時々この部屋へ帰って来ていた事を。

一休の出来心を目撃した人物がいる事を。







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