月光
「眼中ないんっすね」
雲水はずっと頭の中を旋回し続けていたその言葉を、思い切って捕まえた。
自然、手際よく布団を敷いていた手がとまる。
「好きです」
驚かなかったわけではないし、全く気にしなかったというわけでもない。
ただ、なんの違和感もなかった。ああ、きっとそうなのだろう。雲水はなんの抵抗もなく理解した。
一休のくろぐろとした目を思い出す。
あの目は自分を責めるように見つめていた。
「そう、だな」
雲水はひとり、つぶやいた。
自分は答えをやらなければいけない。
なぜ今まで放っておくことが出来たのだろう。
なぜと思いながらも、雲水にはわかっていた。他のことで頭の中が一杯だった。
コンコン
薄い木製のドアの向こう、誰かが訪ねて来たようだ。
雲水は立ち上がりざま時計を見た。10時20分。消灯からすでに20分が経過している。
考え事などしていなければ、雲水は布団の中だっただろう。
誰だろうか、こんな時間に。
阿含だったらノックなどしない。
鍵はかかっていないのだから勝手に入ってくるはずだ。
雲水は静かにドアを開けた。
「夜分おそくにすいません」
来訪者はドアが開くと同時に頭を下げた。
雲水はその仕草に一休を思い浮かべたが、やがて上げられたその顔は一休ではなかった。
二年生ではないし、部の一年でもない。知らない顔だった。
「何だ」
自分の顔を見ても動じないことから、部屋を間違えたわけでもなさそうだ。雲水は用件を訪ねた。
「あの、細川一休来てますか?俺、同じ部屋の」
黒いスウェットの上下にパーカーを羽織った少年は、申し訳なさそうに言った。
「一休?来ていないが・・・」
雲水がそう答えると、少年は眉間にかすかな皴をつくった。
「どうした?」
雲水の問いに、少年ははっとしたような顔をしたが、
もういちど眉間に皴をつくりなおし、そして覚悟を決めたように話しだした。
「あいつ、まだ帰ってきてないんです。
食堂でもフロでも誰も見てないし、なんかあったのかなと思って」
門限破りは神龍寺、特にアメフト部では大罪だ。
少年は告げ口するような形になってしまった事を気にしたようだが、
もしかしたらここかも知れないと思って、と付け加えた。
「電話はしてみたか?」
一休は携帯電話を校内に持ち込んでいる。
今日の放課後練習のあとも一休の携帯電話が着信したのを見たばかりだ。
あれからすぐに皆帰寮したはずだし、雲水も遅くとも8時には寮に着いていた。
すでに2時間半近く一休が消えている事になる。
「した・・・んですけど。出ないんです。一応鳴るんですけど」
雲水はそれを聞くと部屋へ入り、文机の上の自分の携帯電話を手に取った。
戸口にもどりつつボタンを操作し通話ボタンを押した。
1コール、2コール、3コール
しばらく呼び出し音が鳴ったのち、留守番電話サービスに繋がった。
最近、こんなことばかりだ。雲水は思考のなかでため息をついた。
雲水は発信履歴からもう一度一休にコールした。
1コール、2コール、3コール
「・・・もしもし」
ふいに雲水の低く静かな声が響いた。
所在なさげにしていた少年の顔が上がる。一休と繋がったのだ。
少年の期待とは裏腹に、雲水の顔は暗がりでもわかるほどに青ざめていた。
「・・・・・・・・・」
雲水の持つ携帯電話から、ぼそぼそと人の声が聞こえるものの、
雲水はなにひとつ喋ろうとはしない。
ただひたすらに頬を強ばらせて聞いている。
「そこへ、行く」
雲水は一言だけそう言うと、携帯電話を耳から離し、ボタンを押した。
雲水は手にした携帯電話をほんの数秒眺めていたが、自分を見つめる視線に気付き顔を上げた。
「行ってくる。お前は部屋に戻っていてくれ」
雲水は少年の目を見てそう言い、廊下に出るとそのまま後ろ手でドアを閉めた。
少年は状況が掴めないまま、すでに廊下を歩き出した雲水の後ろ姿を眺めていたが、
すぐに雲水の後を小走りで追った。
「雲水さん、あのこれ、着ていってください」
少年は自分の羽織っていたパーカを脱ぐと、雲水に押し付けるように差し出した。
「寒い、ですから」
雲水はジャージのズボンにサーマルのロングTシャツという姿であった。
一度自分の格好を確認すると、雲水は差し出されたパーカを受け取った。
「よろしくお願いします」
少年はパーカを受け取ってもらえた事にほっとしたように、深々と頭を下げた。
「ああ。悪いな」
雲水は 少年がなにも聞かずただ、お願いします、とだけ言った事をありがたく思った。
もし何かを聞かれても、雲水は説明できそうになかった。
からからから
木製の古い戸は、軽い音をたてて開いた。
その戸は1時間か2時間まえにも一度同じ音をたてて滑ったが、
その時にはこの音の軽率さには気付かなかった。
この古ぼけた木戸の2回開く間に、
世間の人間にとって他愛のない、いつも通りの、つまらなく、平凡な時間が流れていたのだろう。
まだ暦の上では秋だが、山の中という事もあり堂の外は随分と冷え込んでいた。
阿含は後ろ手でもう一度戸を閉めると、そのつめたい空気を吸った。
埃っぽかった肺のなかが、洗われる。
脱ぎ捨ててあった靴をちゃんとに履きもせず、かかとを踏みつぶして砂利を踏んだ。
月はたかく、ひとけの無い庭はしずまり返っていた。
じゃり じゃり じゃり
阿含の他にもうひとり、庭の砂利を踏む者がいた。
阿含はその音が近づいて来るのを聞きながら、
いまだぼんやりと黒い雲に隠れては見える、欠けた月を眺めていた。
「阿含」
その声と共に砂利を踏む音は止り、阿含の足もとに影をつくった。
阿含は見るでもなく月を仰ぎ、微動だにしなかった。
「一休はどうした」
その声は庭の空気と同じように、静かに、けれど冷たく澄んでいた。
「なか」
阿含は空を見上げたまま言った。
じゃり
阿含の足もとの影が、音につき従うように動いた。
じゃり じゃり じゃり
やがて音と影は阿含の背中を通りすぎる。
「雲水」
月に向かって阿含が言った。
じゃり。
音と影が静止する。
じゃり。
今度は阿含の靴裏の下の砂利が鳴いた。
彼は仰いでいた月に背を向け、自分の背後を振り返った。
振り返ったそこには月光に照らされた、雲水のしろい横顔があった。
雲水の横顔は決して阿含の方を見ようとはせず、一心に堂を見つめていた。
たとえ阿含がこちらを見ていようとも。
阿含が呼びかける。
「雲水」
雲水は振り向かない。
雲水の足もとにかかる、阿含の影がゆらぐ。
雲水は、かたく目を瞑った。
「雲水。あいしてるんだ」
声は、庭の砂利にも、池にも、月にさえも沁みこんだ。
ゆっくり、ゆっくりと雲水の瞼があがる。
じゃり
雲水の影が静止を解く。
じゃり じゃり じゃり
遠ざかる、影。
「雲水」
追いかける、声。
じゃり。
呼び止めたのは自分なのに。
踏みとどまったその影を、月光に照らされているであろうその背中を、
阿含は目で追う事ができなかった。
庭のくらやみのずっと奥、月のひかりさえ届かないずっと奥を、
見えもしない何かをまばたきもせず見つめた。
やがて、月光の方から声が聴こえた。
「駄目だ」
じゃり じゃり じゃり じゃり
やがて、あの軽い木戸の滑る音が聴こえた。
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