俺以外の着信を知らせる震動音。
頭に響いて耳障りだ。
息の根を止めてやろう。
手を伸ばすとそいつは急に黙り込み、小さく点滅を繰り返した。
出口
阿含はこの日も早くに帰寮していた。
つい先程同室の兄に、酒臭い息と煙草くさい髪をなんとかしてこいと小言を言われたばかりである。
いいか、俺が便所から戻ってくるまでに風呂へ行け。
帰って来るまでいたら丸刈りにしてやる。
そう言って彼は便所に立った。
丸刈りになったら俺等見分けつかなくなっちゃたりして、
そんな事を考えて未だに畳に転がっている阿含に届いた着信音。正確には音ではなく振動だが。
阿含は自分からの着信を知らせる雲水の携帯電話を見たことが無い。当たり前の事だが。
阿含の知っている(雲水のケータイ)は、いつだって(阿含以外の誰か)の着信を知らせている。
母親からの電話であったり、神龍寺生からのメール等が主である。
阿含の携帯電話のように得体のしれない女からの着信や、不作法な明け方近くの着信は無い。
阿含は畳に仰向けに寝転がったまま手を伸ばし、雲水の携帯を掴むと手慣れた動作でボタンを押した。
(Eメール1件)
(未読メール/細川一休/お疲れさまっす)
阿含はなんの躊躇もなくそのメールを開いた。
(雲水さん明日の練習後ってあいてますか?もしあいてたら映画とかどうっすか?
ジャンレノのやつなんすけど。もしOKなら練習後着替えてから寮玄関集合って感じでどうすか?)
阿含はメールを読み終えると、眉一つ動かさずに素早く携帯電話を操作した。
送信ボタンを押し、送信完了のディスプレイを確認すると、
先程の一休からの受信メールと、阿含による返信メールを削除する。
そして雲水の携帯電話を畳に放ると、むくりと上半身を起こした。
「阿含、丸刈りだ」
雲水が後に立っていた。
「アラ」
阿含は振り返って雲水を見上げた。
「アラ。じゃない、もうすぐ風呂の時間が終わるぞ。それとも刈られる為に待ってたのか」
「行きます、行きますって」
阿含はよっこいしょと言わんばかりに立ち上がる。
「アタマ刈られたらリアクション薄くなるじゃん」
阿含は箪笥からタオルと着替えを引きずり出しながら言った。
「・・・何の?」
雲水は畳に腰をおろしながら阿含を見た。
「イッキュー」
そう言って阿含は部屋を出た。
部屋に残された雲水は何の事だかわからんといった顔で、阿含の出ていったドアを振り返った。
こういう遊びは真剣にやればやるほど面白い。
一休との約束の日、練習に出なかった阿含は寮玄関にだいぶ早く到着していた。
雲水の古着のパーカー、雲水のリーバイス。雲水のハイカットのオールスター。
彼は帽子という物を持っていないようだ。
仕方なく阿含は昨年愛用していた黒いニットキャップを深く被った。
足音が聞こえる。走っているようだ。どうやら来たらしい。
今日の阿含の遊び相手。
今日の彼のお姫さまが。
「雲水さん、鬼早いっすね」
そらそうだ、俺は練習出てねぇからな。
阿含は笑いそうになるのをこらえ、双子の兄の仏頂面を思い浮かべながら言った。
「そうか?」
上出来だった。
「なんか言えよ」
一休は完全に停止していた。
しかしそれは停止しているように見えるだけで、実際一休の脳はフル稼働していた。
一体いつから雲水が阿含になったのか、トイレに立った時からだろうか。
いや雲水がそんな事をするはずが無い、では最初から阿含だったのだろうか。
映画館のシートに接した太股が、汗ばんでいるのがわかる。
最初から阿含だろうが途中から阿含だろうが、この状況が変わるわけではない。
この状況。
隣で眠っていた雲水の手を自分が握った。
先輩の手を後輩が握った。
その先輩が目を覚まし、その先輩が。
金剛阿含だった。
もし本当に雲水だったら、ごまかす自信はいくらでもあった。
逃げ道は無限にあった。
けれど、雲水は阿含だった。
もはや逃げ道は皆無だ。
用意していた退路に鉄の扉が閉まってしまった。
逃げ道が無いと、俺はどうなるんだ?
「出ようぜ」
未だ映画は中盤といった所だ。阿含は立ち上がり、捉えたままの一休の指先を引っ張った。
一休はそれに従った。
映画の中盤、自分と阿含の手をつないだ影がスクリーンを大きく遮ったが、
一休は身を屈める気力もなく、阿含に服従した。
2人はロビーに出た。
ロビーは蛍光灯の軽薄な明かりで目を刺す程に明るい。
阿含はすこし目を細めると、パーカーのポケットから例のサングラスを出し、器用に片手で開いてかけた。
「逃げんなよ」
自動販売機の前で阿含はそう言うと一休の手を離し、
ポケットを探って小銭を出し自販機で缶コーヒーを買った。
プルタブをあけると2口ほど飲み、一休に視線を戻し言った。
「ノド乾いてたんだよ。雲水、映画館でぜってー飲まねえからさ。リアリティがあんだろ?」
そういって笑った顔には雲水の面影はなかった。
地味な格好をしていても、笑っても、一休の目の前にいる人間は(阿含)だった。
その事実が先程かけられたサングラスによって決定づけられ、一休に絶望感を与えた。
「んだよ、つまんねーな。なんか言えよ」
阿含はコーヒーの缶の縁を、ひとさし指と親指だけでつまむように持ち、
半分ほど中身の入ったそれをコン、と一休の額に当てた。
「・・・・ひどいっすよ」
一休の俯いたまま発した声は少しかすれていた。肩はすこし震えていた。
「アハ、お約束」
阿含は肩をすくめて嬉しそうに言った。
「鬼ひどいっす。なんでこんな事するんすか」
肩の震えは止ってはいないものの、今度は阿含の顔を見てはっきりと言った。
阿含は片方の眉だけを上げ、一休を見ると缶コーヒーをひとくち飲んで言った。
「別に。暇つぶし」
その言葉を聞いた一休の目に力が戻る。
「ナニ?その目。雲水には優しいのに、俺にはコワいね」
台詞こそおどけているが、おそらくサングラスの向こうの阿含の目は笑っていない。
怯んでいないといえば嘘になるが、一休は目を逸らしはしなかった。
阿含は缶コーヒーの最後のひとくちを飲むと、
90度ほど顔の向きを変え、空き缶をくずかごに投げた。
映画上映中のロビーには売店のアルバイト以外の人気はなく、
分厚いドアの向こうでは未だ映画の爆音が響いており、ロビーにくぐもって響いていた。
くずかごの中の空のガラスやアルミと、阿含の投げた缶のぶつかりあった音だけが、ロビーに狂暴に響く。
「ウチのお兄ちゃん狙ってんの?」
阿含は一休に顔を戻しざま言った。
「・・・・・」
一休はわずかに視線を逸らした。
阿含の言葉の意味は理解できる。
そう思われても仕方のない事を自分がした事もわかっている。
しかし果たして自分の雲水への気持ちはそういう物だったのか?
尊敬している、本物の兄のように思っている。
けれど阿含の言ったような意味で雲水を見ていたわけじゃない。
しかし先程の自分の行動。
一休は彼の横顔を思い浮かべる。
「だったら、何なんすか」
百歩譲って阿含の言う通りだったとしても。
「阿含さんには」
たとえ双子の兄弟だろうと、その2人の間になにがあろうと。
「関係、ないじゃないすか」
一休の目と声からは、後ろめたさも脅えも消えていた。彼の肩の震えは止っていた。
阿含は両腕をパーカーのポケットに突っ込み、無表情に一休を眺めていた。
そして一休の強い口調をかわすように、阿含はさらりと答えた。
「まあな」
そう簡単に言われると一休の言葉は行き先をなくし、一休は言葉に詰まった。
「別に邪魔しようなんて思ってないぜ」
阿含の声は冷静で、怒っているでもなく、馬鹿にしているわけでもない。
阿含はポケットから片手を出し、自分より背の低い一休の逆立った髪に指を梳き入れた。
一休の体が撃たれたように緊張する。
阿含の五本の指の間に、一休の黒くかたい髪が屈する事なく天に伸びて繁っている。
その黒い毛束をやわらかく握り、阿含からの前方、一休からの後方へ強引に力をこめる。
「!」
一休の首は後に引かれ、顔は仰向けられた。
苦しげに仰向けられた一休の顔へ、阿含はそっと近づいた。
「邪魔なんかしねぇよ」
ちいさく、静かに阿含はささやく。
そして微笑む。
「オマエは所詮、セロテープだ」
阿含は小指から順番に1本づつ指を離し、一休の髪を解放した。
一休が戦慄したのは、暴力の予感ではない。
阿含の恐ろしく優しい声。
その声はあの双子の兄と、そっくり同じだった。
「そのこころは」
そう言って阿含は姿勢を正すと、にやにやと笑って言った。
「何のイミも無い」
セロテープ。意味がない。いつかそんな話をした事がある。
一休は動揺した頭で、漠然と思い出す。
すると阿含は一休の髪を掴んだその手を、今度は自分の口の横に当て、
顔をどこか明後日の方向を向け言った。
「ウマイ!山田君!!座布団いちまい!!」
一休はぼう然と立ち尽くし、阿含を見ていた。
何を言っているんだ、この人は。
何をやっているんだ、俺は。
明後日の方向から帰ってきた阿含の顔が、笑えよと言わんばかりである。
反応のない一休の顔を見て、阿含は大げさにため息をつき、心底つまらなそうにボリボリと頭を掻いた。
「んじゃな、イッキュー。精進しろよ」
そう言うと阿含は一休の横を通り過ぎ、
ロビーに口笛を響かせながら映画館を出ていった。
映画はクライマックスのようだ。
飽きもせず漏れる爆音と共に、観客のあくびが聞こえてきそうだった。
この映画館が世界の全てならいいのに。
阿含の出ていった、ガラス戸の開け放たれた出口を出たら、
俺は途方に暮れる。
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