静かに澄んだ闇がにごる。
自分のテリトリーと化していた狭い室内の空気が、
煙草とアルコールと人工的なあまい香りに侵される。
弟が、帰ってきた。
ふたりの夜
雲水はふとんにもぐりこんだまま、薄目を開けて闇のなかの人影を確認すると、
また目を閉じた。
その影はごそごそと動き、畳に柔らかい布や金属をを次々に放ったかと思うと、
すぐに隣の布団にすべりこむ気配がした。
また、服をたたまなかったな。
雲水は頭のなかでため息をつく。
隣の弟は眠るために快適な体勢を模索しているようだ、落ち着かない。
やがて闇のなかから声がきこえる。
「雲水。こっち来いよ」
雲水も薄々感づいてはいたが、この弟に狸寝入りは通用しないらしい。
「・・・・」
それでも雲水は狸寝入りを続行した。
寝たふりをしたいのではなく、阿含の言うことを聞きたくないという主張だ。
「ムシすんな」
すこし苛立ったように阿含が言う。
それでも雲水が無視を決め込むと、隣でばさり、と音がして阿含が立ち上がった気配がする。
仰向けに寝ていた雲水は、タイミングを見計らって右足を天井に向かって上げる。
「ぐっ」
雲水の足裏が固い感触を感じた瞬間、天井の闇から声が阿含のうめき声が聞こえた。
おそらく顎あたりにヒットしたらしい。
「テメー。やっぱ起きてんじゃねぇかよ」
上げた右足の足首を捕まれる。
捕まれるとぐいと布団まで降ろされ、布団ごしの腹にどすんと重さを感じた。
「阿含のマウントポジション!雲水、絶体絶命です!」
こっちは眠入りばなだったというのに、対して阿含のテンションは高い。
暗闇で顔は見えないが、声色がすこし興奮している。
雲水はうんざりと同時に怒りを覚え、両足の膝をまげて足裏を布団につき、腰を上げるように身体をひねる。
「うおっ!オマエ、ヒョードルかよ」
上に乗った阿含は少し身じろぎはしたが、今度は上半身を倒し、雲水の首を両腕で巻き込んだ。
阿含が外で付けてきた色々のにおいが、近くなる。
「阿含、お前臭いぞ」
阿含は上半身に何もつけておらず、雲水はその裸の背中をぱちんと叩いて言った。
「そんな飲んでねーよ」
阿含は雲水の首に巻き付いたまま言った。
「煙草臭い」
「まあ、それは俺だけのせいじゃねーし」
ああ言えば、こう言う。
「女臭い」
雲水も少々むきになった。
「でも今日の本命はオトコだったんだぜ」
すこし楽しげに阿含が言った。
「・・・もういい。離せ」
雲水は、ばからしくなって話を切り上げた。
「ギブ?ちゃんとタップしろよ」
阿含は雲水の首にまきつけていた腕に少し圧力を加える。
雲水は若干の腹立たしさを覚えたが、素直に布団を手で三度、叩いた。
「・・・おい」
雲水は首に巻き付き離れようとしない阿含に声を掛けた。
「・・・・・」
仕方なく雲水は上に乗った阿含のわき腹をつかみ、降ろそうとした。
阿含の上半身が震えている。不審に思うと雲水の耳元でくぐもった声が聞こえる。
笑っているようだ。
「?」
雲水の手がとまる。
「雲水さ、くくく。意外にモテんだな。知ってた?」
耳元に押し付けられた唇で阿含が笑いまじりに言う。
「・・・知らん」
雲水はそう言うと、再び阿含のわき腹の手に力をこめる。
阿含は動くまいと身体に力を入れる。
「どけ」
「やだ」
わざわざギブアップまでしたのに、納得がいかない。
雲水はかたく握った拳を阿含の頭にぶつける。
「いてっ」
「どけ」
「やだ」
今度は何をしてやろうか雲水が逡巡していると、阿含の頭が動いた。
あたたかい、やわらか過ぎるものが雲水の唇に押しあてられる。
間髪置かず、熱すぎる舌が侵入してくる。
煙草とアルコールの味がする。
味こそないものの、その人工的な甘い香りの主の味もするのかもしれない。
雲水の首には相変わらず阿含の腕が巻き付いており、顔を動かすことはできない。
仕方ないのでごわごわした感触の髪に指を絡ませ引っ張るが、
全体重をかけて雲水に乗っている阿含を動かす事はできない。
無駄な抵抗をしている間に雲水の舌は阿含のなすがままにをからめとられ、彼は眉間に皴を寄せた。
阿含は唇をつなげたまま雲水の首に回した左手を抜くと、自分の下の雲水の腹あたりをさぐり、
Tシャツのすそから手を滑りこませた。
阿含の左手が抜けた事により首まわりに少し余裕の出来た雲水は、首と腹筋に瞬間的に力を入れ、
阿含の額に自分の額を思いきりぶつけた。
歯と歯がぶつかりあい、目の奥がつんとするような衝撃がにぶい音とはすこし遅れて走る。
頭突きをした本人でさえ痛いのだ。そして雲水の頭は固い。阿含よりも。
「クソ。痛てェ・・・・反則だ」
阿含は雲水の頭を抱き込むように、痛む頭を布団に沈めた。
「調子にのるな」
雲水は阿含の肩越しに天井の闇を見つめて言った。
阿含はしばらく唸っていたが、やがて上半身をおこすと言った。
「雲水。あきらめろって」
阿含はごろりと転がるように、雲水の身体から降りた。
「もう、わかってんじゃん。オマエだって」
阿含は雲水の横に仰向けに寝ているようだ。声が天井の闇に向かっている。
「・・・駄目だ」
雲水は自分の上で乱れた掛け布団を身体にかけ直し、言った。
「強情」
阿含の吐き捨てた言葉が天井の闇に反響する。
「しかも石アタマ」
阿含の声が少し遠ざかる。寝返りをうって雲水に背を向けたようだ。
雲水は改めて仰向けに寝ると、目を閉じた。
「馬鹿雲水」
「阿呆阿含」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
わかっていても、そう簡単に認めるわけにはいかない。
これがただの先延ばしにすぎないとしても。
今は。
「おやすみ」
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