名前






「一休」

葉桜眩しい五月の朝、入学気分も色あせた頃。
金剛雲水が、俺の名を呼んだ。



高校アメフトの名門校。
神龍寺ナーガこと神龍寺高校のアメフト部に所属して、俺は初めて名前で呼ばれた。
同期の(新入部員)が何十人いたかわからない。
神龍寺はアメフトにおいては名門なんだ。
そりゃあもう、沢山いた。一週間も経つと新入部員は半分以下まで激減した。
辞めていった奴等は、神龍寺に入れば強くなれるっていうわけじゃないって事が、解ったんだ。
中学時代有名だった奴も辞めた。プロの息子だって奴も辞めた。
とにかく、沢山の奴が入って、辞めた。だから一年に名前を尋ねる先輩なんかいやしない。
どうせ、辞めるかもしれないし。
俺は辞める気なんかさらさらなかったけど、
やっぱり先輩から見ればタダの(いっぱいいる一年)の一人だったから、
「ホクロ」とか「小さいの」とか呼ばれてた。
まあ、アダ名がついているだけ随分マシな方だと思う。
でもなんていうか、自分で言うのもどうかと思うけど、
俺はそこらの十把一絡げとは一緒にされたくはなかったから、多少不満だったと思う。
そんな時、雲水さんがある日突然名前を呼んだ。
誰だって誰かの名前を呼ぶときは(ある日突然)に決まってるんだけど。
入部して最初の自己紹介以降、俺は先輩に一度だって名乗ってないのに、
前から知ってたみたいにごく自然に俺の名を呼んだんだ。
とにかく俺はひどく感動した。
それから他の先輩達も俺の名前を覚えて、呼ぶようになった。
そんな先輩を、どの先輩よりも好きになってしまったっていうのは別におかしい話じゃないだろ?
とにかく俺は雲水さんに親しみを覚え、雲水さんの隣を陣取るようになった。
雲水さんの隣というポジションが確立してきた頃、彼は現れた。



「阿含」
雲水さんがそう呼んで、俺は振り返った。
俺は知っていたからだ。金剛阿含という名を。
もちろん入学前から雲水さんの事も知っていた。
アメフトをやるために神龍寺を受験しようとする中学三年生が、この二人を知らないはずはない。
辞めていった奴等だってみんな知っていた。
けれど奴等は金剛阿含を見る前に、退場していったんだ。
というのも俺が入部して一ヶ月、阿含さんは一度だって部室に現れた事がなかった。
もちろんグラウンドにも、トレーニング場にも。
「どうしたんだ、その頭」
確か山伏先輩がそんな事を言ったんだったと思う。
「ブラジル行ってカポエラ極めてきた」
阿含さんの言った(カポエラ)が何なのかその時は知らなかった。
あとで調べたらブラジルの格闘技だった。なるほど(カポエラ)をやる人は阿含さんのような髪形だった。
「嘘つけ!」
「どうなってんだそのアタマ」
「一ヶ月で髪伸びるの早くないか?」
先輩達は興味津々に阿含さんに質問していた。

そのあとの光景を俺は今でもはっきりと覚えている。
阿含さんは先輩達に囲まれていた。
その少し後に俺等一年がちょっと緊張しながら、
初めて見るあの(金剛阿含)を見物していた。
俺も見ていた。
思ったよりはデカくないんだな、とか。凄く怖そうだな、とか考えていたんだと思う。
その阿含さんがふと、先輩達の頭ごしにこっちを見た。
濃いサングラスをかけていたから視線ははっきりとはしなかったけど、俺を見たんだと思った。
そして言った。

「タダイマ」

そう言ってふてぶてしく笑った阿含さんの顔。
俺はびっくりしてポカンとしてしまった。すると俺の後から声が聞こえた。

「遅いぞ」

そう言った雲水さんの無表情な顔の笑った目。
とてもごく自然に、もともとあったものが元に戻った様に、
(雲水さんの隣)が(阿含さん)になった瞬間。
その事に気付いた自分。その事に気付かない部員達。そんな事を気にも掛けない二人。
それに対する感情が、とても大きな感情があったけれど今はその事を考えないようにしてる。
その感情に名前を付けないようにしてる。
多分、なんの意味もない事だから。
だから、俺は明日に意味のある事をする。
例えば明日は土曜日で、部活は朝七時から始まる。
授業はないから遅くとも3時には練習が退ける。
そうすると俺達神龍寺アメフト部にもみじかい休日が訪れる。
その休日のためになる事をする。
俺は映画が結構好きだったりする。
ハリウッドアクションからフランス映画。時代ものからファンタジーまで、何でも観る。
でも誰とでも観るってわけじゃない。映画の最中にしゃべる奴っているだろう。
俺の友達は結構そういう奴が多くて、一人で行く事が多い。
彼女がいたときは彼女と良く行ったけど、今はいないし。
彼なら映画の良いところでへんなツッコミ入れたりすることはまず無いだろうし、
落ち着いて映画鑑賞ができると思う。
まあ、これはちょっと言い訳なんだけど。
明日の為に俺はメールを打つ。
ちょっと下の階まで降りれば会って言う事もできるんだけど、今は少し行きたくない。
犯人は現場に戻るっていうじゃないか。
なんかこう気が進まない。
彼は自主練習がどうのとか言うかもしれないけど、どっちにしろメールはすぐ返ってくるはずだ。
思った通りすぐにメールは返ってきた。

わかった。
準備が済み次第、寮玄関に行く。

笑ってしまうくらい短い文章が彼らしい。
その後俺はケータイのネットで映画の上映時間をチェックして、眠った。




「雲水さん、鬼早いっすね」
俺が急いで着替えて寮玄関に行った時、雲水さんがすでに待っていた。
「そうか?」
雲水さんは常に5分前どころか20分前行動の人だ。
だからこそ俺も急いだんだけど、雲水さんはやっぱり先に来ていた。
「雲水さんキャップなんてかぶるんすね!」
雲水さんは黒いニットキャップを眉の上くらいまでかぶり、
グレーのジップアップパーカーにジーパンという格好だった。
「阿含のお古だがな」
少し照れ臭そうに笑って、ニットキャップの頭を掻いた。
俺達はバスで駅前に出て、ファーストフードで軽く食ってから映画館へ向かった。
映画館は公開日から結構日が経っていることもあって、たいして混んではいなくて座席もすいていた。
俺はジュースを買ってから席についたけど、
雲水さんはトイレに行きたくなるからと飲み物は買わなかった。
それどころか予告が始まってから一応、と言ってトイレに立った。
映画の本編が始まって40分。
俺はハズレ映画のスクリーンの前で戦っていた。
映画は金はかかってそうだけどいかんせんテンポが悪く、
練習後という事もあってまぶたが重くてしょうがない。
1500円も払っているのだから元を取りたいが、
もうほとんど俺の体は座席と一体化しているんじゃないかというくらい重くて、
大音量の銃声も、爆発シーンの雷のような光も、全く気にせず眠れそうだった。
眠たい。
このまま眠ったらどれだけ気持ちがいいだろう。
でもせっかく来たのに。でも眠たい。
俺の意識はやけに明るいスクリーンと眠りの間を行ったり来たりしていた。
身体が重い。特に左肩が。
雲水さんはちゃんとに観ているだろうか。
ふと気になって隣を見ると、
真剣な顔をしているか大あくびのどちらかだと思った雲水さんがいない。
いや、眠気で僕の脳みそも大分溶けていたから気付くのが遅かったんだけど、
雲水さんは隣に座っていた。
俺の左肩に頭を乗っけて。

寝てる。

俺はいくらか覚醒して笑いそうになった。
だって完全に眠っているんだよ。雲水さん。
どうりで左肩が重いと思った。
よくこんなうるさい所で熟睡できるなあ、と感心した。
さっきまで俺も寝そうだったんだけどさ。
俺の首筋に当たる雲水さんのニットキャップがくすぐったいけど、
おそろしく安らかな顔で眠ってるから、起こす気になれなかった。
あらゆる苦悩から開放されたような顔で寝るなあ。
俺はだいぶ頭が冴えてきたので、もう一度スクリーンに顔を向けた。
もしかしたら今からでも少しは楽しめるかも知れない。
余談だけども映画館の座席のひじ掛けって取りあいにならない?
一つの座席に両腕分のひじ掛けはついてないからさ。
俺は雲水さん側のひじ掛けに肘をかけていたんだけど、
うとうとしている間に雲水さんに取られてしまった様だ。
俺は仕方なく膝に両手を乗せてスクリーンを眺めた。
隣の雲水さんがもぞりと動いて、小さくうなった。
寝言なんかいわなきゃいいけど・・・そう思った瞬間。
俺の左手がすごいあったかいものに包まれた。
温かくて、厚みのある何か。
手だ、
と思った。
俺はおそるおそる見た。
何かに包まれている自分の手じゃなくて、横で眠っているはずの雲水さんを。
雲水さんは相変わらず首を曲げて、俺の肩に頭を預けてる。
きっと起きたら首が痛いって言いそうな体勢で。
いつもの雲水さんからは想像できないくらい、体中の力が抜けている。頬、肩、腕。
その腕が伸び、僕の座席まで投げ出されている。
指先が、俺の手を完全に覆い隠していた。

俺は動けなくなった。
いや、ここは映画館で、映画を観ていて、隣の雲水さんは俺に頭を預けて寝ているわけなんだけら、
動く必要はないんだけど。そういう事じゃなくって。

俺は動けなかった。
とっさに思い浮かんだ言い訳は、
(ここで手をほどこうとしたら、雲水さんが起きてしまうかもしれないから)だった。
でも、だったらその次の俺の行動はいらないはずだったんだ。
俺は何かに操られていると思った。
なにも考えられないくせに、身体が動いていた。
俺はゆくっり気付かれないように左手で、雲水さんの手をほどきその手でそのまま、
雲水さんの手を、握った。
すごく回りの人間に見られている気がして、
目だけはスクリーンや前の座席の頭をさまよってた。
雲水さんの手は、眠っているから当然なんだけど、静かで少しも動かなかった。
おとなしく俺の手に握られていた。
自分がとてつもなく卑怯な事をしている気がして、手を離そうかと思った時、隣から声が聞こえた。
隣というのは空席の右隣ではなく、雲水さんの座っている左隣からだ。

「一休」

まずい、雲水さんが目を覚した。
だから早く手を離せばよかったんだと、激しく後悔した。
それでも俺の身体は手を離す前に、隣を見ていた。
目を覚ました雲水さんを。

「オマエ、何考えてんの?」

雲水さんは俺の肩に頭を預けたまま見上げるかたちで俺を見て、
口の端をつりあげ笑った。

違う。
雲水さんじゃない。

俺の手のひらの下で無防備に投げ出されていた彼の手がすばやく動き、俺の手を取った。
「ダマされた?」
彼はそう言って捕らわれた俺の指先に、音をたてて口付けをした。
まるで王子様がお姫さまにするように。

知っている。この人の名は。

彼はあいた手で被っていたニットキャップを引っ張った。









「阿含でした」






突如現れた黒い髪の束。
さっきまで無かった目の光。

嘘だ。

こんな事、ありえない。

今すぐこの場所から、この世界から、

いなくなりたい。


俺は、動けなかった。








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