あのあと鼻血はなかなか止らなくて、部屋についたら俺の顔を見た同室の奴等が、
血相変えてティッシュやら絆創膏やら持ちだしてきた。
その頃になってやっと、鼻の奥の方から、心臓の底の方から、じわじわ痛覚が戻ってきた。
打たれた鼻の痛みが頭痛を引き起こして、頭がガンガンする。
明日雲水さんの俺に対する態度を想像すると、頭が痛い。
阿含さんをムッとさせたんじゃなくて、
阿含さんを(キレ)させた自分の行動に、頭がくらつく。

「一休、何があったんだよ」
前に俺にのことをモノズキだと評価したルームメイトが、俺の顔をのぞき込んで言った。

金剛雲水に告白して、
金剛阿含に殴られた。

そう思った瞬間。笑いが込み上げてきた。

モノズキにもほどがある。






頭痛






しみるんだよな。まだ。
俺は放課後練のあと、部室脇の洗面台で気合いを入れていた。
殴られて早6日。
絆創膏が取れたとはいえ、阿含さんの手加減なしの強烈なストレートは、
俺の小鼻に小さいけれど深い傷を創った。
朝の洗顔、風呂、練習の汗を洗う洗顔。どれもまだ相当しみる。
俺は決意して蛇口をひねり、水道水を手ですくって間髪おかずに、顔に冷たい水をぶつけた。
こういうのは勢いが大切だ。おそるおそるやったら痛くて顔なんか洗えない。
4回ほど繰り返し、濡れた傷が外気に触れた途端、痛みが思い出したように襲ってくる。
「っつー・・・」
周囲に誰もいないことは確認済みなので、思わず声が出る。格好悪いから、皆とすこしずらして顔を洗いに来た。
俺はやり場のない痛みを拳を握りしめて耐えた。

「しみるか?」

背後からの聞き覚えのある声に、俺はびしょ濡れの顔のまま振り返った。
「まだ治らないか」
やはり、そこには雲水さんが立っていた。
こういう所は兄弟そっくりだ。いちばん居てほしくない場面に、気配もなく現れる。
「や、もう平気っすよ」
俺はそう言って急いでタオルで顔を拭った。
「そうか?」
(とてもそうは見えなかったが)と続きそうな表情で、雲水さんは俺の隣の蛇口をひねった。
「水が冷たかっただけっすよ」
俺の言い訳を聞きながら、雲水さんも顔を洗った。
蛇口から溢れる水を受け止める雲水さんの指を、目を瞑った水滴のしたたる横顔を。
俺は、夢中で見ていた。
視線に気付いたのか、蛇口を閉めながらまだ濡れたままの顔で雲水さんはちらりと俺を見た。
目が合うと、すこし照れ臭そうに笑った。
「なに見てる」
タオルで顔を拭いながら、そう言った。いつもと変わらないその表情。その言葉。
あれから雲水さんは俺が案じたような態度を、いっさい取らなかった。そして今日も。

「雲水さんっす」

俺は言った。
雲水さんは少し驚いたように目を開き、困ったように眉を下げて俺を見た。
後輩の、しかも男に告白されたんだ。
不愉快に思ったり気まずくなったりするのがたぶん普通だし、
雲水さんの性格を差し引いてももっとこう、ぎくしゃくするもんだろう。
けれど。
「雲水さん。全然、変わらないんっすね」
俺の口は動いていた。
俺はあのあと雲水さんに気持ち悪がられるんじゃないだろうかとか、
変に意識されて気を使われるんじゃないかとか、
考えだすと俺が告白したことで良いことなんか何ひとつなくて。
そうなるくらいなら、元の関係に戻りたいとまで考えた。
けれど、あの夜の事がまるで俺の夢だったんじゃないかと錯覚するくらい、
雲水さんは変わらなかった。いつも通り優しいし、いつも通り厳しい。
「俺のこと、気持ち悪くないんすか」
俺の口調は、まるで気持ち悪いと言ってもらいたいような調子だ。
実際、そう言って貰いたいのかもしれない。
「気持ち悪いわけ、ないだろう」
雲水さんは意外な事を言われたような顔で答えた。
すぐ側の、同性の後輩に恋心を告白されて、肯定も拒絶も、ぎこちなさもない。
まるで元どおり。

「じゃあ」

言うな。
言ってはいけない。


「俺のこと、眼中ないんすね」


俺が、言い終わるか終わらないかのうちに、
雲水さんの顔色が微妙に変わって、またすぐに元に戻ったのを、俺は見逃すことが出来なかった。
雲水さんが一瞬だけ顔に出した色。その色の名前は。
図星。
「・・・・・・・」
雲水さんは探しているようだった。どうしたら俺を傷つけずなくて済むか。
その表情が、沈黙が、肯定になると、この人は知っているだろうか。

「すいません。困まるっすよね」

俺はそう言って、雲水さんの目を見ていられなくなった。
替りにまだ水滴の漏れる面白くもなんともない、ボロい蛇口を見た。

「男同士でありえないっすよね」

目の色を見なくても、伝わってくる雲水さんの困惑した空気。

「わけ、わかんないっすよね」

でも。俺のこの気持ちに行き場はあるんだろうか。
男同士だから、フラれたから、どうしようもないから。
だからってこの暴れる気持ちは消滅してくれるんだろうか。
眼中ないって言われても、気持ちが悪いと言われても、どうしようもなくても。
今現在、俺はこのひとがどうしても欲しい。

「俺も、困ってるんっす」

そう言って、俺はもう一度雲水さんを見た。
なんとか笑おうとしたけど、それが笑顔に見えているかは自信がない。
「・・・・・・・」
雲水さんの目はひどく何か言いたそうで、苦しそうだった。

(ブルルルルルルルル)

ケツのポケットが突然振動した。
携帯が着信したらしい。短く2度鳴って切れたことから、どうやらメールらしい。
急いでポケットを押さえつけたけど、雲水さんにも振動音は聞こえてしまったようだ。
俺はこの前携帯を持ち込んだことで、雲水さんに叱られている。しまった。タイミングの悪い。
俺がおそるおそる雲水さんを見ると、さっきまでの張りつめた表情が少しほぐれ、呆れ顔が混じっていた。
「すいません」
俺が頭を下げると、雲水さんは困ったような眉のまま、
すこしだけ笑った。

「雲水さん」

例えば、夕方身体がだるいと思って熱を計ったら、
夜には物凄い高熱がでて動くことさえ出来なくなるインフルエンザウィルスのように、
俺の恋は一夜にして全身に廻ってしまった。

「好きです」

確かに俺は雲水さんを困らせているだろう。
だけど。

雲水さんが、悪い。

「自分じゃ、どうにもできないんっすよ。だから」

雲水さんの表情に、またすこし影が戻る。その表情にまた俺の胸が痛む。
けど怯むな。
雲水さんが、悪い。

「俺は、あきらめないっす」

ここで雲水さんの返事を期待してるわけじゃなかったから、俺は言うだけ言って部室へ入った。
部室ではメンバーが着替えを終えて、帰り支度をしている所だった。
俺も早々に支度して、部室を出よう。雲水さんもすぐに戻ってくる。
ふとポケットの携帯に入ったであろうメールの事を思い出して携帯を開くと、
電話帳には登録されていないアドレスからメールが来ていた。
また出会い系かと一応開いてみると、そこにはこう書いてあった。

「校門で待つ 話がある」

あまりにそっけない文面な上に、校門ときている事から出会い系ではなく知人らしい。
もう一度、送信者のアドレスを確認した。



agon_k@ezweb.ne.jp



そうだった。

俺にはもうひとつ、頭痛の種が残ってた。









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